伊勢長嶋⓪

天文十年(1541)正月。

呼ばれて新年の挨拶かたがた兄貴の居室に出向いたら、「お小夜だ」

と言ってかたわらに控える若い娘を示した。

「吉法師の遊び相手は桜の咲くまで、ご苦労だった。桜が咲いたらこのお小夜と妻夫になって長島に住むように」

と言われ、兄貴と呼んでいる織田信秀をほほおっと見た。

「お小夜は川内の出だ」

と言われ、頭を下げた小夜という娘をほおっと見た。

「小夜です、よろしくお願いもうします」

と言って上げた丸い顔がにこっと笑った。

笑顔に文句はなかったので、「内藤冶重郎です、よろしく」

と言って咲く桜と共に二人で川を渡った。

  *

木曽川長良川揖斐川の濃尾三川が伊勢湾に注ぐ河口は三川からの土砂が長い長い年月の間に積もりに積もって広大で肥沃な中洲を造り、たどり着いた旅人を優しく潤す恵みの水が同時に実りをもたらす肥沃な土砂を運んでくる代償に牙を剥き、一気に押し寄せ全てを押し流す洪水から田畑を守り、家を守り、命を守るために身を寄せ村落を造り、必死に堤防を築き必死に囲った運命共同体を輪中と呼び、大小夥しい輪中と島が迷路のような入り組んだ水路で結ばれいつしか要害の地「川内」になっていた。

その川内の中心、七つの輪中からなる長島輪中の北の端に、宗祖親鸞から数えて第八代蓮如の六男蓮淳が文亀元年(1501)開基した浄土真宗本願寺の一家衆寺院願証寺の甍が聳え、沈滞していた本願寺派を再生且つ驚異的に増殖させながら自身も、八十四年の生涯で死別するつど娶った五人の正妻に二十七人もの子を産ませた怪物蓮如の干天に慈雨のごとき「お文」をかざし、同じ浄土教の一宗派時衆の色濃い川内を一向色に染め、今や尾張から北伊勢、三河、美濃にまで広く影響力を及ぼす願証寺が保障する流通の魅力に多種多様な商人や職人が集まり、喧しい寺内町の賑わいからやや外れた一画に建つ元百姓屋に手を加え居を構えた若い夫婦が十八歳の内藤冶重郎と十五歳のお小夜だった。

生活は結婚祝いに信秀から贈られた知行地からの上がりで余るがナリワイとして近くに耕地を借り体裁を整え、さして筆が立つわけではない冶重郎だが(代筆請負)の看板を出し、お小夜も伝手を頼り願証寺の手伝いに入っていた。

甍が立って五十年足らず、いつしか本願寺領の感がある川内の守りは古くからこの付近に勢力を持つ豪族服部党の服部水軍と伊勢湾の最前線大島砦の大島水軍を中心に要所に築いた砦を門徒勢と地侍が固めまわりの干渉をまったく寄せ付けない。そのおかげで安全で通行税も無いので艪を操り気楽に輪中を巡り島々を訪ねるのが楽しみな冶重郎。気が向けば(講)に顔を出し聞くお説教も貢納額も穏やかな上、所属する(惣)に納める年貢がほとんど不満の無い高で済んでいるのは誰でも受け入れ成長し続けているからだと推測出来るがそれ以上に感心するのが雰囲気のよさ。百姓でも地役人でも偉い坊主でも乞食でも非人でも遊女でも、はたまた時折おこる輪中と輪中の争いが大事に至らないのも、阿弥陀如来の前ではみんな同じだと信じているからに違いないと思っている冶重郎。

 

三年経ったころ【武門と宗門】この両者は並び立つのか? 尾張にも浸透著しく北陸方面の嵐も十分承知している信秀に問われ、(利がある方に傾くのが人の常)と適当な返事を出してふと、俺をお小夜と結婚させ、イクサ続きの尾張からカヤの外の川内に追い出し知行地まで与えたのは俺のためではなくお小夜のために違いないと思った。

そこで七年過ごす間に流れてきた川の民や山の民が家の周りにも続々と住み着き、斜め前に(丸に六の字が入った腹掛けを付けた男が出入りする)鍛冶屋も出来、代筆屋も適度に繁盛してカヤの外の居心地かよくなってきた夏五月の夕近く。今年は雨が少ないなと思いながら此処に来て覚えた包丁を使い、胡瓜の酢の物と頂き物のボラを捌いていてふと朝出かけるとき見せたお小夜の笑顔が初めて会った時のように可愛かったのを思い出し、涼しい川辺で一緒に折りを広げたくなった冶重郎は握り飯を握った。

 

折箱を包んだ風呂敷を手に願証寺の裏門をくぐり勝手口から入った庫裏。広い台所の奥の小部屋から聞こえるくぐもった声。板戸の隙間からお小夜らしい女が坊主頭の男に組み敷かれているのが見え、踏み込もうとしたら上になったので踵を返した。それから二ヵ月後に身ごもったことが分かったお小夜は出産のためと言って在所のある森島に帰ったが冬に入り流産したと報せが来た。

男としてどう対応していいか分からないまま次の年三月、在所から戻ったお小夜が長島城辺りの水路が詳しく描かれている一枚の地図を冶重郎の前に置いた。

「あなたは川の向こうの人、それを手土産にお帰りください」

そしてその夜、別れの肌を合わせて言った。

「もし、赤ちゃんが出来て女の子だったら、ハナコと名付けます」

あざやかな新緑に負けない爽やかなお小夜の笑顔に見送られ、二十七歳になった内藤冶重郎が一人で川を渡った。