庫裏①

永禄九年(1566)九月三十日。明六つ半。

お目覚めですかお市さまと襖越しに声がかかり

「きのうの天気が嘘みたいにいい天気ですよ」

と襖を開けながらお徳が言った。

目は覚めていたがまだ寝床の中の市姫。

「お春が居て安心しました。死にそうな目に遭いましたもの」

とあくびをしながら言う市姫。

先乗りに同行していたお春が髪を梳きながら、「普段の行ないが悪いからそんな目に遭うのですよ」と言う口の悪さは何時ものこと。

いつだったか三郎信長の頭を触りながら

「三郎さまのおぐし細くなられて、もうじき禿げてしまいますよ」

と言って辟易させたこともある。

 

女達は雪に痛めつけられた行列の着物を繕ったりする作業を手伝うため直ぐ近くにある白川神社に朝から出かけていた。

用意されていた簡単な朝食を三人してとりお膳を片付けたお徳。

あくびを手で押さえ寝たりなさそうな市姫が、「わたくしまた寝ますから」と言ったので片隅に寄せてあった寝床を敷いたお徳が、「わたしも神社に、あとはお春さんお願いします」と言って襖を開け座敷を出ていった。

お徳が襖を閉めるそうそうに寝床に潜り込んだ市姫

それを見てお春も「私も神社に。大丈夫ですね一人でも」と言って出て行こうと襖を開けたとき小六を伴い冶重郎が姿を見せた。

あらまあとお春。

ちょっとここでお待ちくださいと言って襖を閉めたお春。

二人が来たことを市姫に告げると、仕方ないわねと市姫が抜け出た寝床をたたまず隅に寄せたお春が、どうぞお入りくださいと襖の外に声をかけた。

二人が入ってきた。

「おやおや冶重郎殿ではありませんかお久しぶり」

と寝そこなったことも合わせ嫌味を言った市姫。

そんなことには頓着なく

「ご無沙汰しています。お元気でなにより」

と言った内藤冶重郎と市姫を交互に見て笑った蜂須賀小六

ちょっと小六をにらんで市蝶が言った。

「おやまあっ小六殿まで。いまお徳が出て行きましたが会いませんでした」

「いやっ裏木戸から入ったので……」と言った小六が改まって「お元気そうで恐悦至極、です」と挨拶した。

クスと笑った市姫。

「お春と小六殿は初対面かしら?」

と言う市姫にお春が言った。

「知っているわよ小六さんは。むかし筏で木曽川を下ってきた人」

ああっと頷いた小六。

「冶重郎殿と三郎様と一緒に、満開の桜の木の下で手をふっていた女の子!」

「そう、そのときの女の子。久しぶり」

ところで「何故お徳殿のこと調べているの小六さんは?」とお春が言った。

「おやっそれは知りませんでした」と市姫「お徳は知っているのかしら小六殿のこと。知っているわねえお徳のことだから」と言った。

そして

「あのとき小六殿に揶揄されましたけど吾助に抱っこされて気持ちよかったのはほんと」と正直な市蝶。「それから吾助の怪力を目の当たりにしてびっくりした冶重郎どのお顔も面白かった」ともはや懐かしそうな風情で市蝶が言った。

あの雪に見舞われたときのことならと治重郎が言った。

「わたしはお市さまが落馬したときの方がびっくりしましたが……」

落馬⁉

「わたくし白竜から落ちて気を失ったの?そして吾助に抱っこされて気がついたわけなの?信じられないけど、わたくしを落とした白竜はどうなりました?」

気になりますと市蝶が言った。

「足を傷めて動けなくなったのでわたしが楽に……」と冶重郎。

「冶重郎どのが楽に……」何かを思い出しそうな市蝶。

「さよう。それからお市さまが足を傷めたと聞いた小六殿がこの近くにあった神輿を改造した輿を用意しているようです。お市さまに乗ってもらえるように」

と治重郎が力を込めて言った。

「白竜が死んだのでわたくしは輿に乗るのですか」と市蝶。

お市さまが輿に乗り代わりにお徳が馬に乗るのが小六どのの希望」と治重郎。

「お徳を馬に?」と首を傾げた市蝶。

「それはいいのですがわたくしは承知していませんよ輿に乗ることを」と言いさらに、「足はもう痛みませんし。それになぜお徳を馬に乗せたがっているのですか小六殿は?」何故と言う市蝶。

「お徳の乗馬着姿を見たいと」と言う治重郎は「お徳が乗っても恥ずかしくない見栄いのいい馬を小六殿が探しています」と付け加えた。

「もしかして」と市蝶。

「墨俣の砦で見たお徳の乗馬姿に……小六殿はお徳に惚れたの?」

と誰に聞くともなく聞いた市蝶。

「おやまあ。小六さんはお徳殿が好きなの?」とお春。

そうなのと念を押すように訊くとあわてた小六が、「いやっ、もうそんな惚れたはれたの歳ではありません」と髭まで赤くなった。

「お徳はもういい歳、小六殿とおにあいかも。でも小六どのはお徳どのに好かれているの」と首をかしげるお春。

「それは……」と自信無さげに髭を撫ぜる小六。

「お徳の気持はわたくしが確かめてみます。いい馬が見つかるといいですね」

と言ってふっと微笑んだ市蝶。

輿に乗ることを承知したと勝手に判断した場に緩んだ空気が漂った。

 

