聖徳寺②

永禄十二年(1569)秋八月一日。

お膳を前に縁に座った山本佐内。この一年で歯の大半が抜け落ち碌々噛めなくなったのを胃の腑が補い喉越しを味わうことを覚えた。絶っていた酒を飲み始めたのは再三現われあれこれ言い訳がましい道三のもっともらしい顔がどうにも鬱陶しかったからだ。

薄暮のなかの縁で杯を傾ける佐内を見て首をかしげた冶重郎が客間に入り、「佐内どのが酒を飲んでいるのを初めて見ました」と奥の闇に向かって言った。

「そう、それよりお春が体調を崩して一年ほど熱田に居るのを知っていました?」

帰蝶の声が三郎信長の気配と共に襖が開いた暗闇から訊いた。

「いや知りませんが一年も! 熱田の別れた夫の所ではないでしょうね、前の夫は別れて直ぐ再婚したと聞いていますが」と首をかしげた冶重郎。去年六月一乗谷でスッキリさせたお春との事を知られたかと身構えたがそうではなさそうで、「再婚してから夫婦仲もよくて恵まれなかった子供も最近出来たということです」と帰蝶が言った。

お春が体調を崩して熱田に一年も!。熱田神宮権宮司の家柄である前の夫夫婦に最近子供が出来た!。一乗谷のことを想い、まさかそんなことは……「ひまが出来たら熱田に行ってみます」と気がなさそうに言った冶重郎が、「ところで前から気になっていたのですが、帰蝶様は城に比べて警備が手薄な此処に、何故住まわれているのですか」と言って無理に話を変えたら知ってるくせにと帰蝶が笑った。

「三郎信秀さまと一心同体だった貴方、何度も此処に来たことがあるであろう貴方が知っているのは当然のこと。知っているでしょうここが私たち兄妹の二人いた母親の住まいだったことを。知っているでしょうここを建てたのが私たち兄妹の二人の父親だということを。まるで何かに憑かれたように建てられた全く同じ造りだった二棟の建物。疎水に架かる橋で結ばれた屋敷で行われたことを……。あるいは知っていたが知らぬ振りをしていたかもしれない政秀殿の見事な幕引きのいきさつと嫡子義龍(わたくしから見たら異母兄ですが)の疑惑と軽蔑の視線にけりをつけたい思いが父道三に悔悟とともに覚悟をさせたのです、もうおしまいにしようと。しかし娘のわたくしがいうのもなんですが蝮といわれた道三、ただ退場しては面白くない。長年に亘り手を尽くして溜め込んだ全財貨を、密かに然し白昼堂々と全ての財貨を運びたい悪戯心と、義龍に渡したくない思惑とが婿殿に会いたいというもっともらしい猿芝居を思い付かせあの会見を望んだのです。裸になったら一年も持たないと思っていた父の見込みは外れ三年も持ちました。尾張に兄妹が集まり財貨も移しそれが此処にあるためわたくしも此処に、弾正忠家の財と合わせて(さあお前たちどうするのだ)と言っているようです」

財貨を運んだのが人夫に扮した甲賀衆だと知っていた冶重郎は瞑想した。

群雄割拠の世となり急増する間者の需要にあちこちの、山間の貧しい郷人が間者になって命懸けの出稼ぎ。高じて暗殺者をも養成するようになった忍者の里のお徳を思い、性に峻厳な平手政秀は息子の代わりに罪を償ったのかも、お徳に母の仇を示唆したのは道三の思惑かも知れないなどと取りとめもなく思っていたら、「冶重郎殿は勘ぐり過ぎ」と帰蝶の声。なんだこの女は何も言ってないのに、吐きそうになった冶重郎に構わずなおも言う。

 

