墨俣①

永禄十一年(1568)秋九月に入りほどないころ。

女は(益田内膳)を訪ねさ迷っていた。

記憶は途絶え自分が誰で何処から来て何処に行こうとしているのかも分からなかったがなぜか懐にあったまだ日に焼けていない一枚の白い懐紙に記されていた名前(益田内膳)に誘われ、ただたださ迷った暑い夏。

いつしか朝日に向かって歩いていた女はやがて涼やかな風を感じ暑い夏はいつ終わったのかしらと思いながら知らぬ間に迷い込んだ関が原に向かう山道。

しかしこの前の旅とは逆に歩いているという記憶は無い女。

化粧もすっかり剥がれた女の破れた着物を迎えるように黄紅の葉をまとった木々が風を孕んで鮮やかに舞っていた。

 

山道をしばらく上ると左側の林が切れ沙羅の若木が左右に立ち、真紅の落ち葉が奥に誘っていた。躊躇なく女が踏み込むと正面に一本の小さな卒塔婆が立っていた。半ばを覆う落ち葉を女が払うと白竜の墓と読めた。かすかな記憶思い出してはいけない記憶。(女は知っていた)

記憶と引き換えに皮一枚で首が繋がっていることを。

此の世との手がかり過去を思い出した途端に首が飛ぶことを。

それでも今はとにかく現との唯一の手がかり益田内膳を訪ねてみようと思った女の手が無意識に頤の奥を撫ぜ、何時しか開けた視界の先の街道をおびただしい甲冑が左手から来て右手に進軍していく。

此処からは現の街道行きかう旅人もみんな現身。列を成した甲冑が途切れ、街道に身を曝した女。

待っていたかのようにすれ違った二人連れの男。

「姉さん一人旅かい、若い身空で一人旅はぶっそうだ」

と男の一人が声を掛けた。(もう若くはないのに)と思いながら、

「さっき通った物々しい旅人たちは何処に行くのですか?」と女は尋ねた。

「あれは織田の軍勢が義昭公を担いで上洛する途中だがそんなことより、旦那と喧嘩したあげくの一人旅かい」

と言う男達につと見せた女の引き込むような横目。

「ちょっと俺たちと遊ばないか、金は払うし」

と冗談ぽい態度が本気になったが、ふっと笑った女の眼が刃になってキラリと光ったので口を閉じ去っていった。

 

手持ちのお金がまだ少しあったので無視したが、無くなったら売れるものは帯の懐剣かこの身。(まだ声を掛けられるのだ)笑ったのはちょっと嬉しかったからだが必要になったら身を売ることは躊躇しない。(幼い体の記憶が女に思わせる)生きたいなら売れるものは売ったらいいのだ体でも心でも!。売るのが嫌なら……。

  *

関が原を抜けた女はいざなわれるように山道を下り西来寺に着いた。

知っているはずはないと思ったが念のため聞いてみた。

(益田内膳)女をチラッと見て肯いた住職。

長良川の洪水で寺が流され墨俣から移って来る前からの古い知り合いだったのだ。

「ここに居るはずだ。あの洪水で内膳殿も酷い目にあった」

益田内膳がどんな酷い目にあったかは言わない住職は何の用事かも聞かず、尾張と美濃の境の大雑把な場所を示した図を描き、ちょっと待ちなさいと言って奥から小ざっぱりした着物を携え戻ってきた皺の深い顔が改めて女の顔を見た。

はっとして何かを思い出した様子の住職を見て泊まるのをあきらめた女は礼を言って寺を出た。

  *

陽が中天を過ぎ始めると何時も寝る所が心配になる女。

雨風を凌げるような具合のいい所が見つかると心底ほっとする女。

幸いそんな小屋が見つかり女は熟睡した。

隙間から差し込む朝日に起こされ冷たいのも心地よく小川の水で久しぶりに体を洗いちょっと小さかったが汗臭くない着物を有難く着て流れる水でのどを潤した女は歩き始めた。

歩き続けて揖斐川を渡船で渡った女。

なおも歩き続けると広がる田畑の向こうに長良川を背に墨俣の砦がボンヤリ霞み、女の目の前に浅い堀の水は涸れ隙間の目立つ生垣で囲った広い敷地の中の雑木林越しに何棟かの建物が現れた。

