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聖徳寺①
永禄十一年(1568)秋八月。
尾張の北西木曽川の支流領内川沿い富田に寺内町が広がり、橋で結んだ対岸に伽藍と塔頭が立ち並ぶ広大な真宗聖徳寺。
その聖徳寺の南の外れ、石垣で囲まれた二棟の建物。
その二棟の建物を隔てる渡り廊下の下を流れる疏水に秋の気配が漂う。
その一棟に住まいする帰蝶の居間。
いつもは漆黒の闇に覆われているが今日は縁に面した通風用の二箇所の小さな地窓の板戸を開け放し、内側の蔽いも外し月の明かりがほのかに注している
月明かりで浮かび上がった三人の影がゆらゆらと揺れているのをこの頃頻繁に起こる眩暈を覚えながら縁から窺う背筋が身じろいだ山本佐内。
中廊下ですれ違った明院良政の緊張した顔を思い出して首をかしげた冶重郎。
疎水の流れから耳を閉じた帰蝶。
目を覚ました信長。
「一乗谷からもどった妹は早や二人目の子を宿したようですが、今度は間違いなく新九郎殿のお子なのですね!」
といきなり帰蝶が揶揄するように言つたのでおもわずむっとした冶重郎。
「無論前のお子も」と声を強めた冶重郎。
「妹は何をしているのです!チャラチャラ輿入りして関が原で死にそうになったあげく一乗谷をわけもなくうろついたりして」となおも非難する市蝶。
剣呑な二人の間に割って入った信長がをあくびを噛み殺し訊いた。
「小谷の二人は仲がいいのか悪いのかどうなんだ冶重郎」
「仲はいいのです。お市さまが奨めたお菊という側妻がいるのですが、長政殿も承知で一乗谷以来義昭公に付き添い、今は岐阜の立政寺に」
と冶重郎がもっともらしく言った。
「ややこしい話しだな、仲がいいことになるのかそれが?」
と言って首をかしげた信長。
「お聞きになりました三郎さま。長政殿が承知したことは女にとってつれないこと。だから義昭公に付いて行ったの」と言いなおも「女は淋しくなるとなにをするかわかりません」と言った
帰蝶の辛辣な言葉が男も同じだがと思った冶重郎を襲い、
「冶重郎殿はイクサに行ったことがないと聞きましたが本当ですか?」
と闇から礫が追い討ってきた。
イクサに行ったことがないことになっているのは小便が近く漏らすからだがそんなことを言うわけにはいかないので、「本当です」と答えた冶重郎。
「一度も行ったことがないということですか?」
と暗闇で怪訝な顔をした帰蝶が、
「では、人を切ったことはないのですか」と冶重郎に訊いた。
「人を切るために刀を抜いたことはありません」
と冶重郎が答えたので本当かしらと呟いた帰蝶が、
「本当ですか佐内殿、刀を抜いたことは無いと冶重郎殿が言っているのは?」
と縁に声をかけた。
自分の帯刀は抜かずに襲ってくる野盗の抜き身を次々に奪って切り伏せる技に舌を巻いた記憶はある佐内が、「そのようで」とそっけなく答えた。
「本当なら、幸せな方」と腑に落ちなさそうに言った帰蝶。
「おそれいります」と頭を下げた冶重郎。
この男は抜く必要がなかったのだ。
【信秀の父信定の代から織田弾正忠家に属し、その時から数えたら内藤家の三代目が内藤冶重郎。若くして亡くなった内藤主馬の嫡男に生まれ、年子の弟共々信秀の手で元服した時にはすでに無刀流の奥義を窮め、吉法師の遊び相手に五年就いたあとお小夜と結婚したお祝いとして知行地を与えられたので長島に行くとき弟に家督を譲り、のんびりと川内に浸った九年。帰ってからさらに知行地を加えられ市姫の世話役を十五年。幼少から信秀に特別可愛がられ兄貴と呼んでいたほどで、生き続けるための夢を描く必要も無く、人を押しのけて前に立とうという気も無いので自ら刀を抜く必要もなかった。加えて言うなら、自分にかまけ他人を斜めからしか見たことが無いので奴属して虐げられる人や飢える子供らの悲惨な状態を見ても心は痛むが自分からなにかしなければとも思わない】
*
しかし、あれもイクサの筈だけど……。