ここからは茶飲み話という感じでお春が言った。

「冶重郎さまも小六さまも女の気持は手の内で釈迦に説法でしょうけど、もし馬で早駆けしていて曲がりそこない木にぶつかって落馬したとしたらどう思います」

と治重郎と小六を交互に見て首を傾げた。

どう思いますかといわれても元々馬が苦手だからと苦笑した小六が、「おのれの間抜けさバカさ加減を笑うか嘆くか……」と言った。

正直な小六に改めて好感を持った市蝶。

ところが女はとお春。

「そこに木があるのが悪いと思えるの。とにかく木が悪いと言い張れるのが女の性。もっとも近頃では木が悪いと言い張る情けない男が多くてこまったもの。それはともかく理屈ではなく殿御は女御を理解していたわってあげないと、それが男の値打ち」

ねえっ冶重郎さまとお春に顔を覗き込まれたが、オレは鈍感だからと苦笑して言った。「しかし過ぎると男が参る。手が出る足が出る」

そこが問題なのとお春も笑って言った。

「手や足が出るのも困るけど、誇りを取り繕うためイクサを始めてしまうのが男。違いますかお市さま」

「違わないけど、男の誇りを操る女の怖さや狡さは女が知っています。でも、男女の仲は理屈ではありません。小六殿とお徳、二人はお似合いです」

どこか投げやりな市蝶が手で口を押さえてあくびをした。

さっしたお春。

お市さまはお昼寝をしたいようです」

と言って座敷を出たお春に続き座敷を出た二人の男は庫裏を出ながら(お春は大げさなのだ)と同じように思ったが口には出さず、庭を掃いている頬かむりした長身の寺男を横目に神社に向かった。

ひとりになった市蝶はふっと気が抜け無性に(小六殿も大変だ)と思いながら片隅に寄せてある寝床に入って長押の薙刀見ていたら瞼が重たくなった

極楽寺

永禄九年 (1566) 九月三十日 昼前 

極楽寺の大きな山門を潜った使者の三人。

正面に見える本堂の右手に建つ庫裏から、にこやかに現われたた小太りの男が佐内を見てちょっと驚いた顔をした。

「先乗りの明智光秀」と名乗った男に案内されて書院に入る。

すぐ口元にホクロのある女が入って来て、湯気の出ている湯飲みを載せたお盆を座卓のうえに置きお辞儀をして出て行った。

「お疲れでしょう」

と気を遣い右手に持った太刀を持ち直した光秀。

重たい太刀を外して寛ぐように促したこの男は、寺の中なのに何を用心して太刀を持ち歩いているのだと思った佐内。

「大変でしたな、まあお茶をいっぱい温かいうちに。きのうの今日、朝早くからお疲れなのにごくろうさまです。太平殿から聞きましたがとにかく名うての関が原の雪。降るはずがないこの時期にわたしもいちど経験がありますが降り出したら一気ですから災難でしたな。昼を過ぎ伊吹の頂がみるみる白くなり心配していたのですが無事でなにより。浅井の迎えも間もなく到着されるはず。ここで休んで待たれるのがよろしいかと。小谷まで行くのは行くだけでなく帰らなければならないから大変です。それにしても、もうすこしで死ぬところだったとは、もしお市さまが死んだら……いやはや何がおこることやら」

「手水を拝借したい」

話を遮るように植木六衛門が言った。

「これは気が付きませんで」

と会釈した光秀が、「庫裏の手水はいま使えないので外に出て裏手に行ってもらうと、なんでしたら案内しますが」と言った。

「いやっけっこうそれより」

内藤冶重郎から頼まれた侍女お徳の子供のことを訊ね、無事だという返事に肯いた二人の男が腰に太刀を収め書院から出て行くのを追いかけ(あちらの方)と指差し戻って来た光秀が天井を見ていた佐内に、「お久しぶりです」と懐かしげに声をかけた。

天井から佐内に視線を向け

「こんな所で会うとは。織田の飯を食んでいるのか」

と佐内が言うと甘えを感じさせる光秀の声が言った。

「いやっ客分でして。浅井に面識があるので今度の役目を」

ほおっと頷いた佐内。

「元気そうで結構なことだ」と佐内が言うと、「お元気な姿を拝見できて嬉しい限り。改めて思うに、今日会ったのは三回目ですが二回目に会ったときのご恩は忘れません」と光秀が言った。

十年前、止める奥の方を振り切って覚悟の道三と共に死のうと駆けつけたが間に合わず落ちてきた瀕死の男を助けた。

それが光秀との二回目の出会いだった。

ちなみに、初めて佐内が光秀に会ったのは十六年前の天文十九年春京の清原邸。

裏目続きのこの男、若い時の整った顔立ちに大分肉が付いて声も濁ったが澄んだ眼差しは変わりなかった。

佐内を見た光秀の含羞を含んだ眼差しから含羞が消えた。

「見てもらえませんか」

といって右手の太刀を帯に差し、じわっと腰を落とした。

居合い?

