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小谷➂
嫁いではじめての気ぜわしい年の瀬。
気ぜわしいのに小の月に当たり大晦日の前日二十八日の朝から絶え間なく雪が降り続き北近江でも珍しいほどの大雪になった。
永禄十年(1567)一月一日。
白い静寂に包まれ新たな元旦の明けやらぬ闇。
暗闇の中すっと目覚めた市蝶。
触れた肌から伝わる夫長政の熟睡。
雪のよしずを縫って聞こえる鐘の音を聞きながら眠気に勝てず好きにさせながら寝てしまったのだ。
そっと寝床から抜け出し令気にふるえる市蝶。
寝間着を着たまま館の湯殿から顔を出し吾助に抱っこされ姫屋敷の湯殿に。
「ぬがして」と甘え湯船にそっと。
人心地が付いた市蝶。
ふうっと息をはき肩から二の腕を撫ぜ小谷の水がの肌に合ったのかつるつるの感触が嬉しくその腕を吾助にさしのべ抱かれて湯イスに座った市蝶
背中を流す吾助の大きな手を取り腕を撫ぜさせ(お福が怒るかしら、でもお正月だから)膨らみかけたお腹も撫ぜさせ、知恩寺の風呂場で覗かれているのを承知で接して以来……。
*
正月二日。雪はやっと止んだようだ。
「お城に上りたい新九郎さま約束でしょう」
と迫る市蝶に、
「この雪では……城は無くならないから今日無理に上ることはない」
と言って蒲団にもぐりこみタヌキ寝入りをきめこむ長政。
まあっと呆れ負けずにもぐりこみ、身をくねらせ迫りながら引け目だった歳は長政より一つ上の23歳にすることにした市蝶。
長政の中心に手が伸び(うっ)何が何でも上りたい決意が伝わった。
「危ないと思ったら即引き返す即だぞ」
と仕方なく言った長政をぎゅっと握りなおした市蝶。
「うれしいあとで奥の御節を召し上がりに来られません」
と言いながら素早く寝床から抜け出した市蝶。
いつも床を共にするのは館で姫屋敷では決してしないのだ。
元日は館に親族が集い三日はお屠蘇の会があるという。
今日二日が奥の正月。
いつものお膳ではなく大きな座卓二脚に載った豪華なお節。
お仙とお清の二人のまかない方がつくった近江風の御節料理がおいしそうに並び、真ん中に置かれたのが久政から届いた色華やかな京風の御節。
三河出のお香が作ったお雑煮はおすまし。
お米を筆頭に小谷在の侍女三人も一緒に座卓を囲み和気藹々。
何杯めかの御屠蘇を美味しそうに飲んでいるお市の方。
(飲み過ぎに気を付けてお好きだから)
と横目で心配しながらお茶でお椀を洗っているお徳の過剰に反応する耳にはいつまでたっても障る、滑るような足音が近づき止まった。
でも市蝶は夫長政の独特な足音にも慣れ気にならなくなっていた。
(お越しで御座います)と襖越しにお菊の声がかかった。
襖がすうっと開き浮かぬ顔で現われた長政。
「うまそうだな」といちおうお愛想を言った。
「あらっ新九郎様!召し上がります、おいしいんですから」
と誘う市蝶に、
「いやすませた。やはり上るのか城に」
と言ってぶすっとした顔になった長政に、
「はい上ります一トキあとに。お支度を長政殿」
とびしっと言った市蝶。
むっとし「勝手にせよ」と言い捨てた長政。
あっという間もなく踵を返した。
予測していなかったお菊が慌てて今閉めた襖を開けた。
間一髪通り過ぎた長政の背中に、バアカと口の中で言ったお菊が澄ました顔で座敷に一礼し襖をゆっくり閉めた。
シーン。雪の静けさが座敷の中まで忍び込んで来た。
言を食む夫の子どもじみた行動に腹を立てた市牒。
そんなお市の方を横目に、お椀にくっついたお餅がうまく洗えずいらいらしながらお菊の素振りはしっかりと見届けたお徳がきっぱり、「お城に上るのは駄目です、お体のことお判りでしょう」と言った。
とんでもないと云うお徳の口調にけげん顔のお福が訊いた。
「お市さまどこか具合が悪いのですか?」
やっと洗えたお椀のお茶を飲み干したお徳。
「お福も皆さんも知っておいたほうがいいでしょう。お方様は病ではありません。でも体に気を付けなければ周りのわたし達も」
と言ってみんなを見渡し怖い顔をしたお徳。
ピンときたお福。
「できたんですかぁ赤ちゃんお市様に!!!」
と屋敷中に響き渡るような驚きの声を出した。
初めて知った浅井の侍女達。
お米を音頭に声を揃えて祝いの言葉「おめでとうございますお方様」が響き亘り屋根に積もった雪も祝ってどさっと雪崩れた。
「みなさんにお願いです」とお徳。
「間違いないと思いますがいま少し伏せておいて下さい。お方様も登るのは駄目です、今が大事なとき」ときつく言った。
「もう決めたことです」とお市の方。
「お前には心配ばかりかけますが……」とお市の方。
方便とはいえ名を騙ってしまった勘十郎君との約束。赤ちゃんが出来てしまって果たせなくなってしまった。雪の中城に登れば流産するかもしれない。流産すれば果たせるかもとの思いがあった。
何時にもなくしおらしいお市の方を励ますようにお福が言った。
「上るのですねお城にこの雪のなかを」とお福。
「だったら福もお供します。吾助さんも誘おう。万が一のときお市さまをおんぶしてもらうために」とお福。
なぜか縺れ込んだ小屋で吾助と初めてしたあと気持ちよく寝てしまったことを思い出したお福。
藤川で捉えた蜂須賀小六は浅井に留まることはなく直ぐに帰ってしまうことが分かっていたお徳。
その代わりに浅井の男、田屋市之介を極楽寺で捉えたお徳。
女たちのそれぞれの思いを感じた市牒。
一緒に上ってくれないなら離縁をと長政に言った市蝶。
渋い顔をして座敷を後にした長政。
しばらくして上る仕度はしてお菊を伴い現われた長政。
上り始めた一行
新九郎さまはお優しいからと嫌がる夫の手に甘えてすがるお市の方。
図々しいお市の方
に呆れながら後に続くお徳はそっと市之介の手を取る。お市の方を窺い心配げな吾助の腕に爪を立てるお福。一人最後尾のお菊。何事もなくすんなりお城に着いた。
物見櫓から見る一面の雪景色の向こう、右手にぼんやり竹生島が湖面に浮かびきらきらと白波が立つ琵琶湖が窺え、左の正面に頂から麓まで全山白装束の荘厳ともいうべき伊吹山が驚くほど間近に聳え立ち、息を殺していると浅井の田畑を覆いつくした真っ白い雪を何条もの光が躍り魂を吸い取られるような眺めに誰からも声が出なかった。
「もしこのままずうっと浅井の田畑の雪が溶けないなら、市之介さまならどうなさいます」お徳の問いに沈黙する市之介をさりげなく窺うお菊。
「へえっ雪が溶けないなら作物は出来ないのね」とお福。
浅井の田畑を覆うのが降る雪なら自然に従えばいい。だが堰き止められた湖水なら誰かが堰を開けなくてはと瞑想する長政