清洲から熱田まで夫三郎信長の轡を取って漆黒の闇を疾走したとき、影となって随走していた男に違いない内藤冶重郎は、お徳が轡を取って疾走した狭間えも髄走し、勝ち鬨が上がるまで終始三郎信長の傍を離れなかったとお徳から聞いたとお春が言っていたけど……。
遠くを見た帰蝶を窺った冶重郎。あの時漏らしていたのをお徳に見られていたに違いないから訊かれたら人違いだといい張るつもりだった。
なおも腑に落ちない顔を隠さない帰蝶が
「冶重郎殿が死んで泣いてくれる女はお春だけです。お春と一緒になったらいかがです」と話を変え冶重郎を覗き込むように言った。
知るはずが無いこんなことが何処から伝わるのか改めて興味がわいた冶重郎をよそにお春のことになるとひつこい帰蝶が言った。
「あの駿河の方を迎え討つため轡を取って闇を疾走したとき熱田で夜が開け、熱田神宮の神前に立って戦勝祈願をする三郎さまに応えて武神ヤマトタケルの甲冑をカタカタいわせ笑いをこらえながら出てきたお春に世話をかけました。殿御を肴に日が落ちるまで飲み暮らし、そのとき酔ったお春から聞いたのです。幼いころからずうっと思っていたのに貴方が川の向こうに行ってしまったのでやみくもに結婚してしまったけど絶てない思いが化粧方に向かわせたのって。だからお春と一緒になったらいかがです」
あくる年お礼に熱田神宮の欠けていた築地を造営して寄進した律儀な信長と同い年のお春のことを思い、「気を使っていただいておそれいります」
と言って頭を下げた冶重郎。
「吹っ切れたみたいですね貴方わ」とまたも話題を変えた帰蝶。
「あっいや何の話で……」あのことも……身構えたがそうではなさそうだ。
知恩寺における長政の振る舞いと妹の振る舞いは共に聞いていた帰蝶が、
「一乗谷から帰って貴方の雰囲気が変わりました。それはともかく道中、妹から長政殿の言動に関して何か気になるようなこと聞いていません」
と言ってまた冶重郎を覗き込んだ。
まさか長政の性癖のこととは思わなかった信長眠気が覚め言った。
「お前の言い方はまるで浅井長政になにかイブカシイことがあるように聞こえるがそれは無い。もしそんなことがあれば直ぐ報せがくるだろう。オレは長政を信頼している」
*
【松平元康と同盟を結んだ六年前、十五年前ここ聖徳寺で義父道三に笑われた台詞をそのまま元康に言った。(目指すはイクサのない世)元康は何も聞かずに分かったと肯いた。四年前浅井長政にも手紙で言った。(目指すはイクサのない世)戸惑う返事が来た長政に一年前稲葉山でもう一度同じことを言った。イクサをやったばかりのオレの言い種に、戯れなのかと首をひねっていたがしまいにはオレの目を見て分かったと肯いたのだから……】
*
「長政殿を信頼されているなら結構なことです」
と言った帰蝶が、「あのとき醇正な少女の目は光も闇も見えていたのです。わたくしには見えない光も見える少女の三郎さまの胤まで宿した目を思い出して嫉妬したのです」と告白した。
この夫婦が揃って、あの当時複数の相手がいたお徳の子供の父親が信長だと信じて疑わない理由が分からない冶重郎を戸惑わせたまま、また話題を変えた。
「義昭公はいつ京え?手はずは万全ですか?」
と帰蝶が言った。
「間もなくだ。会いたいなら直ぐにでも会わしてやる」
と信長が言った。
「上洛したあとの掛かりは大丈夫ですか」
と帰蝶が言った。
五年前、綸旨を聞き直接会うことを強く勧めたのは帰蝶だった。
「矢銭をかけるあちこちの寺社にも、それと堺を押さえる」
と信長が言った。
本業は右筆だが見込まれ官房の責任者になりこの屋敷まで挨拶に来ていた明院良政と、それらの打ち合わせをすませたことを冶重郎に伝え
「さて京か!」と言った信長。
「義昭公の人となり、冶重郎どのはどのように見ました」
と訊く帰蝶。
「筋を通したがるお方かと……」
と冶重郎が答えた。
「筋を通したがるお方ですか!三郎さまはどう思われました?」
と言ってオッホンと男のような咳払いをした帰蝶。
「穏やかで賢そうだが……」
と呟いた信長が闇を透かして帰蝶を見た。
「穏やかで賢そうですけど筋を通したがるのが玉に瑕のお方なのですね」
と言って笑た帰蝶が、
