十三夜

同年同月同日

昼を過ぎ、貸し切り状態の緒上荘にいずれも徒歩で孫右衛門と長政が姿を見せた。遅れて久政がちょっと立ち寄った風情でこちらも徒歩で顔を出した。

いずれも供はわずかだった。そして

夕刻前に仕事を済ませた市之介がお徳を連れ仲良く到着した。

浅井の首脳が集まった名分はお市の方の安産を十三夜の月に祈る為だった。

一同月見用に屋根を取り外した幅広の屋形船に乗りこんだ

しなやかに操るお菊の艪さばきに一同感心しながら沖に出ると、湖上でゆれながら輝く月の美しさはすさまじいばかりだった。

 

こぎ手として艫の隅っこにかしこまり揺れる湖面をずうっと見ていて気持ちが悪くなっていた吾助が、「料理を出したいから代わってください」とお菊から艪を渡された時ぎゅっと手を握られびっくりした。

しかも微笑んでいたので船酔いが飛んでいった。

(お菊さんがおれのことを好きだって言ったのは本当かな?微笑んだと思ったのも握られたと感じたのも思い違いで渡された艪が滑ったので笑っただけかも……)

 

狭い船の中を軽やかな身のこなしでたちはたらくお菊。

その姿をちらちら見ながら艪を漕ぐ吾助。

ほどなく風もなく月見に最高の湖上で安産を祈って杯が掲げられた。

用意万端質素だが手が加わった料理。

思い思いにに箸を付け、杯をかたむけしだいに和気藹々となった頃合いをみて銚子を持って長政に躙ったお菊。

「いま飯をくってる」とそっけなくあしらわれた。

しかしいつものことで(あそう)という顔をしてめげないお菊。

そんなお菊の様子に感心しつつ、知恩寺の風呂場のことを市蝶から聞いて、

(浅井新九郎の変わり様は並大抵ではなさそうだ)

と呆れたことを思い出しながら孫右衛門に酌をしようと傍に寄ったお徳が顔を見てギクッとした。

お徳がギクッとするほど皺が深くなっていた孫右衛門。

孫右衛門が唐突に言った。

「北伊勢に兵を出したらしいな弾正忠殿わ」

そのようでと肯いた市之介が、「八月中には稲葉山に止めを刺す予定と聞いていたのですが」と言いながらお徳の酌に嬉しそうな親父が急激に老け込んだのは俺の所為に違いないと暗澹たる思いだった。

 

「何時になるのだ稲葉山総攻撃わ?加勢を言ってきても九月に入ったら人数が集まらないぞ、弾正忠殿のやることは分からん。ところでお徳は弾正忠殿をへこましたことがあるらしいがいまひとつ分からないその本性、どういう人物か教えてくれ」とお徳に聞く孫右衛門

「へこますなんてとんでもございません」

と言いさらに「三郎さまは優しすぎるほど優しいお方です」

と言ったお徳に肯いて杯を置いた長政が言った。

「一度だけお目にかかっているが大胆そうで実は用心深い方だとお見受けした。北伊勢えの出兵は京都との往来を鈴鹿越えで確保するためという見方も……。今は下準備をおこたりなく西美濃三人衆の腹を見定め、加勢の件も彼等の動きがはっきりするまで要請しづらい。万一三人衆の心が変わり、それに浅井の本隊さらに朝倉の援軍が加わり、稲葉山に取り付いた織田軍を襲い粉砕して尾張まで追い詰め討ち取ることも可能。そこまで思案する弾正忠殿の用心深さ、近々美濃を手に入れるのは間違いないこと」長政の言を横から久政が

鈴鹿越えで京との往来か、どう思うお徳。美濃を手中にしたとして織田と朝倉の力のぐあいはどんなもんだろう浅井は措いといて……」

侍女に訊く久政の酔い加減を心配しながら市之介が答えた。

「財力でいえば山門との繋がりで毎年入っていた莫大なあぶく銭が、続く騒乱で以前ほどではなく、百年に及ぶ蓄えもいささか細ってきた。戦力的には長年に亘る一揆勢との抗争が最大の弱点。越前入りした義秋公は足利将軍家嫡流の血筋、本願寺との伝手はいろいろとあるらしい。和解に成功すれば大きな戦力、いい勝負になると思うが……」

なるほどと肯いた久政が杯を空けながら言った。

「浅井が加わったら、おっとと……。越前に入ったものの義秋公と朝倉とはしっくりとはいってないようだ。厄介なことに、次期将軍になる可能性がある義秋公の世話を将軍並みにしたら莫大な金が掛かかる筈。もし朝倉に余裕が無ければ饗応の一式や献上物の目録なぞ書くだけは只だから適当に書いてお茶を濁しているかも知れない。しかし和解に成功したらそういう訳にも、朝倉は痛しかゆしだな」と言いさらに「そうかといって上杉も武田も内憂外患交々で当てにできないのが現状だ。細川藤考はどうする。そういえばにせ明智の光秀、いったん尾張に帰ってから一乗谷に行ったようだな」

 

久政があまりにも饒舌なので首をかしげた市之介。

「にせ明智ですか光秀殿は」

いまさらそんなこと言ってもといいたそうな顔に肯いた孫右衛門。

「偽物であろうがなかろうが人物しだい、人物は本物と見る」

と言う孫右衛門に「人物に関しての評価は難しい。清原枝賢の件もそうだがちょっとした嘘が入るのが癖のようだ。それはともかくお市殿が時々手紙を出す相手、お徳は知っているな」と久政

