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「享禄五年 (1532) から天正十年 (1582) までの筋書」
木曽川①
木曽川は上流から下流に下流から上流に絶え間なく流れる水で遠い対岸まで埋め尽くされ、辿り着いた旅人に渡る気を起こさせないような威圧感がある。
天文十年(1541)春二月。
堤の上に根を張った姥桜の苔むした太い幹からほんのりと薄い紅色をのぞかせる蕾を無数に付けて四方八方に伸びている枝の下に佇み、三頭の馬をひいた三人の人影が見つめる川中の引き潮に乗った筏が何床も連なりうねりながら下って来た。
先頭の筏で竿を操るのが股引に腹掛け姿の若者唯一人。腹掛けの胸に○に六の字がくっきりと体の動きに合わせて躍り、手を振る三人に応えて遠く白い歯がきらりと輝いた。
「イカダから落ちたらどうなるの」とお春が訊いた。
「死ぬだろうな」と冶重郎が答えた。
「命がけなのね、イクサに行くのとどっちが危ないの?」とお春が訊いた。
「さあ、どっちかな? どっちだろう」と冶重郎が言った。
「イクサだ」と吉法師が叫んだ。
「イカダよ」とお春が叫んだ。
「イカダに乗ってイクサに行くのがいちばん危ない」と冶重郎が言った。
「またふざけて、ふざけてばかりいると冶重郎さまのお嫁さんになってあげないから」
とお春が言うと吉法師が言った。
「お春は吉法師の嫁になるって、こないだ言ったのに」
「吉法師さまは泣き虫だからいや、泣いてばかりだから」とお春言った。
「もう泣かないから……」と吉法師が言った。
「ほらもう泣いてる、弱虫」とお春が言った。
「二人は幾つになったのかな」と冶重郎が訊いた。
「おれは八つだ」と吉法師が言った。
「わたしもはっさい」とお春が言った。
「二人が三つの時からだからもう五年たつのか、あっという間だった。馬にも上手に乗れ
るようになったし、特に吉法師さまは上手だ、なあお春上手だな」と冶重郎が言った。
「上手、馬は上手」とお春が言った。
「上手なこと、好きなことを一生懸命やったらいい。お春は何が一番好きなのかなあ?」と冶重郎が訊いた。
「遥子はね、人の髪や顔にさわるのが好き」とお春が答えた。
何故か時には自分のことを遥子と言うようになったお春。
「それならいつか大人になった遥子にさわってもらうのが楽しみだ」
と言った治重郎の笑顔が一転真面目な顔になり「ところで今日ここに来たのは二人とお別れするため。わたし内藤冶重郎は桜が咲いたらこの川を渡った伊勢長島で小夜という娘と妻夫になることにした」と言った。
「……」
「……」
めったに人を褒めない冶重郎が褒めたわけがわかった遥子。
「この五年の間、二人と過ごせて楽しかった」
「……」
「泣くなお春泣くな。いっしょうけんめいけいこして馬で川をわたって冶重郎に会いに行くからなあお春、いっしょにおれの馬に乗って会いにいこう。もう泣かないから、誰よりも強くなって誰からもお春を守ってやる」
と言う吉法師に治重郎が言った。
「吉法師さまは根が優しいから強くなったらホトケに金棒だ」
■
伊勢長嶋⓪
天文十年(1541)正月。
呼ばれて新年の挨拶かたがた兄貴の居室に出向いたら、「お小夜だ」
と言ってかたわらに控える若い娘を示した。
「吉法師の遊び相手は桜の咲くまで、ご苦労だった。桜が咲いたらこのお小夜と妻夫になって長島に住むように」
と言われ、兄貴と呼んでいる織田信秀をほほおっと見た。
「お小夜は川内の出だ」
と言われ、頭を下げた小夜という娘をほおっと見た。
「小夜です、よろしくお願いもうします」
と言って上げた丸い顔がにこっと笑った。
笑顔に文句はなかったので、「内藤冶重郎です、よろしく」
と言って咲く桜と共に二人で川を渡った。
*
木曽川、長良川、揖斐川の濃尾三川が伊勢湾に注ぐ河口は三川からの土砂が長い長い年月の間に積もりに積もって広大で肥沃な中洲を造り、たどり着いた旅人を優しく潤す恵みの水が同時に実りをもたらす肥沃な土砂を運んでくる代償に牙を剥き、一気に押し寄せ全てを押し流す洪水から田畑を守り、家を守り、命を守るために身を寄せ村落を造り、必死に堤防を築き必死に囲った運命共同体を輪中と呼び、大小夥しい輪中と島が迷路のような入り組んだ水路で結ばれいつしか要害の地「川内」になっていた。
