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近江路③
永禄九年 (1566) 夕七つ半。
暮れ初め落ちかけた夕陽が高嶺にそびえる小谷の城を照らしている。
若き日造るのに苦労した城。
亮政との思い出がいっぱいの櫓を馬上から感慨深げに眺めている孫右衛門。
「立派なお城!」
轡を並べたお徳が櫓を見上げて言った。
お徳の褒め言葉は嬉しいが視野は知れている。
今は無用の長物となった城を見上げて孫右衛門は思った。
信長との視野の違い
(信長は天に上ってこの国全体を一塊として見ているに違いない)
それにしてもこの女には驚いた。
馬上で轡を並べる女を横目で窺う孫右衛門。
女の横顔が、改めて真剣での立ち合いに見せたあふれる憎悪の殺気に澱んでいた血が沸騰したのを思い出させた。
そして今は別人のように孫右衛門の心を波立たせる白いおとがいが訴えた。
疾走!いま疾走のとき。
あの狭間に三郎信長と駆けた疾走にくらべたらままごとみたいだけどでも、いま疾走しなくて何時する!
振り返って撃ったお徳の想いが小六に向かって一直線に突進。
「疾走!いま疾走のとき」
答えて小六の大音声。
「めでたやな、めでたやな、お市さまの輿入りジャ」
呼応して源吉と源次郎が声をそろえて、「めでたやな、めでたやな、お市さまの輿入りジャ」と叫んだ。
もう誰これなく大合唱。
「めでたやな、めでたやな、お市さまの輿入りジャ」
お徳の四郎嵐がいななき天に向かって竿立った。
孫右衛門の鞭が高嶺の城を打ち砕くように振り下ろされた。
疾走!。
しがみつく花嫁を乗せた輿が宙を飛ぶ。
鐙に拍車をかける二人の男。
面白がる二人の若者につられてナンバ走りの男達。
市女笠をかなぐり捨て裾をからげて必死に走る女達。
股ずれも忘れて走るお福。
あの立会いで血が沸騰し捕われた市之介が捕らえた女を追って走る。
生きていれば色々なことがあるなと思いながら佐内も走る。
わけが分からない柴田勢も走り駄馬も泡を吹いて走る。
最後尾の光秀あっと一歩を踏み出し損ね遅れる。
アッハハと笑うお春。
どっどっどっどっどっイケイケイケイケいってしまえ!
輿入り行列にあるまじき疾走。
理由の無い怒りの塊が暮れかけた近江路をワッショイワッショイと爆走。
一瞬の幻想みもだえよじれる輿。
今燃えなくていつ燃えるとばかりに燃え盛るかがり火に館がもえあがる
息を切らせた一団がなだれをうって館の前に。
館の玄関が開いた。
侍女お菊を伴い迎えに出た長身の男。
浅井新九郎長政の呆れた顔をかがり火が照らした。