墨俣⑥

元亀元年(1570年)五月半ば。

京より二日遅れで梅雨が始まっていた。浅井長政のバカさ加減にあきれた内藤冶重郎が気分転換に小六の屋敷を訪れ、火の無い囲炉裏でお徳と世間話をしていた。

「奥の方が何を血迷ったのか華子と仙千代どのを急いで一緒にしたがっている」

「よろしいのではございません、もうお腹にややこがいますし」

「ややこ?まさか!」吃驚した拍子にお徳の目の奥を覗き込んてしまった冶重郎。

「冶重郎さまの初孫おめでとうございます」と言って目を細めたお徳。

「とにかくお小夜に報せなければ、喜ぶだろう」

と言いながら目を逸らした冶重郎は華子の歳のことをふいに思い出した。

「お小夜さんは川内を出られてどちらに落ち着かれるのですか?」

と話を逸らしたお徳に、「もしかしたら聖徳寺に上がるかも」と言った冶重郎は歳のことはすっかり忘れていたことを思い、忘れるぐらいならもういいかと思った。

帰蝶さまの所に! 大丈夫ですか?」と言って首をかしげたお徳は、白髪が目立ってきた内藤冶重郎を改めて眺め、ボケてきた父親にあれこれと指図する娘のような、あるいは弱ってきた夫の世話をする妻のような気分になった。

「森島を引き払うとしたら和尚はどうするかだ」とボケてきた父親が言った。

「それにお春さんも時々聖徳寺にーー。お小夜さんと逢って大丈夫なのですか?」

「わしに対する嫌味か、二人ともいい年だもう」と弱ってきた夫が言った。

「お二人のことだけではなく、たとえ冶重郎さまといえど、何時までも女を軽く扱うと仕舞いには酷い目に遭いますことよ」言葉はきついが目の奥は笑っているお徳。

 

当ても無く手探りで去っていくお徳を遥子と並んで見送った一乗谷の闇に凭れ、迫ったわけでも迫られたわけでもないが長年の拘りをすっきりさせたいとの思いが共鳴して一度だけ肌を合わせた。一度だけで子供が出来たことも知らなかったワシに断りも無く、誰も覗けない熱田神宮の神域に入り込み、子供が出来ない元夫夫婦と示し合わせて生まれた子を尾張家の嫡子にしてしまったのにワシは文句も言わなかったのだ、と言い訳してみても昔、平手政秀の首が落ちたのも、勘十郎君の首が断たれたのも、白竜の首が斬られたのもワシの所為だと思っているお徳には通らないことも分かっている。加えて三郎信長の名を騙って策を謀っていることも知っているお徳が、父親である政秀を介錯したとき抑えきれずに見せた愉悦の表情を思い出し、首を刎ねる快感と一生闘っていかなれけばならないであろうお徳に何時かこの首を刎ねられる予感がしたが、お徳なら間違いなくスパッと気が付かないうちに刎ねてくれるだろうから予約しておきたいくらいだった。

「こころする。それにしても長いこと小谷に居たな」と言う冶重郎にお徳が言った。

「そんなことよりあの時、物々しい警護の部隊を派遣したのはどなたでしょう? 内藤冶重郎なら親衛隊も動かせると孫右衛門さまが気にされていました」

田屋孫右衛門が死んだことは言いたくなかった。

   *

言いたくなかったので、「冶重郎さまもご自分の家を持たれたらいかがです? 華子さんも結婚されたら在所が欲しくなるはずですし、お小夜さんもお舅さんもいざとなったら落ち着く所があれば安心すると思いますけど」と思いつきを口にしたお徳。

家を持ちたいと思ったことは無かったが、義昭公を岐阜に送る際に小谷から付いてきた太平の喜ぶ顔が目に浮かび「よさそうな所があるかな」と口にした冶重郎。

「小六さんに相談してみたらいかがです」と素っ気なく言ったお徳が思い出し笑いを浮かべながら言った。「満開の桜の下で酔った女たちが生まれ変われるとして、もし両親を選べるとしたら誰と誰の子供に生まれかわりたいかという話で盛り上がり、父親はアノ人で母親はアノ人がいいとか、今の両親の子供に生まれかわるのは嫌だとか言いたい放題に言ってたら、(みんな誰の子を産みたいの)と市蝶さまが言われ、こんどは誰の子供を産みたいかという話になり、そこにいた殿御は無論、いない殿御の名前もあからさまに言い合っていたとき隅っこでひとり小さくなっていたお香さんに、「お香さんはどなたが好いの」と遥子さんが訊いても黙ってうつむいているのを見て、「わたくしは知っているのよ」とお市さまが言ったので慌てて、「言ったらだめです」とお香さんが言うより早く、「お香は新九郎さまの子を生みたいの」とお市さまが言ったので、消え入りそうになったお香さんを肴に本当なのとわいわい騒いでいたら華子ちゃんが面白いことを言ってました」 

んっナニを?まさか……。

「そう、誰の子であれ処理するのは簡単だと云うお話」

「酒を飲ませたのか? 飲めないのに!」と言った冶重郎が気配を感じて窺った襖が開いて華子が現れた。小谷で思惑通りに孕んだのに墨俣に帰って心が揺れ、産むことを躊躇している華子がお腹を撫ぜながら、「うごくの」と言って笑った。

エッもう動くのかと華子のお腹を見て驚く冶重郎。

「自分だけ甘えられるものが欲しいという勝手な都合でも生めるのよ、女は」

とお徳が言って華子が頷いた。

「つかの間の春だからつかの間の命を生んでもいいわけね、女は」

 

みんな浮かれて過去に拘泥することも無く、未来を心配することも無く、注しつ注されつ賑やかに、生身が目の前で飢え、若者が奴属され曳かれて行っても気にすることも無くこの世の春を耽溺し、子孫を残せないほどに花弁を食べつくしても笑って居られるのは何時でも滅びる覚悟が出来ているからなのでしょうか……と誰かが呟いた。

それがこの国の定めなのだから仕方がないと言う父冶重郎のあきらめ顔を見て、「楽しめるだけ楽しめばいいわ、あとは野となれ山となれ! ですもの」と笑った華子は、束の間の命が流れて行く光景に憧れていたので「とりあえず生むわ」と言った。