その川内の中心、七つの輪中からなる長島輪中の北の端に、宗祖親鸞から数えて第八代蓮如の六男蓮淳が文亀元年(1501)開基した浄土真宗本願寺の一家衆寺院願証寺の甍が聳え、沈滞していた本願寺派を再生且つ驚異的に増殖させながら自身も、八十四年の生涯で死別するつど娶った五人の正妻に二十七人もの子を産ませた怪物蓮如の干天に慈雨のごとき「お文」をかざし、同じ浄土教の一宗派時衆の色濃い川内を一向色に染め、今や尾張から北伊勢、三河、美濃にまで広く影響力を及ぼす願証寺が保障する流通の魅力に多種多様な商人や職人が集まり、喧しい寺内町の賑わいからやや外れた一画に建つ元百姓屋に手を加え居を構えた若い夫婦が十八歳の内藤冶重郎と十五歳のお小夜だった。
生活は結婚祝いに信秀から贈られた知行地からの上がりで余るがナリワイとして近くに耕地を借り体裁を整え、さして筆が立つわけではない冶重郎だが(代筆請負)の看板を出し、お小夜も伝手を頼り願証寺の手伝いに入っていた。
甍が立って五十年足らず、いつしか本願寺領の感がある川内の守りは古くからこの付近に勢力を持つ豪族服部党の服部水軍と伊勢湾の最前線大島砦の大島水軍を中心に要所に築いた砦を門徒勢と地侍が固めまわりの干渉をまったく寄せ付けない。そのおかげで安全で通行税も無いので艪を操り気楽に輪中を巡り島々を訪ねるのが楽しみな冶重郎。気が向けば(講)に顔を出し聞くお説教も貢納額も穏やかな上、所属する(惣)に納める年貢がほとんど不満の無い高で済んでいるのは誰でも受け入れ成長し続けているからだと推測出来るがそれ以上に感心するのが雰囲気のよさ。百姓でも地役人でも偉い坊主でも乞食でも非人でも遊女でも、はたまた時折おこる輪中と輪中の争いが大事に至らないのも、阿弥陀如来の前ではみんな同じだと信じているからに違いないと思っている冶重郎。
三年経ったころ【武門と宗門】この両者は並び立つのか? 尾張にも浸透著しく北陸方面の嵐も十分承知している信秀に問われ、(利がある方に傾くのが人の常)と適当な返事を出してふと、俺をお小夜と結婚させ、イクサ続きの尾張からカヤの外の川内に追い出し知行地まで与えたのは俺のためではなくお小夜のために違いないと思った。
そこで七年過ごす間に流れてきた川の民や山の民が家の周りにも続々と住み着き、斜め前に(丸に六の字が入った腹掛けを付けた男が出入りする)鍛冶屋も出来、代筆屋も適度に繁盛してカヤの外の居心地かよくなってきた夏五月の夕近く。今年は雨が少ないなと思いながら此処に来て覚えた包丁を使い、胡瓜の酢の物と頂き物のボラを捌いていてふと朝出かけるとき見せたお小夜の笑顔が初めて会った時のように可愛かったのを思い出し、涼しい川辺で一緒に折りを広げたくなった冶重郎は握り飯を握った。
折箱を包んだ風呂敷を手に願証寺の裏門をくぐり勝手口から入った庫裏。広い台所の奥の小部屋から聞こえるくぐもった声。板戸の隙間からお小夜らしい女が坊主頭の男に組み敷かれているのが見え、踏み込もうとしたら上になったので踵を返した。それから二ヵ月後に身ごもったことが分かったお小夜は出産のためと言って在所のある森島に帰ったが冬に入り流産したと報せが来た。
男としてどう対応していいか分からないまま次の年三月、在所から戻ったお小夜が長島城辺りの水路が詳しく描かれている一枚の地図を冶重郎の前に置いた。
「あなたは川の向こうの人、それを手土産にお帰りください」
そしてその夜、別れの肌を合わせて言った。
「もし、赤ちゃんが出来て女の子だったら、ハナコと名付けます」
あざやかな新緑に負けない爽やかなお小夜の笑顔に見送られ、二十七歳になった内藤冶重郎が一人で川を渡った。
■
天文十九年(1549)夏四月末。
内藤冶重郎がお小夜の笑顔に見送られ一人で川を渡ってから一ヶ月。
九年ぶりに会った吉法師、
いや元服した三郎信長のうつけ者と噂される格好。
特に冶重郎の目を引いたのが天を突く異形の茶筅髷。
ぼろほろの着物を荒縄で結び、十七歳になった少年の見るからに俊敏そうな体から発散する体臭が手綱を引いて近づいてくる馬と一体化し、やるときは徹底的にやる雰囲気に狂気めいた凄みがあった。
「邪魔っ気なその茶筅髷、切ったらどうです」
と冶重郎が言ったら、大人の声に変わった少年が、
「邪魔に見えるものほど必要なのだ」と言ったので、
変わったのは声だけではないなと九年の歳月に感心した冶重郎。
