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川内③
永禄十二年(1569)夏閏五月。
明け始めた長島の朝を源次郎の船に乗ってゆったり揺られている冶重郎。
「穏やかな朝だな、源次郎」
「まったく、この穏やかさが何時までも続けばよいのですが」
五月の末には行くと源真寺のお小夜に知らせたら、お父さんの面倒は近所の人が交代で見てくれるので以前の家で待っていると返事が来た。
寺内町を通る頃には明るくなってきた。去年の秋にはすっと開いた玄関戸が引っかかりながら開いたのでこれから時々来ようかなと虫のいいことを思った冶重郎。
「お帰りなさい早かったですね。源次郎さんは?」
いつもの通りの笑顔でお小夜がにこっと笑った。
「うむっ潮の都合で早く出た。送ってくれた源次郎は他所に回った」
「朝ごはんまだと違います?ありあわせでよかつたら」
と訊くお小夜に冶重郎が意外なことを言った
「弁当がある、華子にもらった弁当が! お母さんと一緒にって」
「華子にもらったお弁当?」
と言ってお小夜の顔がきょとんとし不思議なものを見るように冶重郎を見た。
「川内に行くことを聞きつけた華子が三人分作って墨俣で渡してくれた」
「華子がお弁当を! まだ信じられませんけど、元気みたいですね」
「元気だ、すっかり墨俣に、小六の所に溶け込んでいる」
「三人分って源次郎さんの分も!」
「恐縮してにこにこ顔で喜んでいた」
「炊事なんてまったくできなかったし、やる気もなかったのに……」
どういう風の吹き回しなのかしらと呟きまだ信じられない顔のお小夜。
「他人の飯を食めばいろいろ思うことがあるのだろう華子でも」
と何気なく何時もの調子で口をすべらせた冶重郎。「華子でもって、バカにしたような言い方はおやめください」と笑いながら何時もの調子でたしなめるお小夜。
「なにもそんなつもりは……」と口ごもる冶重郎。
「ずいぶん早起きしてというより昨夜のうちに、とうぜんどなたかに手伝ってもらったのでしょうが……開けてもよろしいですか」と蓋に手を掛け訊くお小夜。
「怖いもの見たさみたいなとこがあるな」と茶化す冶重郎。
「またそんなことおっしゃって」とちょっと睨んだお菊が蓋を開け、黙々と残さず二人とも全部食べ、お茶を飲んで顔を見合わせたが冶重郎は何も言わなかった。
*
「願証寺に行ってみません、もう中には入れないけど」とお小夜が言った。
「ほおっ、何時から入れなくなったのだ」と冶重郎が訊いた。
「今年の初めから」とお小夜が答えた。
今回冶重郎が来た目的は願証寺と長島城はもとより中井砦をはじめ主だった砦の現状を調べることだったのでとりあえず願証寺に行ってみると寺の形をした要塞になっていた。
「何のつもりだ」想像していたがーー。
「壊滅した山科本坊の轍を踏まないためと聞いています」
「これは寺ではない。誰でも受け入れるような開放された心と開放された門で無ければ宗門の値打ちが無い。頭を丸め直したほうがいい看板だけの坊主だらけだ」
といつもの青臭いことを言った冶重郎が一転、「――ところで坊主といえばあのときお前と芝居をしたあの男は今どうしているのだ」と生臭いことを訊いた。
「急にどうしたのですか。たしかあのあと、人づてに聞いたことですが、家柄がいいから本坊に呼ばれて今では偉い坊官になっているらしいけど、気になります?」
「あっいやどうしているかと思っただけだ」
あのとき、上になったお小夜のはだけた肌の白さは覚えていた。思うにあのときから嗜好が少女に向いたようで、年とともに幼女趣味になってきた冶重郎。
あのあと、続きをしたのは成り行きだが子供が出来てしまった。もし出世したあの男が地位を利用して人を痛めつけるようなことをしたら、子や孫はおろかその子供のまた子供まで祟られる虞があるのでどうしようかと悩んでいたら流産してしまった。
「びっくりしたでしょうあの時」とお小夜が言った。
「びっくりした……ところで寺内町はこの前に来たときよりにぎわっているようだな」
早朝で人影は少なかったがごみは多かったのを思い出しながら話を変えた冶重郎。
「そうねイクサの準備で活気はでているみたい」とお小夜が言った。
イクサに頼っていては……と呟いた冶重郎。
「思えばイクサも結婚と似ていて成り行きや勢い、時には世間体とか出会いがしらの交戦とか、はたまた魔が差すなど思惑を越えたところから始まることがある」
と冶重郎がもっともらしく言うとお小夜は力を込めて言った。
「でもイクサと結婚は結果が全然違います。結婚して泣く人は限られていますがイクサをしたら泣く人は際限がございません。だから重い思いが……」
イクサに頼る賑わいやイクサに頼る生きがいやイクサに頼る楽しみでは余りにも人の命に甘えすぎて情けないという思いは二人の共鳴点だったが、冶重郎にとってはあれから例の(処理は簡単)という心根がずうっと気になって仕方がなかった。
「苦労しないで往生できるから幸せと云うのがアノ子達の言い分」
「なるほど都合のいい言い分だな、信心もしていないのに」
「そうね、でも華子のお弁当美味しかったですね!」
「うむっ美味しかった、実に!」
お弁当が美味しければそれでいいじゃあないとお小夜が笑った。
その夜久しぶりに元夫婦は肌を合わせ、知ったことを言いそびれ言いにくくなった元夫は筋書き通りのんびり滞在した。