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小谷①
永禄九年(1566)十月二日。
三日続きの秋晴れ。
高い松の梢をさやがす風が運んでくる薫りも市蝶の肌を撫ぜる気持ちのいい冷やっこさも尾張とはあきらかに違っていた。
並んだお膳の朝げの匂いも初めてで嫁いだ実感がわき夫婦になった実感がわきさりげなく長政を窺う市蝶。
実はほんのりと白んできたとき体にまつわりついた長政の体液と自身の汗を流したい思いできてみたら吾助の湯が満々とあふれ、おもわず小窓を開けて言った。
「ありがとう吾助」
と言われ初めて市蝶に白い歯を見せた吾助。
吾助が牛に引かせた荷車に釜一式を乗せて峠を越し、川を越してここまで運んできたのはお福とのこともあったがこの声を聞きたかったから。
さらに吾助にとつて嬉しいのは、館の座敷と姫屋敷の座敷は離れていても湯殿は背中合わせなのだ。
山からの豊富な水と薪とがこのまま浅井に留まる予感を吾助に感じさせた。
吾助に微笑んだ市蝶がそっと寝床に戻ると長政に求められた。
せっかく流したのにと思ってちょっとあらがってみたが、的を外した昨夜のみっともなさを取り返そうとがんばる年下の夫が愛おしくなりなすがままに身をまかせた。身をまかせる心地よさを初めて感じながらこの男、知恩寺の風呂場を覗いていた男に違いないと確信した。
二度寝ですっきり目覚めた碧い眸に浅井の紋所がしるされたお膳が新鮮に映った。
「浅井の味はどうだ口にあうか」
と心配そうな長政。
「はい美味しいですとても」
と言ってニッコリ笑ってみせた市蝶。
「それはよかった」
ほっとした表情を見せた長政。
思えば、控える者も給仕する者もいない二人っきりの食事はこのときが最初で最後だった。
嬉しそうにおかわりした夫長政の茶碗に見よう見まねで杓文字を使い、渡すとき目がさりげなく合い、今まで味わったことのない妙にくすぐったい時を過ごしていると襖の外から田屋孫右衛門の声がして義父浅井久政が現われた。
田屋姓から浅井姓になり再び田屋姓に戻った孫右衛門明政。
男子のいない亮政の娘婿に乞われて養子になったとたん妾腹に久政ができ、成長するにつれ悩む亮政の誠実さに感じ入り(血がつながっていたほうが)と自ら身を引き、すっきりさせるため息女鶴千代と別れ田屋姓に戻った。
しかし鶴千代の懇願により田屋姓のままだが縒りを戻したので久政とは義理の兄弟。浅井の領地も血も兄弟力を合わせ共に広げようと威勢はよかったが結局イクサ場も女も駆け回ったあげく男子は久政の子新九郎と孫右衛門が他所につくった市之介の二人だけと口ほどでもない戦果。
方や久政は諦めていて出来た子。
当然可愛がられ苦労知らずの上に賢く生まれてしまった。
跡を継いでからは領内施策に力を入れそれなりに支持されていたが百姓の顔色を窺い門徒の機嫌を取ることに耐えられなくなった久政。しかし嫡子新九郎はまだ若く簡単には隠居できそうも無い。
そこで朝倉の後ろ盾を計算に国人衆を煽って六角定頼に仕掛けた合戦でめでたく大敗。一時賢島に身を隠すなど危なっかしさに隠居を強要する家臣たちにしてやったりと久政。頃合いを見て中に立ち新九郎えの代替わりをまとめるため後見人になった孫右衛門。今も昔も人の良さは変わらない。
*
足元の若々しい久政の姿。
歳からいったら夫より舅のほうが相応しいくらいの市蝶。
いささか気が咎めながら、
「お初におめにかかります市蝶ですよろしゅうに」
と言って畳に手をつく市蝶。
「堅ぐるしい挨拶は抜きだ」
と上機嫌の久政。
「兄貴が言うには浅井の行く末はそなたにかかっているらしい」と