身近で見る少年の優しさは九年たっても健在だが、一生ついて回るであろう根にある真っ直ぐな性格の鬱陶しさも変わらず感じた冶重郎。
「お元気そうでなによりです」
と当たり障りの無い挨拶をした冶重郎。
「木曽川を渡ったぞ馬で!」
と勢い込んで込んで信長が言った。
「ほおっいつどこで?」
と気の無い返事をした冶重郎。
「おととしの夏あの場所で」信長の声が小さくなった。
「おととしの夏?旱魃の年だ。ははあっ、水の量は少なく勢いも緩かった。だが渡ったことに違いはない大したものです」と冶重郎が言った。
九年経っても褒められているのか茶化されているのか分からない冶重郎の変わらなさに、なるほど人は変わらないものだと逆に感心した信長。
鼻息荒く嘶いた黒竜の足が対岸の川底を蹴ったと感じた時のホッとした安堵と、川中で怖くなり戻ろうかとも思ったが此処まで来たら往くも戻るも同じことと腹をくくり、恐怖に打ち勝った喜びを思い出し、とにかく渡ったと胸を張った信長。
「お春も一緒に?」
と訊く冶重郎に信長の茶筅髷が揺れた。
「お春はもうオレの馬に乗らなくなった。冶重郎が川を渡った九年前から……」
と不満顔が言い、薄紅色の狂気がフツッと覗いた。
それを受け流し
「とにかく川内の様子を伝えておきます」
と言う冶重郎に、
「川内の様子をいまオレが知る必要があるのか?」
と興味なさそうに信長が言った。
「川内と事が起きるのはまだ先のこと、三郎の仕事になるから」と治重郎
「おやじはまだ若いのにそんなに先の話なのか?」と信長
「川内のことよりむしろ遅れている結婚のことを気にされていた」と治重郎
「結婚はどうでもいいのだオレは」
と人ごとのように言った信長。
「なるほど。しかし未だ割拠している尾張の状況を考え、弾正忠家のことを考えて兄貴が決めたこと。三郎さまの気持ちは斟酌外」
と素っ気なく言った冶重郎。
「それはそうだが……」
と言って横を向いた信長。
「話しをまとめた平手中務殿がなんでかわからないが怪しいことに。はっきりしない式のこともあわせ、なにも分からないわたしに(お前ちょっと行って様子をみてこい)と言われ美濃にーー」
川内から帰ったばかりなのに行って来たという治重郎。
ふーんそれでと
「何が分かったのだ美濃まで行って?」
と相変わらず興味がなさそうな信長にかまわず
分かったのはとちょっともったいぶって「美濃を流れる三本の大河の行き着く先はいずれも川内だという分かりきったことと、双子の娘が二人とも京に行ったので結婚は来春と云うのんびりした話だけだった」と治重郎
「ほおう京へ……何をしに?」とちょっと興味を示した信長。
「さあっ」と首をかしげた冶重郎。
「双子の姉妹のうち一人の目が不自由という噂は本当だったのか?」
と訊く信長。
「そのようで」と頷いた冶重郎。
分かったことは他にもいろいろあったが美濃のことは伝えなくてもまあいいかと思った冶重郎が伝えなければならないのは川内。
「隠し砦のような遊び場を川内に造ったらおもしろいのだが」と治重郎
「隠し砦のような?必要になるのかこの先」と信長
「先のことは分かりませんが造るなら津島の対岸立田輪中の南の端、小木江の辺りがよろしいかと」と言う冶重郎に、
「面白そうだやってみよう早いうち、小木江のあたりだな。いずれにせよ長島には前から行きたいと思っていた」と信長が言った。
と笑いながら冶重郎が言った。
「聞くところ、願証寺の寺内町には尾張や桑名など近隣だけでなく伊勢や美濃あるいは三河など遠方からも人が訪れ賑わっているらしいが、それも本願寺の力なのか?」と信長か確認するように治重郎に聞いた
「力というより魅力。見世物や芝居の小屋が立ち並び遊女も居る」
と治重郎
「遊女なら熱田にも津島にも居るし、小屋も賑わっている」
と信長
「それはその通りですが・・・・・・わたしの感じた今の川内は正直言って尾張より住みやすい」と治重郎
「ほおっ、尾張より住みやすいのだ川内は。その訳わ?」
と言う信長に治重郎が言う
「第一にイクサが無い。第二に流通の障害が無い。この二点は今でも変わらないが、第三の阿弥陀仏の前ではみんな同じという従来からあった極楽往生の保証がこれから問題になりそうだ」
「第一にイクサがないことか、尾張はイクサ続きだからな」
という信長に治重郎がさらにいう