「はい姉御の帰蝶さまです」と言うお徳。

「宛先はな。だが本当の受取人は浅井に嫁ぐ前十五年も市蝶殿の世話役をしていた内藤冶重郎。内藤の今の役職は奥の方の世話役。しかし実質はかつて遊び相手を務めた弾正忠殿の懐刀。光秀を使っているのも内藤冶重郎」

そうだなと言ってぐいっと飲み干し、杯を差し出しなおも言う久政。

「その内藤冶重郎が一乗谷に滞在する義秋公を尾張に迎える企みを光秀に指示したとしたら、そしてもし朝倉が面子に拘り義秋公を快く送り出せなければ、浅井は朝倉と織田の板ばさみはおろか股裂きになりかねない、どうする?」

と言う舌がもつれる久政に眉を顰めたお徳。

その様子に気が付いたお福が、「お酒を入れてきます」と言って久政の前にあったまだ入っている徳利を抱えて艫に行ったきり。

一乗谷では……酒はどうした」

もつれる舌で酒を催促するみっともなさに、「もうそれくらいで、体か心配です」と言って止める長政をぐっとにらみ付けた久政。

「おまえの奥方べっぴんの奥方」さらににらみつけ「やたらと一乗谷に行きたがっているべっぴんの奥方。名将朝倉孝景から百年、いまや惰眠をむさぼるあんな寝ぼけた谷のどこがいいのだ。子供が出来て行けないからって、べっぴだからって駄々をこねていいものではない」

ことさらべっぴんを連発しながら嘲笑するように言った久政。

 

突然聞き捨てなら無いことを口にした久政にびっくりしたお徳か思わず言った。

「おやめください、お市さまを愚弄するのはおやめください」

「なんだお前は、侍女の分際でわしに意見するのか」

腰にない差し添えに手をかけんばかりの久政を制した孫右衛門。

「呑むのを控えて大丈夫だと言ってたが変わってないな」

とたしなめるような孫右衛門

改めて隠居した義弟をながめた孫右衛門の視線と眉を顰める息子長政の非難するような視線に上機嫌だった久政が突然豹変した。

「兄貴はいいよな好きなことをしておれなんか……。誰か泳げせっかくの月夜だ波も無い。そこの舟コギお前が泳げ、泳いでくれ、泳いでくれればわしの酔いも醒める」と喚いた

びっくりしたお福が、「吾助さんは泳げないから」と艫から叫んだ。

「船コギが泳げないわけがない、泳げ」となお理不尽に迫る久政。

度を越す酩酊状態を心配して中腰になったお菊を見て矛先を変えた久政。

「お菊、此処の生まれのお前なら生まれたままの素っ裸で泳げ」

とんでも無いことを言いだした久政。

酩酊した久政が再びお市さまに矛先を向ける恐れがある。

今度お市さまが愚弄されたらたとえ芝居でも許せないお徳。

久政の首を刎ねかねないおのれの行為を恐れたお徳が立ち上がって帯に手をかけるのを見た船宿の娘お菊が、「わたしが泳ぎます」と言って帯を解く手が星の瞬きに白く揺らめいた。

それを見ていた吾助 なんと

さっき、ぎゅっと握られた女の手のなんともいえない忘れられない感触が泳げないことを忘れさせた。

「おれが泳ぐ」と言ってぱっと着物を脱ぎ捨て現われた褌一本の見事な裸体。

金剛力士もはだしの裸体。(だめ泳げない)

この体形の男が水に浮かばないことは経験から知っているお菊。

「だめ吾助さんだめ」

と叫びながら艫に走って船べりに足をかけた瞬間着物がぱあっと舞いあがりまっ白い裸身が月光に輝き湖面に水しぶきが上がった。

 

艪を握りなおした吾助。

「直ぐもどってくる」と抜き手をかく白い裸身に声を掛ける

笑顔が仰向き、足にまとわる緋色の湯文字が人魚に魅せ一層躍動する筋肉。

艪は艪臍との摩擦で煙を上げ、船は水面を滑空して瞬く間に船着場に。

降りたがらない長政をつまみ出した吾助。

ヘサキが返ったと見えたら人魚の横に!。

 

遠く輝く月明かりのなか、人魚に手をさしのべる金剛力士

二つの異形を乗せ、湖面に光るさざなみと戯れ漂うヨウランのようにゆれる屋形船。湖岸に立ち続け背伸びして視ている長政を横目に、二人の女がアクビをかみ殺し顔を見合わせた。

「うまくいったとちがいます!」

「そうね出たとこ勝負にしては」

お市さまが言っていた常人には理解できない浅井長政の性癖。

「月明かりにうかんだお菊さんの綺麗な体。吾助さんの異型体。輝いている新九郎さまのお顔。それにしても久政様のお芝居のお上手なこと、まるでお芝居じゃあないみたい」

それはそうかもねとと思いながら呟いたお徳。

「これでお市さまに安心してお子を生んでもらえるでしょう」

(三郎さまと新九郎さまとは以前一度会ったことがあるらしいと報せなければ)