白刃が筋を引ききれいに型が決まった。

「かなり修練を積んだようだな。誰に学んだ」

と聞いた佐内。

「我流ですが暇にまかせて……」

と答えた光秀

「意外にあたらしもの好きなのだな。しかしイクサでは役に立たんぞ」

と素っ気なく佐内が言った。

頷いた光秀が言われなくてもという顔をした。

「試しに人を斬ったのか」

と佐内が何気に訊くと首を振ったので、「犬でも切ったのか」と冗談めかして言うと光秀の澄んだ眸が見る見る曇った。

簡単に落ち込む性は変わらないなと思いながらフト、「それで弾正忠殿に会えたのか」と信長の名を出してみたら急に表情が明るくなり瞳も澄んだ。

「どんな感触だ?何を話した」と佐内が訊いた。

   *

信長との初顔合わせを決して忘れない光秀。

「輿入れの挨拶に行くからあんたも一度三郎さまの顔みておくか」と冶重郎殿に誘われ、早朝小牧城の城門の外で待ち加治田城に出かける信長に会った。

「先乗りの指図をする明智光秀殿」と引き合わされ下馬した信長。

明智はどこの明智だ?」と訊かれ口ごもるわたしに、「道三殿のために戦った男」とすかさず言ってくれた冶重郎殿。

フムッと肯き、「妹の我侭で苦労をかける。帰ったら話がある」と言って騎乗しかけ、「明智の者も」とわたしの目を覗きこんで騎乗した信長。

近習の塙直正をともない駆け下りて行ったが、「明智の者も」と言われた意味が帰ったら話があるのか輿入れを頼むなのか分からないままになってしまった。   

   *

ホクロの女が書院に入ってきて光秀に言った。

「浅井様の出迎えがもうしばらくすると到着されるようです」

肯いた光秀に続いて佐内も書院を出た。

ちょうどそこに二人の若侍が戻って来た。

光秀は山門に向い、三人は本堂の前で待つとほどなく浅井の迎いが到着した。

下馬する浅井の重臣田屋孫右衛門と息子の田屋市之介。

田屋孫右衛門の姿を見て渋い顔した佐内。

 (竹光で立ち合えば勝つだろうが真剣を交えれば常に相打ちを狙ってくる孫右衛門にやられる) と思っている佐内。

この親子とは顔見知りらしく親しげに近づいた光秀。

「ごくろうさまです」と会釈し何やり耳打ちした。

えっと大仰に驚きを見せた孫右衛門が次の瞬間安堵した様子を見せたのは花嫁の無事を聞いたからだった。

光秀に案内され孫右衛門が二十人余りを連れて本堂の前に来た。

本堂の前で待っていた三人。

三人を代表して植木六衛門が冶重郎に託された書状を渡し、「お市さまがよろしくと申しておりました」ともっともらしく口上を述べた。

「ほおっ、明日一日で小谷まで。そんなに急ぐことはないのだが……」

と頷いた孫右衛門がちらっと佐内を見てから、「しかしとにかく花嫁がご無事なことはなにより」と言った。

恐縮する光秀が、

「明日は間違いなく御到着、ここへの到着今日より早めになるかと」と言うと、気にされるなと手を振った孫右衛門が、「当方も明日は早めに、今一度お迎えにまいります」と破顔して言った。

ほっとした光秀が、

「お茶でも飲まれ一休みされてから戻られたらいかがですか、どうぞ庫裏の方に」と誘うと、「甘えさせてもらうか」と言って懐から矢立と巻紙を取り出しすらっとしたため小者の一人に(館え)と渡した。

遠慮なくと満面笑顔の光秀。

ホクロの女が一行を奥の座敷に通したが直ぐ戻ってきて、

「浅井様が奥の手水を使いたいと申していますがいかがいたしますか」

と言ったので難儀な顔をした光秀。

先ほど六衛門に使えないと言ったのは庫裏の手水は花嫁のためここに来てすぐ空っぽにして使用禁止にしておいたからなのに……。

一部始終を見ていた佐内。

いつも肝心なときに抜かるのがこの男の困ったところ。

しくじったという顔を見せずに、「使ってもらえ」と光秀は言ったが内心、二十人分かと舌打ちしたに違いないと思った佐内

庫裏➁

永禄九年(1566)九月三十日。昼四つ

頬かむり姿の長身の男が忍び足で市姫がいる座敷の前まで来た。

大胆にも男は

中の気配をうかがいちょつと襖を開けそっと座敷を覗いた。

ほほが緩んだ男

昼寝から覚めしばしまどろんでいる市姫の素顔が可愛い。

口を押さえて小さくあくびをした風情もいい。

三十路には見えない顔を傾け何か思案している様子もまたいい。

何かをおもいだしたのかフイに立ち上がったので男は物陰に隠れた。

 

