小谷城

元亀元年(1570)秋八月二日

姉川の合戦以来夫長政は上の城に移ったが、下の姫屋敷に居座っているお市の方

今日が二日なのだと気付いて山登りを思い出した。四歳になる茶々姫の手をひいたお福と、二歳の次女初姫を背負った吾助を連れて物見櫓に上がり、眼下の豊かな実りから遠ざけられた夫長政の執着は母の胎内の羊水に揺られている幸せなのだと思った。

正面に筋を引く姉川を隔てて霞んで見える横山城に、小谷城を監視するために守将として木下秀吉が、在番として蜂須賀小六が居ると聞く。

「お福、あのお城に小六どのが居ます、睨み合っている今のうちに吾助とあそこに行って尾張にでも美濃にでも、墨俣にはお徳が居ますし、帰りなさい」

と言うお市の方にお福が、「そんなことおっしゃって御自分だけ格好つけようったってそうはいきませんよ」と言ったとき階段から聞き覚えのある足音がして現れた長政。

「上ってくる姿が上から見えた。元気にしているようだな」

と言って笑った長政に隠れるようにそっと姿を見せたお香。

  *

あの桜の宴が終演し館に帰る長政にお香を付添わせお市の方。もしかしたらと思ったがまさかになった。おぼこの筈のお香を長政が抱いたのは酔っていたからなのか? それとも、おぼこでも年増ならいいのか? あるいは、おぼこで無くなっていたのか?

 誰も知らないが、先を想い吾助を誘って女になっていたお香。

 *

「元気ですわ。あたもお元気そうでなによりです。それにお香も」

と言って笑った市蝶が差しのべた手に縋り変わらぬ感触が嬉しくて笑ったお香。

そんな二人の様子と落ちつかなそうな長政の様子に頷いたお福。

「茶々さまが催されたようなので下に降ります。お香さんも一緒に。吾助さんも」

と言ってさっさと階段を降りて行ったお福の様子がお徳に似てきたのを感じて微笑んだお市の方が、「だっこして下さいません新九郎さま! あの時のように」と言った。

あの時、館の前になだれ込み輿から降りようとしてふらついた花嫁を抱き上げた新九郎。

「いいとも」と抱きかかえた長政が、「この豊かな近江の地をおれの我侭で守りきれなくなりそうだ」と言ったので、「まだ負けると決まっていませんし、たとえ浅井が滅びても貴方の好きな此処はなくなりません。ごめんなさい滅びるなんて」と市蝶が言ったら、「いいのだその通りだ。滅びるのは世の常のこと代わりは幾らでもいる。ただオレのつまらん意地で領民の血を流させることになるのは心が痛む」」と言う夫が愛おしくなり、顔を近づけた市蝶は首筋を優しく撫ぜあくる元亀二年七月、三女小督を生んだ。

 

小谷城

元亀元年(1570)秋八月二十六日。

随っていた朝倉景健が市之介に案内され上の城に登って行くのを見送った浅井長政朝倉義景は下の館の居間で向かい合った。上座にゆったりと座った朝倉義景は、初めてこの館に来たとは思えないほどに落ち着き払って辺りを見回し、「弾正忠殿が岐阜を発ったらしいな」と言ったので頷いた長政が、「三好勢が阿波から大阪に渡海したと聞くが、烏合の衆にどれほどの力があるのだ」と言う義景に言った。

本願寺が加勢するでしょう。顕如自らの檄文が左衛門様のところにも届いたとおもいます。三好勢とも連絡を取りうまくいけば挟み撃ちにして兄上を討ち取ることも」

備前殿は酷い目にあわされた本願寺に恨みはないのか」

「まったく、わたしが間抜けだっただけです」

と言うこの男は人が好いのか馬鹿なのかとあきれながら義景が言った。

「分からんのは、なぜ本願寺顕如は弾正忠殿に敵対するかだ」

本願寺については市蝶がなにか言っていたが……」

と言う長政に、「市蝶どのは何を知っているのだ」と興味はなさげな義景。

「直接、市蝶にお訊きになりたい?」と長政。

「まあな……」とお市の方を思いながらさりげなく言った義景。

朝倉義景の頭を離れないのは本願寺顕如より高嶺を越えて来た男の狂気。

 

