琵琶湖
永禄十年(1567)秋八月十三日。

お日様が後から頭を覗かせた早朝

ちょっと色付き始め見事に生え揃つた稲穂を左右に、琵琶湖に行く道を、汗を拭き拭き股ずれを気にしながら歩いている夏太りのお福。

並んで歩いている細身のお菊も朝日が当たり汗がうっすらと。

荷物運びの吾助を従え、琵琶湖の湖畔にあり良いお湯が出ると評判のお菊の実家の湯治場に向かうお福。

傍目には生まれて初めての温泉にわくわくしているように見えるお福。
   *
七月の盂蘭盆が過ぎ林に囲まれ涼やかに見える姫屋敷。
普通の体でも暑いのに臨月をひかえ汗ばむお市の方

休み無くゆっくりウチワを動かすお徳。

冷たい湧き水で濡らした手拭を固く絞って汗を拭き取るお福。

ふうっと息を吐いたお市の方
「生んだ後のことが心配なのですお徳」と言って眉を顰めた。
「何が心配ですお市さま?」と手は休めず

「ほっておいても子供は勝手に育ちます。知ってますかお福、子を持って知る親の身勝手、という諺を」と澄まして言ったお徳。
「わたくしの気を和ませようといい加減なことをいったらお福が間違えて覚えてしまいますよ」とたしなめ「来春のことです、わたくしが心配しているのは」
夏に入りお市の方の寝所に忍び、ため息をついている長政。

なるほど若い長政さまに対する心配。

時には慰める手もあるがそれだけでは済まなくなる場合も。

また行けなくなったとき行かなければと思う気持ちとの葛藤、想像すればするほど危ない。
そうかといって市之介さまがいる自分が相手をするわけにもいかないし新九郎さまには好かれていない。

いよいよとなったらそれも仕方が無いかもと思うけど……。
「お福はどうです」

とお徳が聞いたのにお福の返事が無い。
「どうなの」

とついお徳の語調がきつくなった。
「どうって何がですか」

と素っ気ないお福。
「新九郎様のお相手、お市さまにかわって」

分かっているのにとお徳。
「お相手ってなんのお相手ですか?」

ととぼけるお福。
「分かっているのにとぼけていい加減にしなさい」

と声が大きくなったお徳。
大きな声を出すお徳に構わず、「新九郎様は福の好みではございません」
と臆面も無く澄まして言い放ったお福にたまらず噴き出したお徳。

なんとか噴出すのをこらえたお市の方

以前六角から新九郎さまのもとに来られたが、子供は出来なかったと聞く若いお方のことも合わせて思案するお徳がお福に聞いた。
 
「お福は新九郎様が苦手みたいですがどうしてなの」
一見優しそうだが自分の好みには病的に拘り自分の身をことさら大事に護る長政がまとう誰にも触れさせない堅固な鎧をお福の若い肌が感じていた。

そんな時に盆休みのお土産を持って訪れたお菊とお豊。
お豊は若すぎるのでお菊を取り囲み根掘り葉掘り身上調査。

分ったのがったのが歳は十八で見た目より若くもちろん独り身で雰囲気は未経験みたい。

ややうりざね顔で外見はほっそりした色白の美人だが男の好み例えば体形は太ったのがいいのか痩せたのがいいのかはっきりしない。

一見ひっ込み思案に見えるが(バアカ)と言ったのが本性かも知れない。

充分すぎるほど魅力的なのに今まで新九郎様が手を付けなかった訳が分からないが実家は琵琶湖の湖畔で湯治場をしていることは分かっていた。
結論が出た。

お菊は長政をひきつける魅力は十分もっているし回りを見渡してもほかによさそうな女はいない。お菊を長政にくっ付けることに決め「とりあえずこのお菊を女にしなさいお前と吾助の時のように」とお菊の顔を見ながらお福に命じた。
   *
お市さまの直感、浅井新九郎はおぼこ娘を受け付けない。
館に居ても埒があかないので、お市さまが手を廻してお菊さんに二度目の盆休みを取らせて引っ張り出したもののさてどうしたらいいのやら。

お前と吾助の時のようにってひどい言われ方だがお市さまに安心して産んでもらうためになんとかしなければ。
そうそうもうひとつあったんだ今度の物見遊山の目的。

吾助の古里がお菊の実家に近い石川在の石川神社で、そこで生まれたと言うのが嘘くさい話だけど一応覗いてみるつもり。

とにかく何とかしないと、(誰もいないならお前が相手をしなさい)いつもはそんな無茶なこと言わないがこんどばかりは言い出しかねない。

市之介様ならまんざらでもないけど新九郎様は勘弁してほしいなどと勝手なことを思いながらそっとお菊を窺ってみると日が昇って汗ばんだ肌がいっそう輝いている。
「お菊さんの好み、どんな人ですか?」
「えっ好みって男のひとの?」突然聞かれて戸惑うお菊。

