二条舘⑥

元亀元年(1570年)五月八日。

例年通り梅雨が始まっていた。伏して迎えた顔をこわごわ上げたお菊の目が、見下ろす三郎信長の目と合い、あっと声を上げそうになったがかろうじて飲み込んだ。

「お菊かごくろう。これからも義昭公にはげめ」

と言う意外に柔らかな三郎信長の声が遠ざかり、敦賀の件で折檻される心配をも忘れてしまうほどの衝撃。この前見た男たらしの黒い瞳とはまったく違う、人の心を見抜くような見抜かないような別人かと思うほどのおかしな碧い目になっていた。

   *

「浅井備前が謀反とは、信じられないこと」

未だに信じられない想いで信長を見た義昭から目を逸らして信長が言った。

「信じられないことは多々あること。知らぬ間に留守を狙ったかのように元号が変わったのもその一つだが……。いまさら謀反では無いと言っても詮無いこと。舞台に上がったら幕が下りるまで演じ続けなければ見ている観客が承知しない」

そうだなお菊と言って振り向いた信長の目と今度は落ち着いて交わり、人を見抜く目では無い事が分かったが何だか分からない妙な感じだった。

三郎信長がこんな妙な目になったのは、ひょっとして……。

後ろめたさを感じながら信長の目を凝視したお菊が意味もなく、「おそれいります」と言いながら耐えきれず合わせた目をすうっと逸らせた瞬間、心の奥底にある(三郎信長と肌を合わせたがっている)自分の欲望が見えてしまった。

 

(ああっそういうことなの!)と分かってそそけ立ったお菊。信長と目を合わせた者の視線は反射し、自身の隠れた心の深部や恥部を否応無く見てしまう。そして、見た事により負った深傷を見抜かれた思い込みがえぐり、のたうつことになる。

秘すべき心を見られた想いにうろたえ、「将軍様にお子が……」と取り繕ったお菊のお腹を見た信長。「それは目出度いこと。しかし出来たのは……」

と言いもって腹を据え、遠慮なく正面から義昭の顔を見た信長の目は、男垂らしの目と同じように、本人にはその気は些かも無いのに勝手に見抜かれたと思わせてしまう厄介な目だが、「うんっ何か?」見返して動じない義昭の様子におやっと思いながら、「出来たのはお晶さんという若い方」とことさら明るく言ったお菊がさらに、わたしのように毎日がんばっても出来ないのに、ちょっとやっただけで出来てしまった理不尽な巡り合わせを恨みながら、種無しではなかったのだと安心した拍子に、「義昭様と晶殿とはお種の出会いがよろしいようで!」と言わずもがなのことを言ってしまった。

ほおっと可愛らしさを感じた信長に、「閨では公方様に素顔を見せるのか」と意表をつかれたうえに顔を覗きこまれ、一旦引いた赤みがより濃くあらわれた。

女をあからさまに見せたお菊の顔が、(言っては駄目)と義昭を睨んだ。

普段に無い可愛らしい顔で睨まれドキッとした義昭。

「お菊の素顔は可愛いのだ!」とうろたえながら言った義昭に乗った信長が、「女はみんな素顔の方が可愛い」と素顔を見たそうな顔をしたのでたまらず、「お二人でもって女をいたぶってそんなに面白いのですか! 好い加減にしてください」と叫んだお菊に一層の可愛らしさを感じた信長が、「いたぶるつもりは毛頭ないが逆に訊きたい、此の弾正忠信長をからかってそんなに面白いのか!」と言ってまた覗き込んだ。

面白いのです、と言おうと思ったのに覗き込まれ、閨ではしたなく三郎信長を誘う己の姿を見られてしまったと居た堪れなくなったお菊は、「お茶を入れ替えてきます」と裾を乱して立ち上がりそそくさと部屋から出て行きながら思った。以前義昭公の爆発を心配して偉そうなことを言ったけど、今度は三郎信長の爆発が心配になった。

  *

元号は内裏の専権事項なのだ。改元はわたしも知らなかった」と呟いた義昭が気を取り直し、「六角勢がまたぞろ出てきたらしいが……」と言った。

「六角勢は追い散らしたが、あちこちの有象無象を叩くのに追われている」

「長い戦乱で縺れた憎しみ、そう簡単には収まらないだろう。ところで先ほどの浅井の件だが、浅井備前の謀反は誤解だった、とも受け取れる口ぶりだったが…」

「そう誤解でした。陣中見舞のつもりが予期せぬ事態が重なり謀反になってしまったと」

「陣中見舞?まさか!」

「将軍として本願寺に何か命令された覚えがありますか」

「無い。顕如も謀反にはびっくりしていたと聞いたが」

やはり!。「お菊か?」たぶん……。

「お菊がなぜ?例の芝居の話か?」

「そう、間者に化けた門徒が(御謀叛)と注進。いっ時慌てさせ直ぐ誤報だと分かる筋書きの筈なのに浅井長政が陣中見舞いにノコノコ出かけて行くことはまさかの想定外。加えて本願寺顕如の思惑が予想を超えて絡んだ結果このような有様に……」

と言って唇を噛んだ信長。(あの時小便をちびるほど驚いたのが原因かどうか分からないが、気が付いたら今までとは逆に人の心の醜さしか見えなくなっていた)

 

「小谷からは何も言ってこないのか、釈明とか」

「小谷の親子は今度の事を自分たちの瑕疵とは思っていないはず」

「若い息子はともかく父親の方は分別が無い男なのか?」

「あの市蝶が魅かれるほどの男、普通の男では無いが……」

「義父といえど父親に! まさか二人は……」

二条館を訪ねてきた時のエロイ姿が義昭の目にはっきり浮かんだ。

「貴方は謀反のことより二人の道行の方が気になる?」

「勘ぐるのも程が……気になっているのはお菊のこと」

「お菊を咎めるつもりはありません、約束の芝居ですから」

「芝居だからといってお菊に何も言わないのはどうかと思う。事情を知りながら浅井長政に言い訳も求めず知らん顔をするもどうかと思う。がなるほどその方が楽だな」

うろたえた心を誤魔化すために何時になく強い口調になり、思っていたが言わなかったことをつい口に出した義昭の非難ともいえる嫌味を受け流して信長が言った。

正親町天皇は雨漏りを直したがり、公家衆は荘園領を回復したがり、お菊は将軍の子を欲しがり、寺社は特権を守りたがり、本願寺顕如は妻女殿の誤解を解きたがり、浅井の親子は男の意地をはりあっているようだ。で義昭将軍は何を望んでおられる」

顔を覗き込まれ言い過ぎたと思った義昭が紅潮して言った。

「お菊がつくりたがっている山を一緒につくり一緒に上ろうかと、ずるいかな」

「いささか、一人一山ゆえ。それにしても公方様はお菊にくびったけですね」

とことさらくだけた感じで義昭を窺い笑った信長が言った。

「外冦に備えて天下を収めるのがこの弾正忠の定めとしてもその後の天下を治めるのは別の人物。旧来の陋習を改め、新たな山をつくられる気はありせんか?」

「天下を収めるには勢いがあれば足りるが、旧来の陋習を改め天下を治めるのは容易なことではない。下手をすれば、強者におもねり弱者を痛めつけ、戦場に送った若者が流す血と涙を娯楽とするような、酷薄なヤカラのための山を重ねてつくることになる」