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聖徳寺④
元亀元年(1570)五月五日。
新たな年号を共に祝いましょうと、改元にかこつけたとしか思えない帰蝶に去年の八月以来久しぶりに聖徳寺に呼ばれた冶重郎は、始まった梅雨空のように鬱陶しいなと思いながらも内心、かつての高飛車なしわがれ声が懐かしくもあった。
「たくさんの人を斬った冶重郎どのと一夜をすごしてみたい」
久しぶりに向かい合った帰蝶がいきなり澄んだ声で口にした台詞に、何時かは分かることだがと、うろたえる心をそれにしてもこの女の、声は直ったが人をおちょくる癖は一生直らないなと決め付けることで落ち着かせ、恐れ入りますと頭を下げた。
「叶わない妹えの思いを姉が叶えてさしあげようかと……」
あまりの言い種にこんなことを口に出すのはお徳に聞いた以上に体調が悪いのかもと心配になった冶重郎をよそに、話をかえてひつっこい帰蝶。
「お小夜さんとは縒りを戻したようですが遥子はどうするのです」
どうすると言われても……尾張家を継いで熱田神宮の権宮司になった遥子の元夫が、困窮している皇室のために神社をまとめて何かをしたがっているようだ。
「佐内殿は? 具合が良くないと聞いていますが……お徳が、この前会えなかったのでお見舞いに近々伺いたいと申しています」と冶重郎が言った。
「来るのは勝手ですが、殿御がみんな、まさかの佐内どのまでお徳に惹かれているのにあなたがそうでもなさそうなのは人の目の奥まで見ないから?」と帰蝶が言った。
その通りだが、人を奈落の底に引き込むようなお徳の目とはなるべく合わさないようにしているのだ(初めて会ったときお徳はまだ十一歳の少女だった)と思いながら、人の心の奥を見たがるのも迷惑な話だと眉をしかめた冶重郎を、「仙千代と華子ちゃんを一緒にしたいのですが、あなたも賛成してくれますね」と帰蝶の声が襲った。
芯からびっくりした冶重郎に尚も率直な声が言った。
「とにかく仙千代は長く生きられない定めにあるのです。母親として勝手なことを言いますが子は生して欲しいのです。ですから華子ちゃんと!」
率直なのはいいがしかし、父親としては娘を長く生きられない男と一緒にさせたくないと思うのは当然で、結婚のことはとりあえず考えたくなかった。
「華子はきのう墨俣に帰って来たようですが一緒に戻った仙千代殿はこちらに? それにしてもお元気そうな仙千代殿が長く生きられないとは初耳ですが本当ならなお、なぜ母親の名乗りをされないのです?」と話を逸らした冶重郎。
「分からないのです、した方がいいのかしない方がいいのか……」
「するべきです。実の母親なのだからするべきです」父親のことはこれからも俺は知らないことだが長く生きられないなら尚更、「子供のためにするべきです」
と語気を強めて言った冶重郎を援護するのか揶揄するのか分からない佐内が酒のにおいを漂わせて現れ「冶重郎殿の言うとおり、するべきです」と言った。
「心配していたより元気そうで……」と会釈した冶重郎。
心配なんかこれっぽちもしていないだろうという顔をした山本佐内が言った。
「しても後悔しなくても後悔、だったらしたほうがよろしい、スッキリする。ところで三郎殿は泡を食って逃げ帰っらしいが何故なのだ? 一乗谷に攻め込みもせずに」
「一乗谷に攻め込む予定は無かったはずだから攻め込まなかったのは当然だが、慌てて逃げ帰った訳がわたしも分からないので仙千代どのに訊きたいが居ない」
「仙千代はわしの所で寝ている。そうか仙千代に訊いたらいいのか」と合点した佐内が遠くを見る目で、「一乗谷は遠い遠すぎる、近場のイクサは無いのか? 最後はイクサ場で散りたい」と言ったので近場なら川内と冶重郎が言った。
「川内とやるのか! どうせやるなら早くやってくれ。とにかく体が腐ってきたからな」と言う佐内に、「でも佐内殿はお徳の胸に顔を埋めて死にたいのでしょう」とからかいながら帰蝶は、お徳に頸を刎ねてもらいたいという佐内の本心を知っていた。
「お徳の胸にわたしが……バカバカしくて酔いが覚めそうだ。帰って仙千代どのに母上が呼んでいると伝えるとしよう」と腰を上げながら柄に合わない捨て台詞の佐内。
お徳に首を刎ねられる甘美さを想いながら裏門に向かった佐内の瞼に稲光が差し、雷の音にうたた寝を覚まされ現れた万見仙千代の寝ぼけ顔に帰蝶が訊いた。
「四月の二十日に京を発ち敦賀に着くまでは分かっています。新九郎殿の謀反とやらで命からがら京に辿り着いたのが四月三十日の夜だったことも知っています。知りたいのはその間の小谷の様子と敦賀での三郎さまの様子、混乱してはっきりしないの」
「新九郎様は陣中見舞いのつもりだったのです」
「陣中見舞い?」
「初めはお市の方が言い出されたこと、兄上が敦賀まで来たらそっと行ってびっくりさせてあげましょうと。新九郎様も面白がってすっかりその気になられ、報せも無く陣中にそっと行くのは誤解を招きかねないと反対する市之介様を押し切って……」
「やっぱりそんな笑い話のようなハナシなのね」呆れる帰蝶が見たのは、山本佐内が(伝える)と言ったのが疑わしく思えるほど普段と変わりない万見仙千代なのだ。
*
あの女が企てたに違いないと思った冶重郎。
(信長をうろたえさせ長政を迷わせる)予期以上の結果に喜んでいるのか戸惑っているのか分からないが、たとえ芝居でも対応を間違えるとこういうことになる。と思いながらつい値踏みする父親の目で万見仙千代を見てしまった。
「謀反が誤解なのは明らかですが、なにかのめぐりあわせで……」
とつぶやいて帰蝶を見た万見仙千代の目が母親を見る目になっていた。
「妹は、あなたの叔母上の様子は?」と問う帰蝶。「笑っておられました」と答える仙千代。
頷いた帰蝶が重ねて問う。「で、新九郎殿はどうされました?」