中廊下に出て真っ直ぐ湯殿まで来た市姫。

湯殿を覗く市姫を物陰からうかがう男。

窓から差し込んだ陽に輝く満々と溢れた湯を見て嬉しそうに白い歯を見せた。

湯殿に入る市姫。

躊躇なく着物を脱ぎ捨て湯船の縁をすっと跨いで湯に入った。

湯を肩にかけ気持ちよさそうだ。

満ち満ちた湯に体を預けウトウトッとしかけなにか気配を感じたようだ。

湯気の向こうを透かし見る市姫。

目を細めると影が動きびっくりした市姫。

直ぐ釜焚きの男が控えているのが分かり安心した市姫。

身を乗り出し「背中を流してゴスケ」と言った。

ゴスケと呼ばれた男。

背丈よりも横幅のほうが広く見えるほどの、まるでカニみたいな体形の男が肯いて下帯姿で立ち上がった。

「わたくしは裸ですからお前も裸に」

と大胆なことを言った市姫。

それはダメだと言わんばかりに首を振ったゴスケ。 

首は振ったが下帯姿で浴槽に近寄ったゴスケ。

両腕を伸ばし市姫の腋の下を支えてスポッと湯から抜きあげたゴスケ。

腕を突っ張ったままくるっと踵を返し湯いすにそっと座らせた。

あの吹雪の中抱っこされクルッと回った気持ちよさを思い出した市姫。

後に回ったゴスケ。

糠袋で背中を程よい力加減で擦り始めた。

「ああっ気持がいい」と嘆声を漏らした市姫。

そして

幼少よりひとまかせの習慣が、「前も!」と当然のように言った。

憑かれたように前に回ったゴスケ。

さすがに目は閉じ手探りで足の先から洗い始めた。

そして

膝にかかったゴスケの手を取り胸に押し当てた市姫が手を離してもゴスケの手は胸から離れず下帯を外そうとした白い指にも最早抵抗しなかった。

何か気配を感じ辺りを見回した市姫。

かまわず仰向けにしたゴスケに覆いかぶさった市姫。

しばらくしたら二人とも気持がよくなった。

頬かむりした男も気持がよくなった。

 

木守り柿① 

同じ日。昼四つ半。

一晩でお福のお腹の具合がよくなったのは、小六が飲ませた薬のお陰かどうか分からないけど、お礼を言おうとした小六がさっきから拝殿を窺ってちらちらと見ている目線の先はお徳のようにお福には見えた。

ちなみにお福がお腹を壊した原因は、大垣で食べた柿があんまり美味しくてつい食べ過ぎた所為なのだ。

「大丈夫お福?」と心配そうなお市さま。

大丈夫ですと肯いて神社に来て拝殿に上がったけど、手馴れた小六組の女衆と先乗りの女衆に混じって慣れない針仕事にもたつ福

緊張しているお福の気を楽にしようと

「吾助さんの背中気持ちよかったでしょうお福」

とお徳がからかった。

ちょっとむっとしたお福。

十五にもなって未だ未通のお福をからかわないでほしいと思ったけど、それどころではないのは吾助さんの背中でおしっこをもらしてしまったこと。

吾助さんが気付いていない筈ないから恥ずかしいお福。

でもとお福は思う

おしっこが出てしまったとき恥ずかしかったけど気持がよかったのも本当で、思い出したら血がのぼって困っていたらお香さんが、「お市さまにお茶をお持ちしたら」と助け舟を出してくれた。

これ幸いとお茶とお饅頭をお盆に載せ、庫裏にもどって座敷を覗いたら誰も居なかった。 

お市さまは何処え?と首をかしげたら薄暗い中廊下の向こうから何かが来た。

目を凝らすと裸のお市さまを抱えた下帯姿の吾助さんだ。

わけが分からず固まってしまったわたしを無視し、寝床にお市さまを寝かして踵を返し去っていく吾助さんは何処え。

懸命に金縛りを解きお市さまを目の端に吾助さんを追う。

焚口にもどって樋にかけてあった着物をはおり裏木戸から山に向う吾助。

「吾助さん待って、お願い吾助さん」

必死に追いつき縋りついたお福を引きずり、高い枝に赤く熟した実を残した木守り柿を縫って上え上えお寺の屋根も見えなくなった。

「吾助さん止まって、お願い吾助さん」

と叫びながら吾助さんを止めるには体を張るよりない。

とっさに倒れて足をかかえイタイイタイと転げまわる途中鮮明に目に映った青い空に真っ黒い雲が一瞬で湧き上がった。

稲妻が光り乱れた襟元から大粒な雨が一滴、すうっとふくらみを伝わる感触を感じながら恥ずかしいのを我慢して襟元を乱れたままにした。

吾助は見たのか

ひょいと抱き上げられ手近な小屋に。

重ねた麻袋に下ろしいきなり着物を脱いだのでぎょっとしてうめいた。

なおもうめくと

麻袋の上に脱いだ着物を敷いて寝かせ心配そうに覗き込んだ吾助。

ここぞとうめき続けるとごつい手で足首を取り(ここか?)と聞くので首を振るとここかと膝にさわった。

以前風呂場で、(お前は無男好きのするからだ気をつけなさい)とお徳さんに言われたことを思い出し、無我夢中で吾助さんの手を取り襟元に誘い込んだが振り払われ、仰向けに倒れた拍子に裾前がまくれ上がった。

女になりたい一心!!!

