姫屋敷①

永禄十年(1567)秋八月二十三日。

予定よりちょっと遅れて無事女子を出産した。

その三日後、 稲葉山攻撃の応援に市之介と共に一千の兵を連れ出陣していた長政が夕刻帰ってきた。

清めの塩で迎えたお菊のうりざね顔がやや丸っこくなっている。

「おんなだったか、しかし母子とも元気とのこと何よりだ」と言う長政に

「かわいい赤ちゃんです。わたしも欲しくなりました」

とお菊が冗談ぽく言ったらぎょっとした長政。

「いけません?冗談です」

と繕ったが出来たら絶対産むと決めているお菊が言った。

「お見舞いに直ぐ行かれたほうが、赤ちゃんも見たいでしょうし」

「からだを流す、汗とほこりを。それから会いに行こう」

と言う長政に

「はい、しかし血は、返り血は大丈夫ですか?」

と言うお菊に長政が言う

「血はない、弾正忠殿が戦わさせてくれなかった」

「なぜです?」と怪訝なお菊。

「お前が知る必要はない」と声を荒げた長政。

  

産屋は造らず姫屋敷の座敷で産んだ市蝶

その座敷に型通りの産養がしつらえられ、幾つかの丸盆の上に供物が供えられ高坏の上には浅井の氏神が宿った石が輝き、市之介も加わって祝いの宴になった。

 

召使たちを指図する間を縫って長政に酌をするお菊。

控えめだが自信に満ちたお菊。

短期間にこれほどまでに変わるとは(女は怖い)と自分のことは棚に上げて感心する女たちだが、変わったのではなく地が出ただけなのも分かっていた。

そんな雰囲気の中赤子を覗き込む長政。

「娘を抱いてやってください」と微笑を浮かべた市蝶に強請られた長政

首の据わっていない赤子をこわごわ抱いた長政

抱いたが早々にお香に渡した夫に、

お七夜までにやや子の名を考えておいてください」

と妻がまじめな顔で言った。

 

何度目かの疑問に捉われているお福の耳に、

「湯のしたくが」とくぐもった吾助の声が縁の外から聞こえた。

吾助の湯は何時でも沸いているのにと思ったお福が、そうか吾助さんはまだ赤ちゃんを見てないのねと赤子を抱き上げ、(ほら吾助さん、これがお市さまが産んだお子可愛いでしょ)と言おうと思って縁の外を見ると誰もいなかった。

 

吾助の碧い視線がすうっと赤ちゃんを通りお市の方を撫ぜた。

わたくしの子に違いないのだから誰の子でもいいと思っている市蝶。

視線を感じた市蝶。

お福と同じ事を思い当たって肯いた市蝶。

縁の外を見て瞬かせた視線をお菊に移した市蝶が、

「お菊さんにお礼を言います。新九郎さまの世話を押し付けてごめんなさい」

と言ったら、

「押し付けられたとは思っていませんからお市さま」

とお菊が言った。

二人の様子に戸惑うお菊付きになったお豊。

その時お豊を救うかのように赤ちゃんが泣いた。

「お乳をお方様」と呼びかけるお香。

「はい」と爽やかに返事をして衝立の向こうに入り授乳する市蝶。

衝立の向こうの妻のいっそう豊満な白さを想像しおよび腰になったなさけない長政の姿に悲しそうな顔を隠そうとしないお菊。

そんなことには無頓着なお市の方が衝立越しに言った。

「兄上にはお会いになったのですね、お元気でしたか?」

と言う市蝶のくったくのない声に、慌て気味にいたお元気だったと答えた長政に頷き「市之介どのは初めて会われ頭はどんなぐあいでした?」

と笑いながら訊かれたがそんな余裕はなかった市之介。

「お元気な様子でしたが正直なところ、圧倒されて……」

圧倒されたのも無理はない、戦いが終わった直後の戦場だった。

  *

あれも一つの戦場だったのか!。

冷たい風か吹きぬける櫓の上で信長からの書状を何度も黙読する新九郎の口が会話をしているかのように動いていたのを思い出して身震いした市之介が、「弾正忠様は市蝶殿の体のことを心配されていました」とかろうじて言った。

そうだと思い出した長政が、「無事出産の知らせを受けて喜んでおられた」と言ったのでわたくしには何時も素っ気ないのにと思った市蝶が、「そんなに喜んでくれるなら名前ぐらい考えてくれても好いのにねえお徳」とお徳に振ったが三郎信長の評価ではいつも困惑するお徳が口ごもるのを縫って割り込んだお菊。

「いくさをさせてもらえなかったのは何故ですか、市之介さま」

と今度は市之介に訊いたのでむかっとした長政。

「余計なことを言うな、兄上の話しをしているところだ」

自分をさしおいた行為を叱責する声が大きくなりしかも裏返ったので衝立から顔を出したお市の方

「わたくしは好きですお菊殿の姿勢」とお菊を擁護し、「これからは女も知っておいた方が、市之介どのお話しください。新九郎さまはこちらに来てやや子がお乳を飲むのをごらんになりません」

と言って赤子を見せるつもりで吸い付くふくらみまでが見え、その豊満な白さに(えっいや)とうろたえる長政の姿に立ち直った市之介が早口に言った。「簡単なことです、員数に入っていなかったからです。関が原を越した西来寺で待つようにいわれ、呼ばれて駆けつけたが最後の攻撃が終わっていた」

つい立の向こうから赤ちゃんのゲップが聞こえ市蝶が言った。

「員数のことはともかく親戚の義理も果たしご無事のご帰還、これに優ることは御座いません。それに、大事な稲刈にも間に合ったことですし、結構なことです」

「稲刈り!問題はそこなんだな市之介」と肯いた長政。

 

「織田の一軍団は金で雇った傭兵、いつでもイクサが出来る。ところが浅井の全軍は国人衆もふくめ全員農兵。百姓はもとより、地侍等も普段は農民だから農繁期はイクサどころで無い。浅井に限らないことだが長い目でみたら勝負にならない」

(でも)めげないお菊。「でもお金が無くなれば雇えなくなるからお金も生んでくれる農兵の方が勝つのではないですか」

「さすがに新九郎さんが魅かれただけあってお菊どのは鋭い。金の切れ目が兵の切れ目なのは間違いなく綱渡りだが、もともと織田弾正忠家は信秀殿の前の代から交易で財をなした裕福な家、百姓に頼っている家とは根本の考えが違う。多分先の狙いは領地ではなく流通銭の統一。統一して金の流れを変える、あるいは絶つ」

 

襟元を整いつつ現れた市蝶が言った。

「市之介殿の深慮に感心します。でも兄上は単純にズルイのが嫌いなだけで何をどうしたいとか難しいことは考えていません。以前お春が言ってました、気が優しくて心配性なのに馬に乗ったら人が変わるって。嫌いなだけでなく許せなくなるって。かつて周りの悪童たちに祭り上げられ、降りかかる火の粉を払い続けているうち姉上の影響で異質な若者像が勢い付き、その勢いに惹かれて人が集まってくる。それが今の織田弾正忠三郎信長です」

三郎さまはズルイことが許せないだけ、と小六に手紙を書くお徳