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密勅①
三年前の永禄六年。(1563)
織田弾正忠信長の妹との結婚話。
ましく決断を下しかねていた浅井の仲冬。
突然、風に乗って単騎小谷に姿を現した信長。
驚く浅井の若い当主とこの櫓のこの位置から琵琶湖を望んでいたのだった。
「琵琶湖は大きい、新九郎殿はこの琵琶湖をどうしたいのだ」
と信長。
「どうしたいと言われても、意味が……」
と新九郎。
「意味はない、思っただけだ。朝駆けをしていてあまりに天気がいいので気がついたら関が原、つい来てしまったが新九郎殿に会えてよかった。市蝶は親がいない妹なのでオレが親代わりなのだ」
と呟いた信長。
「市蝶どのにはまだお目にかかっていないのが残念です」
と新九郎。
「会いに来い何時でも。――この城の麓に子犬が震えていた。子供の頃よく拾って帰ってお春に笑われたものだ。見過ごせなく気がついたら懐に入っていた」
という信長に
この鼻の大きな男は子犬のことより妹のことが気がかりで私が相手にふさわしいのか見に来たに違いない。
案外心配性なのだと思ったら気が楽になった新九郎が訊いた。
「美濃は?失礼ながらやはり手強い?」
と言ういかにも若い浅井の当主に較べいい加減年増の妹に引け目を感じた信長は、「いろいろとある」とくちごもった。
しかし妹は初婚だがこの男はバツ一だと気を取り直し、「それより今度のことは朝倉にも係わりのあること」
という信長に
「朝倉のことは気にされなくとも、見合う縁組もありますから」
と新九郎が言った。
美濃の斉藤氏と尾張の織田氏のこと。朝倉氏と本願寺の抗争のこと。管領細川氏と六角氏の関係のことから天下の情勢のこと。よく分からなかったが父久政が心配していた日の本の行く末や貧窮する皇室の事などを思い出し柄にないことを訊いた。
「弾正忠どのはこの日の本の行く末をどう思っておられる」
と新九郎。
「正親町天皇の密勅が来た」
と信長が言った。
「天皇からの密勅?まさか何時?」
と信じられない顔の新九郎。
「践祚された翌年の永禄元年に来た」と信長。
「何を言ってこられました」と新九郎。
「公家の身分を安定させ、皇室料所を恢復し、禁裏を修理せよとか言ってきたがやっと尾張一国を掌握できるかどうかのオレに誰の入れ知恵か?ひょっとしたら手当たり次第かも。いかにも公家顔の使者殿に、(自分はまだ尾州半国の主でしかないのに)と謙遜してみせたが怪訝な顔もせず肯いていたからそんなところか」
と言った信長がさらに
「余談だが、践祚された正親町天皇の名前を初めて目にしたとき女帝なんだと思ってしまった。それに即位式のことは知らなかった」
と信長。
「即位式は践祚から三年後に毛利元就殿が費用を献上してやっと挙げられたと聞きました」
と新九郎が言った。
「それが腑に落ちないのだが……。二度目の密勅が今年来た。前より切迫した様子を感じたのでオレに出来ることならなんとかしたいと京まで行って会ってきた」
と信長。
「ゲッ、よくお会いできたことで!前ノ関白を介されて?」
と新九郎。
「まあな、此処から入れと崩れた築地を繕った竹矢来の穴を教えてくれた」
と信長。
「ご冗談を。天皇にお会いになられて何を話されました」
と新九郎。
「雨漏りに困っていると。しかし最初の思い違いはあながち……」
と信長。
「あながち?……それで皇室とはどのように係わっていかれるのです」
と新九郎。
「分からん。皇室とのことは分からないこと」と言った信長がさらに「それより六角氏からもらった賢政を返上して程よい今、オレの名前の一字を祝いに受け取って妹を嫁に、頼むぞ浅井長政」
破顔してフッと消えた姿が幻に思えなかった新九郎。
【長政】勝手に押し付けられたが嫌な気はしなかった