「農兵でもある百姓衆は頻繁に縄張り争いに駆り出され、殺しあい略奪しあうのが習いになり農作業は手に付かず耕地は荒れ放題で貧しさが蔓延。今の尾張はまだ他国に比べましだがそれでも…川内にはそれが無い」
農兵ではない手勢をつくればいいのだと呟いた信長が訊いた。
「とにかくイクサをなくすのが肝心なのだ。二番目は分かるが問題は三番目。死んだら極楽浄土に生まれ変われるという往生を、真宗の門徒は本当に信じているのか?」
「三郎さまもわたしも飢えを知らない。餓えのため人肉を喰らうような凄惨な世になろうとも人は、正気を保ち生き続けるためあらゆる仏形をかきむしり耐えてきた。とりわけ僧法然が唐からもたらした浄土教の教えに頼る川内の衆徒は、往生を信じる前に阿弥陀如来の前ではみんな同じだとひたすら信じてきた。しかし」
「しかし?」
「浄土教の一宗派真宗本願寺が川内に浸透し、いつのまにか生き仏になった本願寺法主が阿弥陀如来と入れ替わり、(往生の保障を人質に)生殺与奪の札をかざして門徒を操り、ひたすら」弥陀如来を拝んできた今までの信仰生活が一変しまうのが心配だ。しかし本分を超えない限りそれを咎め宗門と対決することは武門の役目ではない。神仏の陰に隠れて人の生き血を吸う卑劣なやからは自浄されるべきだし出来ない筈は無い」
歯切れの悪い冶重郎を困らせてやりたくなった信長。
「真宗の張本人親鸞の真骨頂という(善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや)意味を考えてみたが、冶重郎は分かるか?」
「なかなか」と首を振った冶重郎に、「三郎さまはお分かりで?」
と逆に訊ねられ聞いた話しだがと前置きした信長。
「人は人として此の世に生まれたときから否応なしに引き受けなければならない役が決まっていると云う話。単純に言えばお前は善人の役、お前は悪人の役と決まっていて、善人役で天寿を全うする一生より悪人役で罰を受ける一生のほうがしんどいだろと云う話」
ともっともらしいことを言って横を向いた信長。
眉に唾した冶重郎が、
「お春はどうしています」と思い出したように訊ねた。
「お春は去年、尾張氏の息子と結婚して熱田にいる」
と信長が答えたのが天文十九年(1550)四月末ごろのことだった。
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年表
享禄五年(1532)五月*織田信秀と長井利政(斉藤道三)が揃って堺に行く。 七月*享禄五年禄から天文に改元される。
天文元年(1532)八月*法華宗徒等/山科本願寺を焼き撃つ。
天文二年(1533)朝倉義景誕生(孫次郎)四代目考景の嫡子。
天文五年(1536)山門宗徒等/京都法華宗二四諸山を焼き撃つ。
天文六年(1537)足利義昭誕生(覚慶)足利十二代義晴の次男。
天文七年(1538)斉藤利政(斉藤道三)に双子の姉妹誕生。
天文十一年(1542)松平元康(徳川家康)誕生(竹千代)松平広忠の長子。
天文十二年(1543)本願寺十一世顕如誕生(光佐)十世証如の嗣子。
天文十四年(1545)浅井長政誕生(新九郎)浅井久政の嫡男。
天文十七年(1548)朝倉四代目考景五六歳で病没*義景十六歳で継ぐ。
イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエル来航*四十二歳。
織田信秀四十二歳で病没*三男信長十八歳で継ぐ。
天文二十二年(1553)織田信長/斉藤道三と聖徳寺で会う。
天文二十三年(1554)本願寺十世証如三十九歳で病没*顕如十二歳で継職。
弘治二年(1556)嫡男義龍と戦い斉藤道三往生*生年不明につき享年不明。
弘治三年(1557)後奈良天皇崩御//方仁親王/正親町天皇に践祚*四十一歳。
永禄元年(1558)正親町天皇/織田信長に一回目の勅使派遣。
永禄三年(1560)織田信長/今川義元四十一歳を狭間に迎え討つ。
浅井久政三十六歳で隠居*浅井賢政(長政)十六歳で継ぐ。
永禄四年(1561)斉藤義龍三十四歳で病没*斉藤龍興十三歳で継ぐ。
永禄五年(1562)織田信長/松平家康(徳川家康)と同盟を結ぶ。
永禄六年(1563)正親町天皇/織田信長に二回目の勅使派遣。
永禄九年(1566)奈良興福寺一乗院門跡覚慶還俗して足利義秋を名乗る。
永禄十年(1567)織田信長/八月末ごろ稲葉山城攻略。天下布武を発す。