「燭台をあるだけ持ってくるように」
と控える女に言った生来の澄んだ声が佐内を覚めさせ
ぐらつく歯を舌でなぞり、ドキッとするような恥じらいを見せた女の行方を按ずる深い皺に影をつくって灯りが次々と運び込まれた。
増す明かりに浮かび上がったアッと驚く巫女姿。澄んだ声に耳をふさぎ、素肌に薄絹をまとった巫女姿に目を逸らし、気配までも消そとする男達。フッと笑った帰蝶の気がかりは、これから天下の矢面に立とうという三郎信長の人となり。
「三郎さまはお優しすぎるほどお優しいから、義昭公がおとなしい様子を見せても油断してつけ上がらせないようにお気をつけあそばせ」と心配する帰蝶。
自分のサガの善いところしか見えないから他人のサガの悪意を理解できない三郎信長の独り善がりの危なっかしさは心配の種だが、帰蝶が知らぬ間に掲げた印標も気になった。
「三郎さまが掲げた天下布武という印標し、たいそうなお題目ですが意味がいまひとつ分かりません」と言ってちょっと首をかしげる気配を見せた帰蝶。
帰蝶の疑問に頷いた信長。
「意味は無い、単なる景気づけだ」と言い捨てさらに、「語呂がいいから掲げただけで勝手な詮索はオレのあずかり知らぬこと」
と言って細めた目の奥で笑った信長が初めて天下いうことを正面から考えたのも事実だった。
三郎信長には単なる景気づけでも世間はそうは取らないと思った帰蝶。
「ときどき記憶をなくす光秀殿のように三郎さまの回りは病人ばかり。まともなのは失礼ながら正親町天皇だけかも……。今後皇室とどのようにかかわっていくかは宗門以上の難題。渡来の宗教と地付きの神道。腐った部位をスパッと切り取れる借り物の宗教と底の底まで金太郎飴のような神道の家元、どうなされます?」
と問われたが、
「そんなこと言われてもオレには分からない」と素直に答えた信長。
しかし邪魔なようでもお互い必要なものはあるのだお前と俺のようにと思ったが口には出さず、「お前はどうしたいのだ」と逆に訊いた。
「わたくしも貴方も半身は渡来の邪悪な者の化身ですから……」
と言った帰蝶は、
内藤冶重郎の容貌がいっ時変わったのは、妹の陰に隠れていたのにカヤの中に引っ張り込まれ罪も無い三郎さまを切り取らなければならない予感に懊悩したからに違いないけどあの旅の何かで吹っ切れたのだと思っていた。
*
切り取る役目を負わされた男は切り取られることを知っている女の息を感じ、小谷から帰ってきた去年初めて世話役として暗闇の中で対面したことを思い出した。
「何故、稲葉の手勢を西来寺で返してしまったのです」と口を開いた帰蝶。
俺の所為では無いとむっとした冶重郎。
やはりコノ女は何でも知っていて何にでも口を挿みたがる鬱陶しい女だと思った冶重郎に構わず、
「京都妙覚寺にいる法蓮という僧を還俗させ三郎さまのお傍に仕えるよう骨を折って下さい」と言って頭を下げる気配に戸惑った冶重郎が次の瞬間、驚いた。
「わたくしの子供なの」
やはり!。結婚前急に京え行ったのは子供を産むためだったのだ。
しかしそれを俺が知っていたことを帰蝶が知っていたのを感じてびっくりしたのだ。兄貴は知っていて俺を美濃に行かせたのなら何故?子供の父親を探らせたかったのか……。
頼みますと重ねて頭を下げた帰蝶の闇の力が織田弾正忠家の官房組織を支えているに違いないのだが……。
「川内にいる華子は元気に育っているようです。華子の祖母が亡くなり先日葬儀が行われました。逢いたくないのですか貴方は華子に」
と言って闇の中から冶重郎を覗き込んだ。
川内の暮らしの中での楽しみの一つ、入り組んだ水路を頻繁に巡る冶重郎を怪しみ何度も尋問され船底まで覗かれ服を剥がれくまなく調べられたが、身に寸鉄も帯びず筆も紙も持たないので拘束されることは一度もなかった。体に沁みた艪を漕ぐ感触が心地よく思い出され、あれから急激に川内は荒れてきたと人づてに聞く。手の平の古い豆を撫ぜ、(行ってみようか川内に)と瞑想する冶重郎を措き、いつのまにか灯かりが消え蔀戸も板戸も閉じられた漆黒の闇がすっきりと切り取ったような輪郭で二人を包んでいた。