「三郎さまはこのところ京にかまけておられる。おなごか稚児か存じませぬが底意地の悪い京の誘惑に囚われ、二条館の現場で不埒な兵卒を軍扇で打擲しただけなのに首を刎ねたなどと偽りの噂を撒かれた上に、あろう事か石像の頸に縄をかけ引き回したとか面白おかしく尾ひれを付けられ、イライラしてこらえ性が無くなってきたのかあるいは易々と上洛を果たされいい気になられているのか、いずれにせよ狭間に迎え討った頃の方が生き生きとお徳との疾走そして一気の決着、それが三郎さま! それなのに、お徳が三郎さまと出来たのは成り行きですけど無垢な勘十郎君を誘惑したうえ嫉妬する妹を巻き込んでの刃傷沙汰。落ち込む妹をたぶらかしたあげく純情な小六殿に乗り換え結婚まで。しかもその間に市之介殿とも仲良くして幸せなこと。それに比べわたくしなぞ三郎さま一人だけ。その三郎さまもあちこちに子種を蒔くのはご熱心ですけどこのところとんとご無沙汰。そんなわたくしとお徳とではどちらが幸せなのでしょうか? 冶重郎どの」

と言って艶やかな笑みを浮かべた帰蝶が一転、唇をかみしめるように言った。

 

「お徳が首を刎ねたもっともな理由はもちろんあります。ありますが言い訳は措いて、お徳の本性を人の命を軽んじる劣悪な人間と見るのか、それとも人の命を慈しむ優れた人間と見るかなの。嫉妬するほど魅力的な目でわたくしを見たお徳があのときのことを、どうせ自分は凡庸で無能力な人間だからああするより無かったと自虐的に思うなら仕方がありませんが、そうではないという誇りがあるならもっと違ったやり方、人の命を大事に思う術があった筈です。その場その場で自分を誤魔化しながら生きている妹が口にするもっともらしい言葉に惑わされず、人の血をむさぼり、人の涙を酒の肴に、人の命を弄びたがる人間の業には、血の味を知っているお徳こそ向き合っていってほしいのです」

 

ふっと我に返ったように夫を透かした帰蝶。「バテレンが京を追われ、岐阜にいる三郎さまに泣き付いて来たと聞きましたが……」と言って首をかしげた。

やっと収まった悋気にやれやれという感じの信長が言った。

「以前出された京からの追放令が内裏からまた出された。がしかし、京都に出入りすることを決めるのは将軍の領域と言って将軍義昭は容易に同調しなかった」

「義昭公のように筋を通そうとするのは肯けるが難儀なのは、三郎さまのさまざまなな善意を隙あらば邪魔をしようとするよこしまな輩が蠢いていることです」

と言う冶重郎の心配にはお構い無しに帰蝶の怒りの声が再び響いた。

「よこしまな心といえば三郎さまにないとは思えません。堺に矢銭を要求したことは仕方がないとしても一度ならず二度までも。特に二度目の要求に納得できる大義名分が無ければ最低。焼き尽くし皆殺しにするなどとの脅迫、品がございません」

と言う帰蝶

大義名分はある硝石だ!。コノ地では産出しない火薬の原料硝石の輸入で莫大な利益をあげている。人を殺傷するものを売り散らかせば天罰がくだって当然だ」

と信長

「まあっ、真顔でそんな御託をよく言えますこと。ご自分はせっせと火薬を使って鉄砲の弾を撒き散らかしてあちこちのイクサ場で大活躍。百年の恋も醒める思い」

とことさらいいつのる帰蝶に開いた口が閉まらない信長。

「お前の口から恋などという言葉を聞いたのは始めてだ」

「まあっお忘れになったのですか?初めてお会いしてからずうっと恋焦がれていましたのに気が付かないとは三郎さまこそつれない仕打ちではございませんか」

下駄を預けたという道三の希望的思惑の思いに沈みかけた冶重郎が、(うっほん)いかにもわざとらしい佐内の咳払いが闇に響いて我に返って言った。

「お二人の仲の良さに佐内殿もびっくりしているようだ。難儀をして遠い国から来た異人のことにみんな興味があります。愛だの恋だのを軽々しく口に出す彼の国の慣わしを苦々しく思う一方、嬰児をあっさり処理する風習に仰天するバテレン。聞くところ、懐中時計なるものをバテレンフロイスから献上されたがその精巧な仕組を見て維持できないからと言って受け取らなかった三郎さまを、聡明且つ賢明な方だと感心していたことなどをふくめ、フロイスと二条館の工事現場で何を話されていたか聞きたいものです」