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南蛮貿易船 ①
天文十年(1541)より九年前の享禄五年(1532)夏五月。
敵味方無用の自治都市堺。
南蛮貿易で賑わいはじめた堺の商人納屋宗次の屋敷に、揃って訪れたのが美濃の長井規秀(斉藤利政)と尾張の織田信秀。
敵対しながら惹かれあう二人。
歳は親子ほど離れた二人の男が、初めて顔を合わせたのは、享禄五年よりさらに六年前の大永六年(1526)春。
聖徳寺とその寺内町を結んで架けられた両国橋の上だった。
かねてより勢いのある織田信秀に注目していた長井規秀。
引き寄せられたように出会った二人。
目を合わせるなり美濃の長井規秀と名乗り、
「この規秀が美濃を手に入れ、信秀殿が尾張を統一したあかつきには、二人して天下に打って出よう」と言った。
勝手なこと言われ、勝手にやってくれと思った信秀だが、
「天下に打って出て何をするのだ」と聞くと、「天下の美女をはべらせる」と規秀が言ったのでにやりと笑って頷いた信秀。
若年ながら未だ割拠する隣国尾張を纏める実力者の信秀。
遠からず尾張を統一するに違いない織田弾正忠信秀の弱点が、女にはめっぽう目が無いことを規秀は知っていた。
会ってすぐ共に相性の良さを感じた二人。
言うまでもなく相性はとても大事。
相性が良ければ、皮肉を言ったつもりでも冗談にとられるけど、
相性が悪いと、冗談を言ったつもりでも皮肉にとられる。
やることなすこと全て悪意か善意かにとられてしまうのが相性。 まあ逆に言えば、うまくいかなかったことを相性のせいにすることもできる。
それはともかく
「天文」とか「享禄」とか「大永」とか言うのは元号と言うもんで、俺の使っている国語辞典によると、その天皇在位の象徴としてつける年号 とある。まあ要するに天皇の権威を示すために設けられたものだろう。
暦学に通じていないと、今現在この国のどのあたりにいるのか、つまりこの国の歴史も分からないということで、ほとんどの日本人は分からないから、外国人にとってはそれこそ、ちんぷんかんぷんだろう。
それ以来つかず離れず、合戦も馴れ合いの関係を保つ二人。
話をはじめに戻すと、
時々示し合わせて京に遊ぶ足を今回堺までのばしたのは、唐国から来た鉄砲というものを見るためだった。
ちなみに、鉄砲は、種子島にポルトガル人が、はじめて我が国にもたらしたとなっているがそれ以前、唐国から鉄砲と言うものが来ているのだ。資料もある。ただ性能的に鉄砲と呼べるものかはわからない。
まあ歴史は難しいし文書もどこまで信じていいものやら難しい。
鉄砲を見るつもりが目に入ったのが南蛮貿易船に乗って来た双子の姉妹。
「二人は一緒と言い張るので……」
といささかもてあまし気味の納屋宗次。
「実は一人ずつなら引きとり手は結構あるのですが」と納屋宗次。
「まあこの美貌ですから、お妾さんか、側めですけどね」と納屋宗次。
「でもふたりともとても賢いですよ。うちに来て一か月ほどですが、それまで琉球語しかしゃべれなかったのに、今ではこっちの言葉、結構しゃべれるようになって、漢字は難しいって言ってるけど、平仮名やカタカナは自在に書けるほど」と感心しきりの納屋宗次。
なるほどと双子の姉妹を改めてみた二人の男。
「ここに来たときこの服装だったのか」と納屋宗次に聞く信秀。
「そうだ」と納屋宗次。
「だが、だいぶ痛んでいたので、今着ているのは同じようなのを作らせたもので、全く同じと言うわけではない」と納屋宗次。
「もともとのものはアオザイというものらしい」と納屋宗次。
ふむっといったきりしばし無言の二人の男。
胸といい腰と言いお尻と言い体の線が露わな二人の女。
瞳が青く輝き、白い肌から薫り立つ二つの姿態の異質な妖気に囚われた二人の男。
つばを飲み込む信秀を横目に、
「双子を離れ離れにするのは酷なこと」
と長井規秀がもっともらしく言い織田信秀は深く頷いた。
そして長井規秀が単刀直入に言った。
「私たちと一緒に来るか」
「二人一緒なら」
と言って二人そろってにこっと笑った。
笑ったとこを見ると、二人の男が気に入ったのかそれとも、見世物みたいな状態でここにいるのが嫌だったのか。
気が変わらんうちにと鉄砲そっちのけの男二人。
たまたま洪水からの避難用もかねて寄進するため建てていた僧房。