「そうです男のひとの好み、お菊さんの」追い打つお福。

「べつに、考えたこともありません」とお菊。
考えなくても思ったことはあるでしょうとばかりお菊を睨んだお福。
「痩せているより太っている方がいいとか背は高くなくてはダメとか」

とか言いさらに「頭が剥げていてもかまわないとか、例えば三郎さまのように細身で筋肉質の人が良いとか……」
イラついてつい自分の好み言ってしまったお福。
すかさずお菊が、

 

「三郎様って信長様のことですね。たとえ頭が禿げていても三郎信長様が好きなんですかお福さんわ?」と言ってお福の顔を覗きこんだ。
 「めっそうもない、そんなこと思うわけがないでしょう。それにが三郎信長様は禿げていません」

と慌てて信長が好きなことも禿げてることも否定して怒るお福。
お福が口にした三郎信長にはお菊も大いに興味があったがしかし、

「どちらかというとたくましい人」

つい方便を口にしてしまい恥ずかしさに血が上った。
たくましい人?

たくましい人なら、「後ろの吾助さんなんかたくましいけど」
とお福がまさかと思いながら言ってみたら、ウソッ赤くなってる。
お徳さんが言ってた、なんとかの虫もなんとかってあるんだ。
「でもお福さんと……」声が小さくなったお菊。
「関係ございません」望みが出て来てホッとしたお福。
  *
気がついたら空気が変わっている。もう琵琶湖に近いのかも――。
左右に細い道が変型に交差しているところでお菊が止まった。

そして
「このまま真っ直ぐ、もうすこし行ったら湖に出ます。右側のこの奥直ぐに石川神社の石段が、左側の斜めの道の突き当り湖畔に立っているのがわたしん家の緒上荘。先に行って待ってますからお二人でゆっくり用を済ませて来てください」

と言って吾助に預けた荷物を「ありがとうすいません」と奪い取るようにして小走りで消えて行く後姿を見送ったお福が決めた。

「お菊さん、吾助さんのこと好きだって!吾助さんは?」
返事を待たず右手の参道らしき荒れた道に入っていったが正面に現われた狭い石段が思いのほか高くて勾配がきついのでびっくりした顔がにっと笑って言った。
「おんぶして上って」お市さまなら絶対にやらないことだから……。

三方を貧弱な雑木林に囲まれた崖の棚のような狭い空所に上る。
足元はほとんど朽ち、ゆらゆらと揺れ動く小さな本殿とその前に寄り添う拝殿からにじみでる霊気に包まれた二人の眼がぬれている。
ここが吾助の生まれたところなのか分からないがしかし……。
小さな命が必死に生きようともがいている。もがいてもがいてもがき続ける命が消えかかり抑えきれない生が燃え立ち幻の拝殿に招かれ激しく燃え上がった。
  *
石川神社から戻りまっすぐ行ったら視界が開け葦の切れ間におだやかな波と透き通った水がどこまでも拡がっている琵琶湖に出た。

湖水でほてった体を冷やしたくなったお福。
「まるで海みたいだよ吾助さん」

はしゃがずにはいられないお福。
「泳ごうよ吾助さん、きもちいいから泳ごうよ」

と誘ったが動かない吾助。
「あらまあ泳げないんだ。カナヅチなんだかっこ悪い。いいよひとりで泳ぐから」
と回りを見まわしぱっと脱いでそのまま飛び込めばかっこいいがあいにくの遠浅。太い足がばさばさ波をたて腰まで来た所で振り返つた。

「おいでよ吾助さん、泳げなくても浅いから大丈夫、全部脱いでおいでよ吾助さん」と大声で呼んだがなお動かない吾助にあきれたお福。

「来ないの吾助、碧い目の吾助、意固地な吾助、石川のごすけ~」

と叫んで裸身を投げ出し抜き手を切って波間にただよい湖岸を見たら葦に揺られて独り佇む吾助の姿が滲んできた。

波に身を任せ滲むに任せいく末に任せるお福。
我に返り湖水で顔を洗い着物を纏ったお福が大きな体を小さくして向こうを見ていた吾助の手を取り湖岸ぞいにぶらぶら歩いていくと緒上荘の小さな看板が見えた。

お菊の実家でお昼をよばれたお福。美味しかった。

旅先の気楽さでお市さまの真似をして初めてお昼寝をしたお福。

気持ちよく寝た。その後お日様の下で湯に浸かる贅沢に大満足なお福。

殿御の姿は見えなかったが吾助を呼ぶ気もおこらず、のぼせそうなので出ようとしたらお菊が入ってきた。

隠しきれない身体は思ったとおりの着やせ。
そっと近寄ったお福。

すうっとお菊の肩を撫ぜたお福。

びくっと反応したお菊。
もう一度すうっと撫ぜたお福。

肌を微妙に震わせたお菊に「吾助さんと仲良くしてもいいよ」と耳もとで囁やいた