 

「カノ国とコノ国との習慣や決まりごとなどの比較だがとにかく言葉が分からないから意味も分からない。特に宗教の微妙な話しになると、一人優れた通辞がいるがいつもいるわけではなく、まだるっこいやり取りで意味が正確に行き来しているのか怪しいもの。で思った新六郎に異国の言葉を習わせようと、若いし賢い」

「おっしゃる通りですけど男だけでは片手落ち女も誰か。そうそう冶重郎殿の娘さんの華子ちゃんが小六殿のところに、いっ緒に学ばせれば好都合、いかがですか」

帰蝶に言われ、「取り敢えず墨俣を訪ねて二人に私が話してみましょう。それに二人だけで心配でしたらお徳も一緒に。お徳なら彼らの意図を探ることも……」と冶重郎が言うと、「バテレン個々の思いは別にして、彼らを遠いこの地まで派遣し支援するために莫大な金を出している巨大な国の狙いは当然それだけでは無いのは分かっていること、お徳を危険な目に合わせる必要は無い。もっとも、近頃では本国からの援助が滞りがちで堺の商人が舌を巻くほど商売上手なバテレンは、交易の儲けで布教経費の大半を賄っているようだと聞く。それはともかく此の六月に演じた芝居は面白かった」と信長が言った。

 

「芝居?なんのことです?」と首をかしげた帰蝶に信長が言った。

「京都からバテレンを追放する綸旨が出されたがすでに将軍義昭は京都にバテレンが自由に出入りする許可の、弾正忠信長はバテレン保護の、それぞれ朱印状を出している。二通の朱印状と綸旨とがせめぎ合うさなかに日乗が手に入れた偽りの書状、オレがバテレンに反対して全てを内裏に一任するという偽りの書状をかざした日乗に京都から追われたフロイスが岐阜に泣きついて来た時にかましてやった芝居だ」

かましてやったなんて品の無い言葉初めて聞きました。冶重郎どのはご存知でした」

「いやそのころは川内に……」と冶重郎。

「伝令は飛ぶが如く火の玉となり軍令は燎原の火の如く広がる。余が家臣にいかに奉仕されいかに畏敬されているかをフロイスに見せ付けるため示し合わせて芝居をしたのだ」

「余ですって!どなたのことですこれも初めて聞きました」

「余は余だ、余の命令は絶対なのだ。フロイスを城に上げ余の命令ひとつで家臣が動くさまを見せてやった。余が手でちょっと合図しただけでそこに居た者たちは折り重なって我先に消え去り余が一声掛ければ襖の外の百人が高い声をそろえて返事をする」

「あきれたこと子供だましみたいな……」

「さらに居並ぶ佐久間信盛も柴田権六も森可成丹羽長秀以下も余の威光をおそれ一様に面を伏せる。もっとも、オレが自ら食膳を運んでやったことは芝居ではなかったが」

「いったい誰が考えたのですかそんなとっぴょうしも無い筋書き」

「小幡から来たあの若い男」

まさか万見仙千代!と見えない顔を見合わす二人。

「大笑いだが此の事は本国に報告するだろう。畏敬される国主がいて軍律の厳しい日の本に侵攻する気が少しでも後退すれば芝居をした値打ちがある。ひょっとしたら日乗のいさみ足が怪我の功名になるやも。それにしても何百人にも口止めをしたが未だにここの二人が知らなかったとは、本当ならみんな思ったより口が堅い」