夕陽が聳える甍を照らし、大雑把に見えた道しるべが迷い無く導いてくれた益田内膳の屋敷に違い無かった。

所々壁が落ちた長屋門の格子戸の向こうで動く人影。

その人影に誘われ中を窺った女の目と振り向いた目がぴたっと合い、振り向いた婦人の皺を目立たせない穏やかな顔が固まった。

庭仕事の植木バサミをばたっと手から落とした婦人。

必死に金縛りを解き家に向かって出ない声で叫んだ婦人。

振り返ってこけそうになりながら門に近づき格子を開けた婦人が女の手を取り、「いつかは、いつかは帰ってくると思っていたよ千代!」と言ってもう離すまいと握った手を確認した影が女の目の端を刷きすうっと消えた。

  *

煤けた太い虹梁から下がった自在鉤の下の炭がまだ九月の半ばなのに赤々と熾きている囲炉裏に迎えられ戸惑う女。

女を客座にいざなった白髪の男が横座に胡坐をかいてちょっと口ごもりながら、「天気がいいしなんか今日、千代が帰ってくるような予感がするから炭を熾しておこうと朝からお史と話していたのだ」と言ってあたたまるよう促した

さっきの方がお史さん?と思いながら言葉に甘えて囲炉裏に手をかざすと小さい頃から此処に座っていたような安心感が千代と呼ばれる違和感を打ち消し、すうっと女の力が抜けた。

いそいそとお茶とお饅頭を持ってきたお史が、手を女の膝にそっと伸ばして確かめるように撫ぜ、「お腹が空いているだろう千代、とりあえずお饅頭を。

お饅頭を勧めながら「今お風呂を沸かしているから長旅の埃を流してそのあといっしょに御飯を……」支度をしなくてはと言って土間に下りたが確かめるように振り返り振り返り奥え入って行った。

 

目をしばたたかせその後ろ姿を見送った初老の男。

火箸で灰をかき回しながら、「えんりょなく」と饅頭を勧める男の言いたいことを察した女が、「わたしはチヨ、おフミさんの娘」とお愛想に言った。

火箸を灰に挿し、姿勢を正して男は言った。

「すまんよく似ているのだ雰囲気が!いなくなった娘千代に。わしは益田内膳、あんたの名前を聞かせてくれないか、よかったら」

「わからないのです」女はあっさり答えた。

「わからない?自分の名前が?ほおっ!名前のほかわ?」

「わたしが何処の誰なのか何処から来て何処え行くのかなにもかも……」

「分からない!それは難儀なこと。それなら此処に来たのは此処を訪ねてきたのはただの偶然なのか?」不安げな問いに首を振った女が懐から取り出した状袋の中の畳んだ紙を受け取り丁寧に広げて記された文字を見た。

(益田内膳)見覚えのある筆跡。

(ころく)つぶやいて「小六にもらったのか」と内膳が言った。

(ころく?)つぶやいて「分からないのです」と女が言った。

 

八年前、木曽川水系の上流に不断にない大雨を夜半降らせた嵐が過ぎ去った日の朝。式の打ち合わせをするため西来寺に行きそれっきり帰ってこなかった千代。

鉄砲水で流された西来寺と一緒に流されたと思っている内膳。

神隠しに遭ったので何時かは帰ってくると思っている母史。

娘と小六との嬉しい婚礼の直前だっのも重なり、耐えられない苦痛に耐えるため自分を閉ざしてしまった史。

【この紙をこの女に渡した経緯もこの女が記憶を失った経緯も分からないが……】

さっきと同じ姿勢で筆跡をじっと見ている内膳。

再度勧められた饅頭を手に取り口にした女。

心を決めて女が言った。「私の名前は千代、母の名はお史」

幼子の凄惨な飢餓の記憶が饅頭の甘さに誘われ言わせたのか!。

震える肩の上の白髪の頭を下げた益田内膳。

 

【川並衆の足を洗うことを決意して墨俣の砦近くに仮の屋敷を構えた小六は今、木下秀吉に従って出陣しているはずだがとりあえずお千代が無事に帰ってきたことを知らせなければ。そして婚礼の日取りも決めなければ、準備は八年前から整っている】

手紙をしたため風呂を沸かしていた下男を呼んだ。

(言わせたのは饅頭の甘さだけでは無い)と女は思いながら温かいお湯を肩にかけると優しいお湯の思い出がすっとよぎったが旅の埃と一緒にさっと流した。

 

スッキリ生まれ変わった女。

迷い無く千代の着物を着た女の髪を母史の手が丁寧に梳き顔を整え喜びに震えながら紅を注す。紅を注され二度目の脱皮をした女。

「きれいだ!」感嘆の声にかぶさる馬のいななきを背に入ってきた男の影。

背丈は大人だがまだ元服前の前髪姿。

気配を窺った女の目が横目になった。

「ははうえ」声にはならず口の動きが叫んだ。