尾張と美濃が一棟ずつ、尾張方から織田信秀が、美濃方から長井規秀がそれぞれ奉行として、どんな洪水にも負けない堅牢な修行用僧房を目指し競っていた。
そして二人の力で強引に、
堀と石垣で囲い渡り廊下で結ばれた二棟の僧坊を、表向きは寄進したように内外に見せ、急遽改装して姉妹の住まいに転用することにし、その間、聖徳寺の塔頭の一つを借り二人を住まわせていた。
その一室で向かい合った四人。
性格は分からないが見た目はどう見てもそっくりな双子の姉妹。
名を聞くと姉は(つる・フェレイラ)妹は(はな・フェレイラ)と言う。
二人の女を前に、どちらをどちらがと決めかねている二人の男。
無神経にもほどがある二人の男を笑ってみていたが、
「決めなくてもよろしいのでは」
とあっさり言う姉妹にびっくりした二人の男。
腹の据わった笑顔が此処に来るまでの過酷な運命を物語っていた。
あおられた感じの二人の男。
「双子を好みによってエコヒイキしてはいけない」
と美濃の男がうそぶき、そんな人の道に外れたことはダメだと尾張の男の理性が思ったのは一瞬だけだった。
ほどなく僧房を改装した屋敷ができ、渡り廊下で繋がった二棟の一軒ずつに住まわせた。
二人の男は合戦しては女に会いに行った。
いや会いたいために合戦した。
かち合った時のため、それぞれの目印を門の前に置き、それがあるときにはもう一人のほうに回った。
そんな夢のような時が過ぎ、やがて二人の女は時を経て、異質な血を持つ三人の男女を産んだ。
【天文三年 (1534) に姉が生み信秀に引き取られた男児は、継嗣として乳母に育てられ幼名吉法師、元服して三郎信長と名乗った。
後れて天文七年(1538)に妹が産んだ双子の姉妹は利政に引き取られ、姉は帰蝶、妹は市蝶とそれぞれ命名された】
姉妹が引き取られる時、
兄妹一緒のほうがいいから私が引き取る、と信秀が言い出したが、前に譲ったろうと利政が言って、両手に一人ずつ二人の赤子を抱え、愛おしそうにクルッと回って揺籃にそっと下した。別れを悲しむより、ほっとしたような姉妹に見送られ、屋敷を出た闇の中、赤子の一人がニッと笑った。
姉妹は分かっているだろうが、
兄妹の父親が誰かは言わなかったし二人の男は聞かなかった。
黄金の免罪符①
産んで間もなく、役目は果たしたかのように息を止めた二人の姉妹。
父母を奪われた恨みを、二人の男に体を張って託した「黄金の免罪符」の話を二人の男は忘れなかった。
「ある日、何処から来たのか誰なのかもわからない人に、(黄金の免罪符に抗議するお前たちの父と母を連れて行く。その代わり、お前たちに黄金の免罪符を与える。いずれ何処にいようとお前たちを十字の鉄槌が追って来る。それまで生き抜き子を生し黄金の免罪符の血を伝えよ。それがお前たちの定めだ)と言われ、南蛮貿易船に乗せられたのです」
そして、父と母が連れていかれてからずっとつらい日々でしたが,お二人にあってからここに来てからは幸せな日々でした、といって笑顔を見せ息を止めた
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近親相姦①
天文十八年(1548)春一月。
領内川とも境川とも呼ばれる木曽川支流の右岸に立つ真宗聖徳寺。
その数ある塔頭のひとつの一室。
折に触れ飲み交わす二人の男が向かい合っていた
一人は織田弾正忠家の次席家老平手中務政秀。
もう一人は西美濃三人衆の一人安藤守就。
酒好きの二人が話しているのは、
織田信秀の嗣子三郎信長と斉藤利政(斉藤道三)の娘との縁談
酒にはだらしないが性には峻厳な政秀は知っていた。
尾張の織田弾正忠家の跡継ぎ信長と、美濃の長井規秀改め斉藤利政の双子の娘が実の兄妹かも知れないのを。
知っていながら、
安藤守就は美濃に属してはいるが、尾張とも密かに通じていたから、実の兄妹かもしれないと、知っているものと思い込んだ政秀が、
「弾正忠家の三郎様と、美濃のお二人の姉妹のうちのどちらかとの結婚、いかがなものだろう」と新年の酔いに任せ戯れに言った。
まつたくの戯れだったのだ。なのに……
うんっ? という表情で政秀を見た守就。
道三の娘姉妹が双子なのは公然の秘密だった。
いつしか手酌で飲んでいる二人。
その二人の娘のうち一人の目が不自由なことは秘され、知るものは少なく、どちらの娘が不自由なのかはより厳重に秘され、知るものはより少なかった。