露わになった真沙羅な太ももを必死に交叉させ、「お市さまにしたように」とうったえ両手で顔を覆った。

やがて赤く熟しきった柿の実が一つ小屋の屋根にぼてっと落ちた。

お市さまにもこんなことしたのね。風呂場でしたの」と恥ずかしさを誤魔化すため睨みつけると、「おれはやっていない」首を振る吾助。

「うそつき」

と言ったけど、これでもうお徳さんにからかわれることはなくなったと思いながら吾助の二の腕をおもいっきりつねり、「もういっかい」とねだった。

また一つ熟した柿の実が小屋の屋根にぼたっと落ちた

庫裏③ 

永禄九年(1566)九月三十日。昼四つ半過ぎ。

時を忘れ拝殿で忙しなく動くお徳。

お徳の姿に見とれていたら横目でにらまれた小六。

慌てて境内に目を移した小六。

早朝に大野木から運ばれてきた神輿に取り付き、職人たちに指図している源吉が目に入ったのでに近づき、「何とかなりそうか」と聞くと渋い顔した源吉。

あんまりえまくいっなさそうだなと思いながら

「もし薙刀を輿に取り付けることになったら寸法を取る必要があるのか?」と小六が聞くと当然だという顔をした源吉。

頷いた小六に、供頭が寄こした役に立ちそうもない供侍二人(鈴木貞道、佐野信利)が「おれたちは何をしたらいいのだ」と言うので「とりあえず見物でも」といって笑っていたら源次郎がふいに現われた。

輿をろくに見もせず「芯までくさっているな」と言い捨てて去って行った。

あからさまにくさっていると言われ顔を歪めた源吉の肩を慰めるように叩いた小六、目に入った一輪の野菊を手折って知恩寺に向った。

 

ぶらぶら行くと遠目に知恩寺の裏木戸が開いた。

着物をはおりながら吾助が出てきて山のほうに向かった。

続いてお福が飛び出てきて「吾助さん待って」と叫んで後を追った

はて何処えと首をかしげた小六。

庫裏に入った小六。

玄関脇の小部屋を覗く小六。

警護の供侍(内田宗友)が気持よさそうに転寝している。

役に立たんなと思いながら

薄暗い中廊下を通り座敷の襖の前で止まった小六。

「御免、小六です入ってよろしいか」と声をかける。

どうぞといいかけた声が「ちょっとお待ちなさい」と変わり、なんかもたついているような気配に「大丈夫ですか」心配になったが、「大丈夫、もう少しお待ちなさい」と言いしばらくして「お入りなさい」と声がかかった。

御免と襖を開けギョットした小六。

今ことが終わったかのように乱れた感じで着物をまとった市姫の姿。

「一人で着物を着たことが無いの」と(をんな)を魅せて呟き、「小六殿に声を掛けられ目が覚めたら裸でしたからちょっと慌てました」と言ってにっこり笑ったので裸を想像してうろたえた小六。

そのせいで吾助とお福のことは言いそびれ聞きそびれた小六。

とっさに持っていた野菊を差し出し、

「これをどうぞ」としどろもどろになりながら「せっかくお休みのところ失礼しました」と言ってうろたえたのを誤魔化す小六。

まあっ嬉しいと野菊を受け取った市姫

「嫁菜かしらいいにおい」と野菊を嗅ぐ市姫。

気を取り直した小六が長押に目をやり、

薙刀は輿に取り付けるのですね」と訊くと、「薙刀?なんのこと」と首をかしげた市姫にかまわず「輿に取り付けますよ」と念を押した小六。

輿?ああそんな話もあったわねえと輿に乗ることを思い出したようだ。

「輿にのればいいのですね小六殿の言うとおりに」

と言って手に持っていた野菊を床の間に飾られた花瓶に挿した。

 