と真面目な顔で言ったが一転「それにしても美しい、くらくらするほどだ」
と冗談めかしたお愛想を言う長政。
何時にない久政の素振りに
「いいかげんにしないと父上」となじる口調も力が入らない長政と
「うれしいのだ綺麗な嫁が来て」苦笑した孫右衛門。
そんな二人をしり目に
「隠居仕事に子守りをしてやろうと思ったが、おっとと、早々にきつく睨らまれてしまった」
とおどける久政を見てちょっと気が楽になった市蝶が笑いながら言った。
「父上が思っていた以上にお若いのでびっくりしただけです」
苦労してないからなあと自嘲気味に「若いのに隠居してしまったダメな男だが……」とつぶやき「ところで小谷の空気は合いそうかな、尾張や美濃とも違い京とは較べられないほどの田舎だからな」と言った。
「京は荒廃していると聞きます。それに比べ小谷は穏やかで美しいところ」と言う市蝶のおっとりした雰囲気が座を包んだ時
「皆様おこしでございます」と襖の外からお菊の声がした。
市之介が顔を出し後に続くお徳の姿に孫右衛門の眉が顰まった。
襖が開くと姫屋敷に泊まっていた面々、冶重郎を先頭に光秀と小六までは良かったが、続いて現われた佐内に何をしに来たのだという顔をした孫右衛門。
「こちらは隠居の久政殿だ」と孫右衛門に引き合わせたのは三人だけで山本佐内は無視された。
三人のうち内藤冶重郎と蜂須賀小六の二人には型通り挨拶した久政が光秀には親しみのこもった視線を投げかけ
「明智殿は清原枝賢に学んだとか、実はわたしもソレをかじったことがある。ソレが隠居した理由のひとつだが……そんなことより枝賢の従兄弟細川藤考と面識わ?当然あるな。その藤考が義秋公を奉じて天下を平らかにと動いているようだ。しかし貴公はそれに劣らぬ傑物とわたしは見ている。いずれにしろこのお三方はそれぞれこれからの世の中を動かすサムライ。結ばれた祝いと合わせて祝杯をあげよう兄貴の音頭で」と上機嫌で言った。
頷き「浅井と織田が御両人で結びついたことに乾杯」
と言って孫右衛門が捧げた杯にありがとうございますと頭を下げた市蝶。
「父上と孫右衛門さまのお言葉、身に沁みました。お三方はそれぞれご存分のお働きを。わたくしの所為で死にそうな目に遭わせましたがこの地で幸せになることでお返ししたいと思います。こんなに楽しい旅ができるなら何時かまた佐内殿も一緒に皆で旅をしたいと思います。辛いから見送りはいたしません。お元気で……」と言って涙ぐんで見せた。
女の涙で金縛りになった男達の体たらくに内心舌打ちしたお徳とお菊に見送られて姫屋敷に移動する途中、「それって何だ」と小六が訊き、「儒学のことだ」と答えた冶重郎が無視された佐内に座敷を覗いた訳を聞くと、「覗いたのは妹の扱われ方を心配された帰蝶殿の要望で、あんたが思っているほど冷たいお方ではない」と笑い、あの兄弟とは敵になったり味方になったりの腐れ縁だ気にするなと言った。肯いた冶重郎が聞きたかったこと、美濃で姉妹の秘密を漏らしたわけを訊くと忘れたと言い、市蝶殿の要領のよさは変わらないなと笑った。
久政の視線に冷や汗をかいたのも疾走の一歩を踏み出しそこねたのも途中から行列に加わった所為だと勝手に繕い、今度は初めからお供をしたいものだと思った光秀。
城に駆け上がり気を失い殿様に直接渡せなかったことを詫びる太平は「無理を言った」とねぎらう冶重郎に上目遣いの愛想笑いを見せ、「おいが死んでも悲しがるものは無いからだんなさまが気にすることは無い、死んでも泣くものは無いから」と言ったが(お前が死んだら誰が泣いてくれのだ)と言われたような気がした治重郎。