『小谷の女がやってきた。男としての能力がどうのこうのとおちょくられ、腹が立ったが危険な姿態で夫の性癖を面白おかしく言う女に刺激され元気がわいた。薄絹をまとった妖姫に目も眩んだがそれより、あの三日間のやり取りで心が揺り動かされ生きていることを感じ、自分でも信じられなかったができた。しかし萎えていた勇気が薄目を開け、谷を出る気になったとき、生来の(狂気)を秘めた男が突然幻のように現れ作り物の勇気は圧倒された。何故何処からと混乱するわたしに、「お徳が心配で駆けてきた」と言って笑った男織田弾正忠信長。たかが侍女ごときのために冬には雪も凍りつく越前と美濃を隔てる高嶺を越え、(元服前、宗滴曾祖叔父に連れられ美濃を目指したが途中で引き返した道なき道を逆に)安藤守就が治める美濃本巣から、朝倉景鏡が治める越前大野まで、獣道をかきわけときには怖気ずく馬を背負い、景鏡に案内され馬をいたわりながら揚揚と現れた男。われに返って照れた顔を見せた男。何時でも何処でもどっぷり(狂気)に身を任せられるような男は幻であって欲しい。侍女の寝顔を碧い目を輝かせ確認し、安堵してフッと消えた危険極まりないが羨ましくもある男は幻であって欲しい。それに比べ思い出したくも無い若き日、一向衆と必死に戦っていた加越の国境で突然、生と死の狭間を麻痺させる(狂気)が自分には無いことを思い知らされ立ちすくみ、恥も外聞も無く身を縮め谷にこもるよりなかった。悪夢の現実から目を逸らすために雪月花をまとい、女にまぎれ酒をあび、傷が薄れるのに十数年、途中イクサに出たこともあったが改めて確認しただけだった。ようやく傷が癒え塞がった傷口が、嫡子を亡くした衝撃で再び露わになったとき、不意に訪ねて来て傷口を舐めてくれた女。危険だが面白くてエロイ女の反応する姿態を反芻していたら何時の間にか雪が溶け、アノ男から誘いが来て震えた! アノ男の(狂気)に対抗できるのかと。しかし(狂気)のないわたしでも、照れた顔のアノ男とは対等に折り合えることは分かっていた。分かっていたのに圧倒された(狂気)の記憶を振り払えず尻込みしてしまった。その上、再度の誘いに蛮勇さえ奮い起こせず谷を出られなかった』

もし将軍義昭から直接の誘いなら行ったに違いないないと、何度も思ったことを思いながら独白する谷の男の顔を呆れて見ていて長政は確信した。

稲刈りが終われば浅井軍と朝倉軍が連合して入京するつもりだが、この男が本隊に先んじて小谷に寄り道したのは一乗谷における市蝶との三日間が忘れられないのだと。

市蝶に会いたいあまり、上洛して信長を討つというもっともらしい大義名分をしゃあしゃあと掲げ、悲しげな目を輝かせ揚々とやって来たこの男なら許せるというより妻を自慢したかった。そしてほかの男にも。しかし父久政と兄信長は不味い。

市蝶に会えると思って緩んだ顔を引き締めて義景が言った。

「義昭公から良からぬ手紙が来たが、弾正忠殿と喧嘩でもしたのか」

「何かの間違いでは?兄上と義昭公の関係は良好のはず」

「良好なのか将軍と弾正忠殿は。皇室とは?」

皇室との関係も良好のはずと聞いて、それでは上洛する大義名分がないなと呟いた義景の懐には、かつて信長に届いたのと同じ内容の色あせた密勅と、将軍義昭からの手紙があった。「何をしたいのだ新九郎どのは上洛したら」と義景が長政に聞いた。

  *

次の間の襖がすっと開いて茶々姫が入ってきた。数えで四歳、満で二歳と八ヶ月。

義景をチラッと見た目が青く光り踵をかえし襖がすっと閉まった。

   *

(上洛したら何をしたい?)ここまで来てなにを言ってるのだこの男はと改めて義景を見て呆れた長政が、「とにかく兄上をやっつけなくてわ」と言った。

(やっつける?)何を言ってるのだこの男はと長政を見て呆れた義景。

義昭公からの手紙には、信長の横暴さを怒る言葉はあったが討てとは書いてなかったと思った義景が、大義名分が無くてはと呟いたがそれには上の空の長政が言った。

「無くならないイクサは武士が引き受け血を流し、百姓は耕作に坊主は祈ることにそれぞれ専念させてイクサに関与させない方策を考える必要があると父久政は言っていたが、兄信長は目指すはイクサの無い世と夢みたいなことを言っていた」

「さすがは久政殿考えが深い。一方、憑かれたようにイクサをするアノ男は、イクサを無くしたい想いとの戦いに明け暮れていたのだ。内なる闘いに疲れたアノ男の狂気はイクサが無くなる前に死にたがるだろう。問題は誰が介錯するかだ!」