墨俣⑤

永禄十二年(1569)大晦日

閏年で一年が十三ヶ月のこの年も暮れようとしていた。

正月は墨俣で過ごしたい三人。それぞれの思いで関が原も無事に越え、小六の屋敷の冠木門からそろって元気に「ただいま」と言った。

迎えに出た内膳夫妻に笑顔で会釈した千代が、「着替えて手伝います」と言って小走りで勝手口に向かった後姿に遅れて出た小六が首をかしげたが、「馬を見てきます」と厩に向かった新六郎の様子に「ちょっとの間に大人の顔になった」と顔が緩んだ。

 

「いいわあっ此処はのんびりして。京みたいにいつイクサになっても、いつ襲われてもおかしくないような嫌な気配もないし、身構えて疲れることもないし」

と言って伸びをした華子の姿態が眩しく見えた小六が、「華子でも身構えることがあるのか」とからかったのは、千代が戻って乱れる心を隠すためだった。

「もちろんありますことよおじさま」と科をつくった華子。

何時の間にか小六をおじ様と呼ぶようになった一見野放図そうに見える娘は何にでも反応して口に出すが、時と場所はそれなりにわきまえていると思った小六。

「気色悪いそれが京風か? わしは好かん。しかしここもついこの前までは……」

と言う小六とあれから馬競べをしていなことを思い出した華子が、

「いつしますかおじさま馬競べ」と言うと、「いつでも受けて立つ」

と胸を張る小六の姿が可愛らしかったのでくすっと笑った華子が土間に入ると熾きた炭の明かりが(をんな)に魅せ、火箸を使いながら目を細めた内膳。

「京に行ってまだ間もないが、バテレンに接して若い娘さんが感じたことが何かあったかな?カノ国とコノ国との違いとかいろいろなこと」と内膳が訊いた。

「体が近いの」と囲炉裏の前に座った華子が言った。

「体が近い?」と隣に座って首をかしげた小六。

 

「此処では普段顔見知りに会ったらお辞儀をして頭が当たらない距離を保つでしょう。でも彼の国ではいきなり手を取ったり抱擁したりそれだけでもびっくりするのに抱擁しながら頬に頬を押し当てるの、恋人でもないのに、くすぐったかった」

「ほおうっ誰かにされたのか華子も」

と同時に同じことを言ったいい年の男二人が華子を見た。

バテレンのおっちゃんに。お望みでしたらおじさまたちにも同じようにしてさしあげましょうか」と言いながら華子に顔を寄せられギョットした小六。

「からかうな冶重郎どのに張り倒される」

「あらっお父さんもああ見えてけっこう若い子に色目を使ってるみたいよ」

「フッフッ娘さんにかかったら冶重郎殿も形なしだな」と内膳。

「冗談ですよ。でもそんな経験が思わせたの、モシ彼の国が攻めてきてこの国を守るためイクサになった時のことを」と華子がまじめな顔になって言った。

「イクサのことも考えるのだ華子は」興味深げな小六。

「考えるわよ。鉄砲や弓を打ち合っている間はいいとして刀や槍を交えたら分が悪くなる体格の差は鍛えて鍛えて補えるとしても決定的なのは組み合ったときのこと」

「組み合っても鍛えていれば……」白髪に力が入った内膳。

「長い長い年月積み重なった習慣の違い、彼の国の血にしみこんだ抱擁の記憶、違和感の無い抱擁の記憶と忌みする抱擁の習慣とでは、死に物狂いになった瞬間に鍛えるだけではどうしょうもない火事場のバカ力の差が生まれるのではないか」と言う華子に続いて内膳が言った。

「加えるなら、あちらには全能の神がついているが、こちらは常に単体で起ち単体で戦わなければならない。それがこの国に生まれた者の定めなのだ」

 

夕陽が落ち関が原を越して雪雲が流れてきた。

輿入れのことを思い出していたら眠れなくなった小六。引き寄せられるように風呂場の前に来たら湯気が出ていたので覗いたら湯が満ちていたので着物を脱いだ。

浴槽に沈んでホット息が漏れたとき

「湯加減はいかがですか小六さん」と女の声が焚口から聞こえた。

「あっいい湯加減だ」小六の声が上ずった。

「吾助さんみたいに上手に焚けません」女の声がはずんだ。

ゴスケ?吾助……「わしには極楽だその声だけで!」

「優しいのですから小六さんは! お徳は死んで千代に生まれ変わりました、なんて虫のいい話ですが、生まれ変わりたいお徳の手でお背中を流させて下さい。あらっあなた、雪が降ってきました。もしかしたら関が原はあのときのように大雪かも!」

