小谷② 

永禄九年 (1566) 十月二日。昼八半。

きのうしそこなった日課のお昼寝。

まるで取り返さんばかりに昨夜の寝所で眠り続ける花嫁。

何時までも起きて来ない新妻が心配になり様子を見にきた長政。

長政が来たことをお香に告げられ仕方なく起きた市蝶。

洗わない顔を手早くはたき

「琵琶湖を見たくなりました。いますぐ見せていただけません」

と言って花嫁らしく甘えて見せた市蝶。

寝起き顔の小じわが目立つのを心配もせず、食事のときのまま事の続きみたいだけどこのさい甘えるだけ甘えてみようと思った花嫁。

甘えられ嬉しそうな長政。

「今から登ればちょうど夕陽が比叡に隠れる前、湖面に反射するかがやきを見ることができる。きれいなのだ]と顔を輝かせ「誰にも邪魔逸れずに二人だけの山登りをしよう」と勢い込んで言った。

なぜか藤川の風呂場での市蝶の振る舞いが目に浮かび、いっそう張り切った長政に手を引かれ登る山道。

登りながら

「ここなら二人っきりになれる」と言う長政。

「登りましょう、毎月一回約束です」

とことさら甘えてせがむに新妻。

約束しようと嬉しそうに肯く長政の手に縋って上る感覚も初めての市蝶。

嫁いでから出逢った心地よさの数々にびっくりしている市蝶。

何時の間にか琵琶湖が見える物見櫓に着いた。

中からニコニコ顔の市之介とお徳が姿をあらわし

「御苦労さまです。ご無事のご到着祝着至極にぞんじます」

と声をそろえて言った。

「なにが御苦労さまだ」

と怒った振りの長政。

「いえ仲むつましくてけっこうなことです」

と澄ました顔で言った二人。

いらん世話だと言って二人を追い払うしぐさの長政。

「おれたちはここに上る、お前たちは他の櫓に行け」

と言われたのを幸いと手を取り合い去っていく二人。

 

いつの間にそんな仲に顔を見合わせ見送った新婚の夫婦。

呆れながら櫓の中に入る二人。

薄暗い櫓の狭くて急な梯子のような階段を見上げ尻込みした市蝶。

市蝶の様子に嬉しそうな長政はげまされこわごわと上った。

埃に咽ながらなんとか物見櫓に上った市蝶。

物見窓から覗いて

「思っていたより琵琶湖は遠いのですね」と言い「でもキラキラかがやく水辺まで続く田畑の広く美しいこと」と言いさらに「海みたい大きい琵琶湖の向こうの山並みは?きれいですこと」と市蝶は言った。

言いながら高嶺に立つ櫓を吹き抜ける風が冷たく身を縮める市蝶。

「見えるのだハッキリとお前には」と言い寒がる市蝶を抱き「正面の比良山系から左に連なる比叡の峰々の向こうは京の都だ」

 

と言う長政の懐で京で出会った澄んだ眸の男の素振りを思い出した市蝶。

(姉帰蝶に付き合うかたちで手土産付き下女付きとはいえ京の清原邸に気が進まない行儀作法の見習い奉公に上がったのはもう遠い日。そのとき儒学者清原枝賢の走り使いをしていた明智光秀が父道三の陰を歩く山本佐内とちらっと視線を交わしていたのを見逃さなかった市蝶)

  *

その日から間もなく、少女市蝶が手を取って誘った大胆さに戸惑う澄んだ目の記憶と初めてだった感触の記憶が長政の懐で蘇り膨張した。

 

尾張に来て間もないころわたくしと姉に兄上が夢を語っていました」

と長政の懐でほっこりしながら

「いつの日か琵琶湖のほとり小高い山に城を築き、瀬田の先狭隘の辺りを堰き止め、二倍も三倍も大きくなった琵琶湖を眺めて楽しみ、比叡の山の端辺りから加茂川まで掘り貫き、桂川をへて淀川を下り大坂湾へ一直線。大船を造り未だ見ぬ大海を駆け巡る夢」と於市が言った。

ギョとした長政

大船で大海原に出て行く夢はどうでもいい。それはどうでもいい。問題は堰き止めること。琵琶湖が二倍にも三倍にもなった光景が浮かんだ長政。

「弾正忠殿は冗談が好きなのだ」

と言った長政がアッハハハと笑った。

「兄上は夢見る少年ですから」

と言って於市もオッホホホと笑った。

眼下に拡がる浅井の田畑が琵琶湖に呑まれ次第に湖底に沈んでいく筋書きを脳裏に焼付かせた長政。

於市を強く抱きしめながら三年前のことを反芻していた