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「享禄五年 (1532) から天正十年 (1582) までの筋書」
木曽川①
木曽川は上流から下流に下流から上流に絶え間なく流れる水で遠い対岸まで埋め尽くされ、辿り着いた旅人に渡る気を起こさせないような威圧感がある。
天文十年(1541)春二月。
堤の上に根を張った姥桜の苔むした太い幹からほんのりと薄い紅色をのぞかせる蕾を無数に付けて四方八方に伸びている枝の下に佇み、三頭の馬をひいた三人の人影が見つめる川中の引き潮に乗った筏が何床も連なりうねりながら下って来た。
先頭の筏で竿を操るのが股引に腹掛け姿の若者唯一人。腹掛けの胸に○に六の字がくっきりと体の動きに合わせて躍り、手を振る三人に応えて遠く白い歯がきらりと輝いた。
「イカダから落ちたらどうなるの」とお春が訊いた。
「死ぬだろうな」と冶重郎が答えた。
「命がけなのね、イクサに行くのとどっちが危ないの?」とお春が訊いた。
「さあ、どっちかな? どっちだろう」と冶重郎が言った。
「イクサだ」と吉法師が叫んだ。
「イカダよ」とお春が叫んだ。
「イカダに乗ってイクサに行くのがいちばん危ない」と冶重郎が言った。
「またふざけて、ふざけてばかりいると冶重郎さまのお嫁さんになってあげないから」
とお春が言うと吉法師が言った。
「お春は吉法師の嫁になるって、こないだ言ったのに」
「吉法師さまは泣き虫だからいや、泣いてばかりだから」とお春言った。
「もう泣かないから……」と吉法師が言った。
「ほらもう泣いてる、弱虫」とお春が言った。
「二人は幾つになったのかな」と冶重郎が訊いた。
「おれは八つだ」と吉法師が言った。
「わたしもはっさい」とお春が言った。
「二人が三つの時からだからもう五年たつのか、あっという間だった。馬にも上手に乗れ
るようになったし、特に吉法師さまは上手だ、なあお春上手だな」と冶重郎が言った。
「上手、馬は上手」とお春が言った。
「上手なこと、好きなことを一生懸命やったらいい。お春は何が一番好きなのかなあ?」と冶重郎が訊いた。
「遥子はね、人の髪や顔にさわるのが好き」とお春が答えた。
何故か時には自分のことを遥子と言うようになったお春。
「それならいつか大人になった遥子にさわってもらうのが楽しみだ」
と言った治重郎の笑顔が一転真面目な顔になり「ところで今日ここに来たのは二人とお別れするため。わたし内藤冶重郎は桜が咲いたらこの川を渡った伊勢長島で小夜という娘と妻夫になることにした」と言った。
「……」
「……」
めったに人を褒めない冶重郎が褒めたわけがわかった遥子。
「この五年の間、二人と過ごせて楽しかった」
「……」
「泣くなお春泣くな。いっしょうけんめいけいこして馬で川をわたって冶重郎に会いに行くからなあお春、いっしょにおれの馬に乗って会いにいこう。もう泣かないから、誰よりも強くなって誰からもお春を守ってやる」
と言う吉法師に治重郎が言った。
「吉法師さまは根が優しいから強くなったらホトケに金棒だ」