野に咲く花も床の間にもよく合いますと言い、

「お徳をどうしても馬に乗せたいのね小六殿は」と言った市姫。

でもと

「お徳が乗って恥ずかしくない馬が見つかったのですか」と訊く市姫。

「馬はいます(あの馬競べでお徳か乗った四郎嵐もいた)お徳が乗って恥ずかしくない馬が何頭か」と答えた小六。

「あらっ居たのですか何頭も」と呆れた顔を笑っておさめた市姫が、「小六殿は秀吉殿の身内なの」と何気に訊いた。

「いや身内ではない」身内ではないがと小六「頼まれたといおうか雇われたといおうか……」はっきりしない小六。

「そうなの」とちょっと思案し「墨俣の砦でお徳に惹かれたみたいですけど、小六殿は独り身なの」と聞く市姫に、

「もういい年だが、未だ独り身なのは間違いございません」

と真面目に答える小六。

「よそに囲っているおなごは居ないのね」

「それは居ません」

そうですかならよろしいと市姫。

さらに

「小六殿は風体から見て主に仕える武士でもなさそうだけど何をしているのです。収入はいかほどです」と娘を嫁にやる母親のような市姫。

ちょっと困ったような小六。

「いろいろ。よろず相談何でも屋ですよ」

面白そうですねと頷き、

「冶重郎殿とは顔見知りみたいですけど、三郎さまと会ったことがあるの?」

と世間話になった市姫。

「だいぶ前ですが同じ筏に乗って川を下ったことが……」

とほっとしたような小六。

「そうでしたか。薙刀は輿に付けてください」と言ってさらに「お徳はこのことを知らないのならわたくしから話しますからここに。それと冶重郎殿にもここに来るように伝えてください」と言って目を閉じた市姫

「承知しました」

と言って立ち上がり長押の薙刀に手を伸ばした小六。

輿① 

永禄九年(1566)九月三十日夕方7つ

覆った雷雲は一瞬で去りお神輿はなんとか輿に変身した。

明け六つの暗い中を大野木から運ばれてきた神輿。

珍しい構造なので何とかなると思っていた源吉。

だが、朝日が当たると半ば腐った神輿の現実が老いて日々腐っていく己の姿のようでついため息が出た源吉。

だいぶ前から見えにくくなっていた目がこのところ急激に悪くなった。

その見えない目で薄暗い中見た神輿。まともに判断できるわけがない。

ため息が出るのも無理はない。

 

そこえ源次郎がぶらぶらやってきて輿を一瞥。

「安定が悪いし重い」

と文句を言う源次郎に腹を立てた源吉。

四本の柱だけ残し屋根と飾りをすっかり取り外し、廃屋の古材を使い屋根型に簡単な骨組をつくり四本の柱を固定して簾をかぶせた。

大分軽くはなったが雨が降ったら不味いことになる。

一応桐油紙の覆いは用意したが漏れるに決まっている。

漏れても仕方がないし安定が悪いのも仕方がない。

まあ此の世は仕方のないことだらけだ。

開き直った源吉。

二天棒に横木と副木を付ければ安定するがいっそう重くなるし狭い山道は通れない。虫食いの台輪も心配だが……。

まあこの世は心配だらけだ

  *

物になりそうもないが頭の小六に(やれるだけやってくれ格好さえつけば)といわれてやれるだけやりが格好はついた。

頭にはなにか思惑があるんだろうが運べなければ苦労した甲斐がない。

大工として単にかませ犬では情けないと意地になった源吉の様子に職人達も面白がり、とりあえず格好はついたが……。

改めて輿を眺めていた源吉。

四面を覆う簾に野筋が付いていないことに気が付いた。

あるのが常態だが無くてもいいかと思った。

付けるのは大変だし、朝早くから詰めている女衆が疲れていることも分かっていた源吉だがちょっと意地の悪い本性が顔を出した。

頭が入れ込んでいるという噂のお徳という女を値踏みしたくなり簾と野筋を持って拝殿に行った。

源吉に頼まれて当惑するお徳。

その様子になるほどと肯いた源吉が拝殿を出たところで小六とすれ違った。

拝殿に上がった小六にお徳が何か言ってるのが源吉に見えた。

 

用を足し輿に戻った源吉。

やれやれと一服していたら、所在無さげにぶらぶらとやって来た供頭が輿を眺め(ほうっ)と言ったとき拝殿に歓声が上がった

続いて源次郎がこれまたぶらぶらやって来た。

「なんだこれは、スカスカだが大丈夫か」

と言って源吉を見た目付きは源次郎が幼いなころいなくなった、正確には源吉が追い出した母親に良く似ていた。

酔ったおり何度か、お前の人を見下すときの目つき母親にそっくりだと源吉から言われたことは忘れない源次郎。

「輿だったら持って運ぶのが常道だが持つには太すぎる」と言いさらに「担げと言われれば担げないこともないが」

と言って源吉に背を向けた源次郎には運ぶ気が全く見えない。

むっとした源吉。

「担ぐ輿もある」とつぶやく。

まあなんだと取り成す冶重郎。

「担ぐにしろ持つにしろ花嫁が乗ってくれなくては話にならん」

朝はそんな雰囲気だったがはっきり決まったわけではないしとつぶやき、

「小六殿に聞いてみよう」

供頭とも思えない頼りないことを言った冶重郎。

そこに拝殿の方から顔面を紅潮させた小六がやってきた。

「担ぐのか持つのかどっちだ」と冶重郎が聞いた。

「担げ。あたりまえだ輿入りだぜ。ワッショイワッショイ祭りだワッショイ景気をつけろ」とわけの分からないことを言う小六は雷に打たれたに違いないと思った冶重郎が眉を顰め、「お市さまはこの輿に乗る気があるのか」と聞いた。