四月に《元亀》と改元される永禄十三年を迎えようとしていた。

 

 明けて永禄十三年の挨拶を交わしたらうっすらと一面の雪景色。

「今日は千代が、いやお徳どのが一段と美しく見えるのは雪のせいだけなのか!」

と言う内膳に合わせ、「小六どのも若返ったようです」とお史。

初めて男になった少年のような顔をしている小六。

傍目にも乗りの良い化粧をしているお徳。

さり気なくうかがいあい昨夜のことを思い出し面はゆくなった二人の並んだ顔が囲炉裏に映え、内膳とお史の弾んだ声が煤けはじめた紅梁で踊っている。

「お雑煮の仕度を」と言って立ち上がり、雪に反射した朝日が眩しげに目を細め台所に向かったお徳の後姿にこれまた昨夜を思い出し、まだ若いと思った小六。

二人の様子によかったと笑顔を誰にとも無く向け、お徳の後を追うお史。

 

囲炉裏に炭を足した内膳がお屠蘇を飲みながら言った。

「義昭公を怒らせた例の五か条、承知しづらいようだがどうするのだ三郎どのは?」

「その件を説明するため新年早々に村井貞勝殿が光秀殿を伴い二条の義昭公のところに伺候しているはず」と言う小六は内藤冶重郎どのもいっしょにと付け加えた。

「ほほうつ珍しい、めんどくさがり屋と聞く内藤殿が何故京まで?」

「一度、本願寺顕如の顔を見ておきたいらしい。顕如が二条館に正月の挨拶に行くという話が何処からか伝わってきたらしい」と小六も杯をあけ言った。

そんなあやふやな話で京まで?。しかも顔を見たいだけでと笑った内膳が、「確実な報せがあったのだな本願寺から、そして何か大事な用が」と言った。

本願寺から何故報せが?」と舅を窺った小六。

「時代を超えて処を越え、真宗本願寺に紛れ込んだ時衆の繋がりが三百年にも亘り絶えることなく地中で生き続けている。時代はわずかに重なったが会うことは無く、共に浄土教の教えに捉われた一遍上人親鸞上人のお二人は、こけおどしの寺院を建てて人を威圧することはせず、権威と栄華を求める教団を作ろうとも思わず、唯ひたすら御自身の救いを求めて生涯を終えられたのだ。御自身の救いを得ることが人々の救いになると信じていたお二人の意思を後世に伝え続けようとする一派に偏空和尚は属している」と内膳。

「織田と時衆とは敵対しているはずだが?」と小六。

「一遍はいう(心も阿弥陀仏の御心、身の振る舞いも阿弥陀仏の御振舞、ことばも阿弥陀仏の御言なれば、生たる命も阿弥陀仏の御命なり)更に一遍はいう(拝む者も拝まない者も望めば往生できるのが阿弥陀仏の御心なり)生き仏になって人を差別し、生殺与奪を揮う本願寺法主に、一遍を慕う者が反発するのは当然」と内膳がきっぱり言ったとき

「遍空和尚って聞こえたけどどうかしました?」と言いながら奥から寝ぼけマナコの華子が現れ、「此処に帰って久しぶりにぐっすり寝た感じでいい気持!」と可愛いあくびを手で抑え小六に正対した素顔の華子が、「おめでとうございます。三郎さまにも新年の挨拶をしたいけど、今お城に居るかどうかご存知ないかしら小父さま」と言った。

素顔のほうが可愛いなと思った小六が平常心で言った。

「城に居るだろうが、年賀の応接においそがしいから会ってもらえないかも……」

そこえ湯気の立つお雑煮が入ったお椀を載せたお盆を運んできたお徳が、「おめでとう華子さん」と言いもって内膳と小六の前にそれぞれお椀とお箸を置いた。

言う前に言われ顔を顰めた華子が、「おめでとうございますお徳さん。新六郎さんは何処に? 姿が見えませんけど」と新六郎の名前を出して取り繕った。

「新六郎さんは朝駆けに出かけたわ」と笑って言ったお徳。

「へえっ雪の中を朝駆けに?」とちょっと驚いた顔をした華子。

「イクサは天気を選びません。戻ってきたら三人で挨拶に行きましょうお城に。会ってもらえ無いかも知れないけど、とにかく行ってみないと。遥さんが言ってました、三郎さまのおつむは遠からず禿げるに違いないって。はげ頭の三郎さまを見たくないですか」