しかし、娘の一人の目が不自由なことは二人とも知っていた。
精進料理のつまみにはあまり手を付けていない。
不自由なのがどちらの娘かは二人ともはっきりとは知らなかった。
ただ守就は何となく妹のほうと聞いてはいた。
「結婚と言っても、お一人の目が不自由なのは中務殿も知っているだろう。どちらかを選ばなければならないとなると……」
と言う守就に、姉妹のどちが不自由なのかは知らない政秀は、
「そうだなあ……」と言葉をにごした。
しかし一方、
信長と姉妹が実の兄妹かも知れないという秘中の秘を、信秀に付いて僧坊に関わっていた政秀は知っていたが守就は知らなかった。
まあ守就に限らず知っているのは尾張.美濃通じてほとんどいなかったが。
なんぼなんでもこの話、
酔った政秀の戯れとは思った守就。
利政に、伝えるだけ伝えようと思っているうち忘れてしまった守就。
次の年の正月突然思い出し、今聞いたかのように伝えた守就。
思いもしなかった兄妹の結婚話。
「冗談だろう」と笑った斉藤利政。
笑ってはいたが、娘の異常に怯え、誘惑に抗せなかった己を責める利政。
しかしもしかしたら近親が交われば……藁藁をもつかむ思いが思わせたが、血で血を清めることなぞありえない。
純粋を求める血の残酷さを知っている利政だから、
娘を手にかけることが出来ないなら……いや、娘を手にかけるくらいなら、近親相姦を肯定したほうがまだましだと思った利政。
さりげなく政秀からの話に合意する旨伝えた利政。
するとなんと即、同じく合意する旨の返事が信秀から来た。
まさか信秀が受け入れるとは思わなかった利政。
唖然としながら顔が緩むのを押さえることが出来ず、思いもしなかった流れに乗って、これ幸いと下駄を預けることにした利政。
黄金の免罪符➁
近親相姦と黄金の免罪符の隠微な同質性を直感しながら戦略家信秀にとって婚姻は、織田弾正忠家の四面を考えると渡りに船ではあった。
このところ体の衰えをとみに感じ、もう長くはないではないかと気弱な日々が続いている信秀は思った。
あの堺の納屋宗次の屋敷で合った二人の娘。
あの二人の娘の妖気に囚われ身も心も入れあげた。
結果、忘れていたわけではないが尾張の統一にもかまけ、今の現状では、俺の身に何かあれば倅の三郎に統一はまだ荷が重い。
忘れていたが、あの姉妹に出会ったのも、もとはと言えば黄金の免罪符とやらのせいだ。なんか風が吹けば桶屋が儲かるみたいになってきたけどそれはさておき、俺は宗教に興味は全くなく、俺の親父の信定からも、宗教の話一度も聞いたことなかった。だから宗教的には何もわからないが、直感的に近親相姦が後ろめたいように黄金の免罪符にも後ろめたさを感じる。しかし後ろめたいから、より甘美な快感が増すということでは両者は似た者同士かもしれない。まあ俺には縁がないが、倅の信長のほうがなんか宗教的なかんじがすることがある。むろん四面楚歌が第一の理由だが、黄金の免罪符を知るうえでも、この際近親相姦してみたらいいのではないかと思う。あとづけだけど血の巡り良くなるだろうから。
改めて思うに、近親相姦にもいろいろあるが、父親が娘をと言うの結構はよくあるらしく、思い余って娘が父親を殺すという悲惨な結果に終わることになる場合が多いようだ。あまり聞かないのは父親と息子の近親相姦。だが小姓を愛でる習慣があれば息子を愛でるということも考えられる。俺はおなご一本だから男色は興味ないというより気持ち悪いし、息子となんか思っただけで吐き気がする。だが治重郎とはまだ元服前ふざけてそんなことしたことあった。しかしもし父子がそんな関係になったら最後は、息子による父親殺しがあつても当然と思える。そして息子に襲われたら父親は、是非もないと言うよりしょうがない。
とは言っても近親相姦、あまり続けると血が濃くなって良くないらしいが、ちょっとなら刺激があっていいのではないだろうかとも思うのである。
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近親相姦➁
天文二十年(1551)春二月。
美濃の雪をうっすらと残した輿から降りた花嫁。
衣を外し、控える織田家の出迎えに軽く会釈した花嫁。
すっと空を見上げた十四歳の花嫁が、
「いいお天気!尾張も美濃も空の色はかわりないのね」