「あんたが行って直接聞いたらいい。会いたがっていたぞ」

と小六が言った。

「そうか、会いたがっていたか!」

目鼻も付いたし報告方々ご機嫌伺いに行くかと呟いた冶重郎。

そんなことより小六がいちばん気になっていたことを聞いた。

「使者の三人が帰ってきたようだが、お徳殿の子供の無事は確認できたのか」

冶重郎が肯いたのでほっとして再び拝殿に向かった

白川神社① 

永禄九年(1566)九月三十日 暮6つ

白川神社は知恩寺の直ぐ傍に在る。

広い境内のそこかしこにははかがり火が明々と焚かれていた。

鳥居を潜った右手に小六組の男衆がたむろする社務所に灯りが点り、赤く色づいた紅葉が石畳沿いに並び鮮やかにかがり火に映えている。

石畳の正面に影をなしてあるのが流造の本殿。

その手前に立つ拝殿の四方に灯った提灯が微かに揺れ、心を躍らされる祭りの前夜のような雰囲気が漂っていた。

拝殿に上がりまず本堂を拝んだ治重郎と小六。

二枚の座布団。

真っ赤に熾きた炭が入った火鉢二つ。

○に六の字が入った丹前二枚。

お茶の入った急須と湯飲み茶碗二つ。

等々を若い者に手伝わせ拝殿に運んで置いた源次郎が「明日一日で小谷まで」と念押しして小六を窺った。

一升瓶とつまみを抱えた小六が肯いた。

分かったと若い者を促し拝殿から去っていく源次郎の、道中のはじめから元気の無い背中がいっそう丸まって冶重郎には見えた。

 

火鉢を抱え丹前を羽織った二人の男が向かい合った。

「冷だが」といって冶重郎の湯飲みになみなみと酒を注いだ小六。

自分の湯飲みにはお茶を入れにやっと笑った小六。

「下戸なのだ」と言った。

「雷に打たれたらしいが大丈夫か」と一応冶重郎が訊いた。

大丈夫だと答えた小六が治重郎に聞いた。

「雪の中でお市様が馬の首を断ったと言うのは本当か?」

「本当だ」とあっさり言って湯飲みに口を近づけた治重郎。

「何故だ?」と小六が訊いた。

「乗っていた白竜が後ろ足を蹴上げてお市さまを振り落としたからだ」

と冶重郎がまたあっさり答えた。

「何故足を蹴上げたのだ」と小六が訊くと、「さあっ」と冶重郎が首をかしげた。

理由はわかっていた。

五郎丸が前を行く白竜の尻をぺろっと舐めたからで、舐めた訳も分かっていたがそれを言うと何故だと切りがないので答えるのがめんどうくさいと思ったからだ。

それと、胴体に皮一枚で引かれる首が白い道に曳いた赤い筋の記憶を消したかったのもあった。

ふうーんと話しを変えた小六。

お市様の人柄が時々変わるという噂に関係があるのか?」

ぐいっと盃をあけた治重郎。

「ほうっ、いろんなことを知ってるな小六殿は」

ぐいっと湯呑をあけた小六。

「嫌味か。――しかし輿に乗って輿入りが常道なのに何故馬に?」

と首をかしげる小六に治重郎。

「奥の方の目が不自由なのは知っているな。輿入れのとき帰蝶様の代わりに市蝶さまが美濃から尾張まで輿に乗って来たのだ。輿に乗って輿入りは生涯で一度っきりと昔のことを根に持って拗ねているのだ」

と笑った冶重郎も人のことは言えないのだ。

(馬を下り白いおとがいを露わに美濃の青い空を見上げた十三歳の少女市蝶の乗馬着姿が魔物のように冶重郎の脳裏の奥に住み付き何時までたっても変わらぬ姿で勝手に出てくるのだった)不治の病だなと自嘲した治十郎。

そうかと小六が肯き、「足を傷めたお市さまが輿に乗るらしいな」と呟いたのに対し、「あんたがお徳を馬に乗せたがっているとお市さまから聞いたがなぜだ」と冶重郎が小六に訊いた。

「まあっいろいろと……」と言葉をにごして沈黙した小六。

ー墨俣で出会って以来この女を護りたい思いに捉われいろいろと調べもしてここまで来たが、雪の中に佇むお徳を見ていておのれの力のなさを思い知り誰にも負けない誰からもお徳を護れるような力が欲しくなった。藁をもつかむ気持が砦で見た乗馬着姿を見れば力が湧いてくと勝手に思い、おれの気持を察した市姫の優しい心遣いが足を傷めたと言わせたのだーと思っている小六。