「そんな、禿げていません三郎さまわ!」

「おやっずいぶん肩を持つのね、三郎さまの」

「肩を持つわけでは……でも禿げていませんもの」

「ハゲは急速に進むんですって、三ヶ月も経てばツルッパゲ」

「ウソッひどい! ツルッパゲだなんてひどい!」

と憤慨し、そそくさと奥に入っていく華子の後姿を追いかけ、「美味しいお雑煮を一緒に食べましょう、顔を洗って整えたら」とお徳がダメを出したのは、素顔でも大丈夫な華子がちょっと羨ましい三十路になった女の嫌味がつい口から出たのだった。

記憶が戻らなければよかったのにと八つ当たりの恨めしさの上に顔を整えよと言われむっとしたが、ツルッパゲの三郎信長を描いてクスッと笑った華子が思い出した。(お徳を見るときだけ三郎さまの黒い眸が碧く変わるの)

と悲しそうにお市さまが言ったことを。

  *

雪景色の中を帰ってきた新六郎と華子の三人で、会えるかかどうか分からないが取り敢えず行って見ることにしたお徳。一緒にと新六郎に誘われた小六は、「わしは陪臣だから行かなくてもいいのだ」と言いお徳の近江路以来の乗馬着姿が眩しそうだった。

照れた笑顔を見せたお徳が馬の首筋をひと撫ぜしてヒラッと跨ったのを見てびっくりした華子も慌てて騎乗。「気をつけて、落ちないように……」

いつもと同じ心配顔の小六と笑顔の内膳夫妻が、新六郎を先頭に女二人が並んで続く雁行が雪を地味に蹴立てるのを見送った。

  *

炭が熾きた囲炉裏に手をかざし、小六が横座に内膳が客座に座っている。

「時衆のこと本当のことで?」と小六が訊くと、「本当だ、今どれほど機能しているか分からないが、あることは間違いない」と内膳が答えた。

「お小夜さんの在所は知っていたが時衆と繋がっているお寺のことは……わたしがこのことを知ってさしさわりは、冶重郎どのはご存知ですか?」

「内藤殿はむろん知っている。婿殿は、まあいいか」と言う舅に、「舅どのとどのようなつながりが?」と小六が訊ね、肯いた内膳が言った。

「もうずいぶん昔の話だが、信秀どのに遣わされ、聖徳寺の奥の屋敷を見回りながら美濃の様子を窺っていた服部一郎太という若い男と、墨俣に住み尾張の様子を探っていたわしと出会ったのが美濃に双子の姉妹が生まれた年だ。たまたま年も同じで妙に気が合い、適当に互いの様子を交換し合っているうち気が緩んだというのもおかしいが、聖徳寺に色濃く流れる一遍上人の教えに共感。やめとけと言うわしの忠告にも耳を貸さず、信秀殿にも無断で聖徳寺に入り込み、アッという間に頭を丸めてしまった」

それはナントと感心する小六。

「そこに現われたのが信秀殿とは年が離れた腹違いの妹鶴女。恋しい服部一郎太を追ってこれまた信秀殿に無断で入信。可愛がっていた妹だからというより実は、一郎太を妹に付いた悪い虫だと勝手に思いこみ、国境の地に追い払った挙句の事態に激怒するよりない信秀殿が二人を成敗すると聞いたわしが利政殿に泣きついた。がまさか美濃にかくまう訳にもいかず逃がすなら川内。利政殿が聖徳寺とかけあい聖徳寺もとばっちりは敵わないので願証寺に伺い、ちょうど空いていた源真寺に一時避難させそれ以来そこに……」

「それで二人が許されたのは何時のことです」

「子供が出来たのを知った信秀どのがばつの悪さを繕うためのお土産に、赤ちゃんのオシメを鶴女殿があきれるほど大量に持って川を渡ったほど可愛がっていた」

「オシメを持って川を渡った?それは嘘に違いない」

と呆れる小六に嘘ではないと笑った内膳にさらに

「するとお小夜さんと三郎どのは従姉弟の関係? しかし鶴女殿はお姫さま、尾張に帰ろうと思えば帰れたのにあんな不便で寂しい島によく辛抱されていましたな」

 と小六が感心したように言った

「一郎太は医術の心得もあったのだ。鶴女殿のことを気にはしていたが医者もいない島から離れられなくなった。しかし男は女次第。子供が出来たとき、鶴女殿が尾張に帰りたいと言ったら一郎太は帰るしかなかっただろう。鶴女殿は芯から一郎太が好きだった。好きな男の想いが分からないはずが無い。しかし男は女の気持も行状も……」知らなかったと言おうとしてやめた内膳