と真っ白な喉頸露わに言った。
村井貞勝と共に片膝ついて輿から降りる花嫁を出迎えた内藤冶重郎。
降りた花嫁が姉の帰蝶ではなく妹の市蝶だと知っていたが、それはそれとして、空を見上げた真っ白い咽喉に心を捉われた内藤冶重郎。
治重郎の後に控えていたお春。
そんな治重郎の様子に、しょうがない人と苦笑したお春。
去年尾張家の夫と別れ、化粧方になったお春が、三郎信長の嫁がどんな娘か小姑的な目をひからせていた。
花嫁の出迎えに男ばかりでは愛想がないと誰かが言い出し、婿の三郎信長の乳兄弟だからということで引っ張り出されたお春だった。
姉帰蝶との結婚が決まり、妹の市蝶も姉にくっ付いて必ず来るに違いないと思った信秀。なにしろ二人はいつも一緒なのだから。では二人をどこに住まわせるのかと信秀が考えたとき、二人の母が住んでいたあの屋敷が頭にうかんだ。
あのまま放置していた屋敷。
使えるかどうか見に行く信秀に付いていったお春。
埃だらけの二棟の屋敷を見て回りながら、ここに費やした時間と金が尾張の統一を遅らせたのは事実だが後悔はしていない、と言った時の信秀の急に老けたような表情を思い出したお春。
そして結局、二人はその屋敷の一棟ずつに住んでいたのだが、信長が清州城に移ったのを機に、なぜか市蝶だけ勝幡城に移ってしまったのだ。
明日をも知れない信秀を気遣い、形ばかりの婚礼があの屋敷で行なわれた。
むろん必要な修理はしたうえピカピカに磨きあげられていた。
昔は坊さんよんで自宅で葬式したもんだ。
俺の知人の父親は、自分の葬式のため、死ぬ三日前に、自分が臥せている部屋の畳の表替えをさせたほど豪胆な父親だったという。それはともかく、今死ぬかも知れない病人が寝ている布団を、あちこち移動させながら作業しなくてはならなかった畳屋さん、ご苦労様でした。ちなみに知人はその時世界中を放浪していて、後日母から聞いたという話。
花婿が杯を飲み干したのに続いて杯を飲み干した花嫁。
まだ十四歳なのに飲みっぷりがいいのは父親譲りなのか?
それはともかく
ほんのりと頬を染め、被衣越しに信長を見つめた花嫁が、
「わたくしは姉の帰蝶ではなく妹の市蝶です。輿に乗って輿入りは生涯で一度っきり」ときっぱり言った瞬間青い瞳が瞬いた!
ギョッまさか、兄妹!
花嫁の青く瞬いた瞳を一目見て血の繋がりを直感した信長。
兄妹の結婚!
結婚する相手が妹とは聞いていなかった信長。
姉をよろしゅうにという妹。
驚きがさめないまま妙に昂ぶった信長。
よろしゅうに言われてもと戸惑いながらが寝所に入る信長。
もうそこにいた。
花嫁そっくりの娘が白い寝衣をまとって一人寝床の横に座っていた。
「三郎さまですね。わたくしが妻になる姉の帰蝶です。よろしゅうに」
と言って手探りで頭を下げた。
目が見えないのだ!
目が見えないのは素振りで分かった信長。
双子の姉妹のうち一人の目が不自由なことは、重郎から聞いていたので驚かなかった信長に、見えない目で正対した女が、ニッコリ笑い妙な京なまりで言った。
「目が不自由な姉のほうが妻で申し訳おへん。それはともかく、妹が市蝶だと名乗った以外になんぞ失礼なことを言いまへんでした? 口から出まかせを言うのが妹の悪い癖なの。なければよろしいのですが……お手数ですがお手元の明かり消しておくれはりまへんか三郎さま」
怪しすぎる京ことばのせいか信長の目の前が真っ暗になった。
明かりが消えた漆黒の闇の中をススッと摺り足で近づいた帰蝶。
迷い無く取られた手をぎゅっと握られ驚愕した信長。
ギエッ! 見えるのだ!
光は見えないのに闇は見えるのだ!
ちびりそうになった信長。
結婚する相手が実の妹とも、闇が見えるとも冶重郎が言わなかったのは知らなかったのかそれとも、悪戯心で黙っていたのか……。
婚礼の席以来ビックリすることが重なった信長。
近親結婚を心配する信長の手を取り引き寄せた帰蝶が耳元で、
「今宵だけ夫婦の契りを、帰蝶はそれで生きていけます」と囁いたが無論一度だけでは済まず、「やや子は出来ませぬから」と夜毎引き寄せられる信長。
「三郎さまは何をしても許されるの」
と闇の中で三郎信長の体をまさぐりながら帰蝶が呟いた意味も、婚礼の席で市蝶がきっぱり言った「いちどきり」の意味も何もかも分からない信長には、闇を自在に闊歩し闇を支配する女の恐ろしさに抵抗する気さえ起きなかった。