「おととい駄馬二頭を護って柴田権六殿の手勢が来たが物々しくて傍にも寄れなかった。あれは何だ」

とはぐらかすように小六が言った。

「駄馬の一頭は浅井えの持参金。もう一頭は兄から妹に贈られた手許金のはずだ」と冶重郎が言った。

「たいそうな額の手許金だ、弾正忠殿も妹には甘いのだ」

と小六が茶化すようには言った。

しかし、駄馬と一緒に来た筈のピカピカの輿のことは何故小六は言わないので冶重郎も聞かなかった

まあな、ともっともらしく肯いた冶重郎が辺りを見渡す。

小便か?と目ざとく気付いた小六。

二人連れ立って社務所の裏手にある厠に向かう。

二人の影を揺らしながらかがり火がひとつふたつと消え、拝殿の周りのかがり火に薪を注ぎ足す人影がそっと現われそっと消えた。

二人並んで用を足した。

二人とも手は洗わず袖になすりつけて拝殿に戻った。

すっきりした冶重郎が言った。

「いろいろと調べたらしいがお徳の父親が誰なのか知っているのか?」

「誰だ」それは知らなかった小六。

噂にも出てこなかったとつぶやく小六に、

「知ったら知る前に戻れなくなるぞ。それでも知りたいか」

「知りたい」

お徳のことは全て知りたい小六。

「父親は平手政秀殿だ」

もったいぶることなくあっさり言った治重郎。

「平手?弾正忠家の家老平手政秀か!」

ちょっと驚いた小六。

だがそれを知ってどうこう言うことでは無いがという顔をした小六。

お徳を思う小六の顔をうかがい、お徳が父親と思われる平手政秀の首を介錯とはいえ刎ねたことは言わないことにした冶重郎。

「あんたも女には甘そうだな」

と自分のことは棚に上げた治重郎が言いさらに言った。

「お徳の相手をするのは大変だぞ。とはいってもこの世はすべてワッショイなのだ、男と女の仲もワッショイなのだ」

「酔ったのか!」と小六。

「酔ってはいない!」と治重郎。

山村の神社。

古びた拝殿をゆっくり時が流れ酔ってワッショイなのだ。

肉体は過去から来て未来に去り、精神は未来から来て過去に去る。

無数の微小な物体が過去と未来を永劫に循環しながら暗黒空間をさ迷う。

一瞬の現在でたまたま結合したまたま一人の人間となり再び分散してさ迷う。

今このとき一瞬のはかないおうせを酔ってワッショイなのだ。

   *

ふつと夢から覚めたように、

「輿入れの景気付けにそこにあるマトイを吾助に振らせようと思っている」

と小六が言って拝殿に立てかけてある纏を差した。

肯いた冶重郎が前から思っていたこと、

「三郎さまを直接担ぐ気は無いのか」

と訊くと首をふった小六。

小六の本心は三郎信長を担いでワッショイと言いたいのだ。

しかし、今まで身を寄せた主が軒並みあっけなく滅びたのは我が身に取り付いた疫病神の所為に違いないと思い込んでいる小六。

だから、今度誰かに身を寄せるとしたら疫病神にも負けないほど強運な秀吉にしようと決めている小六。

庫裏④ 

永禄九年 (1566) 暮六つ半。

「男の方はうらやましい、幾つになっても簡単ですもの少年にもどるの。それに比べ女が少女にもどるのは……下手をすると化け物になってしまいますもの」

とお徳が言った。

黄銅色の乗馬袴に藤色の小袖、萌黄色の陣羽織を着て呟いたお徳、

お徳の立ち姿をためつすがめつ眺めていた市蝶が(よく似合います)と微笑んで座るように促した。

「蝉法師は無事小谷に着いたようですね」

と言う市蝶に「はいありがとうございました」

と素直に頭を下げたお徳。

 

小六が持ってきた嫁菜をお徳の髪に飾り肯いた市蝶が言った。

「共に三郎さまの血を引くお前の蝉法師と三郎さまが入り浸っていた生駒屋敷の奇妙丸は同い年」同い年がことさら人の心を惑わせる「蝉法師を預けている前田の家から怪しい影の報せが度々」鬱陶しいけど鬱陶しいだけなら我慢すればすむことですが生駒屋敷のお方がこの五月に亡くなられていっそう影が激しくなってきたという報せ「お前は成り行きに任せれば好いと冷たい事をいうけどわたくしは気が気ではありません」なんとなく延ばしていた浅井えの輿入れも三十路を迎え潮時「勘十郎君の首が現われたとか朝倉の一乗谷とかわけの分からないことを並べ立てて兄上を怒らせましたが輿入りはなりました」それはそれでよかったのですけど「あのときお前が雪ダマを投げたのは何故です?「引き返そうとした冶重郎殿を止めるため?それとも間道に入るわたくしを止めるため?」

と市蝶が首をかしげて言った。

「分からないのです。気が付いたら投げていました」と言ったお徳がさらに「それよりドサクサ紛れにおっしゃったことは本心ですか?きれいな体で出直しましょうとおっしゃったことは」

そうねと肯いた市蝶が自分のことは棚に上げて言った。

「いつまでも過去に甘えているのはみっともないことです」

「分かっています。でも……」

でもと言うお徳に市蝶が

過去は蜜の味。

過去は魔薬。

過去は時間という濾過器を通ると蜜の味に変わる魔薬。

あした胸をはって馬に乗りなさい。

乗って涙で作った虹を笑い飛ばせばいい」

と自分に言い聞かせるように言った。