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余呉湖①
姫屋敷の庭に佇んでとりとめもなく思い出しているお徳。
永禄十年(1567)春三月。
館の裏庭でもあった馬場にこの姫屋敷は建てられた
そこに咲いていた多種多様な桜木のほとんどが姫屋敷を建てるために切られ、生き延びた何本かの姥桜が塀越しにあざやかな色香を漂わせている、
そして塀の中の新たに植えられた若い桜木が来年こそ負けないで咲いて見せると意気込んでいるようだ。
開いた裏門からお福と新六郎が入ってきた。
れぞれ一本ずつ、薄紅色と深紅の花びらを幾十枚も付けた見事な枝を持ち、その後ろから上目遣いの姿を見せたのが太平だった。
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疾走した晩、姫屋敷の吾助の湯で小六肌と肌をあわせ、「あなたが付けた名前が欲しい」と素顔のお徳がねだった。
頷いた小六が「新六郎、蜂須賀新六郎悪くない」と言った。
黙って頷き小六の太股の筋肉に指を沿わし(動かないで)とあえいだお徳。
女の筋書きが二の腕に爪を立てたのだが、夫婦になって一緒に暮らす話は二人とも一度も一言も口にしなかった。
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小谷に来てから目に見えて背丈が伸びた新六郎。
「背丈はすぐにも追い越しそうですが、重さはなかなか」
と縁に座ったお市の方が笑いながら嫌味を言うと、
「でも吾助さんはちょうどいい肉付きだって言ってくれますから」
お福がふくれて言い返した。
真っ昼間、子供の前で言うことではないがお福が言うと笑ってしまう。
しかし息子新六郎のことは笑っていられないお徳。
(わたしはこの子の幸せを本当に願っているのでしょうか、心から幸せを願っているとは自信を持っていえないのです)
真っ青な空、満開の桜の下で思うことではないけど……。
お徳の深く暗い微笑を浮かべた横顔をじいっと見ていたお市の方。
お市の方の顔つきが変わったのを横目で感じたお徳。
この頃ではご自分でもままならないほど簡単に変身するようになられたみたいで、困ったものと微笑を解いたお徳。
桜がまだ蕾の二月末、婚礼の一行が姉川を渡ってそっとやってきた。
輿まで担いで大仰に体裁だけ整えた一行。
島田秀満を使者に地味に形だけの婚礼が行なわれ、山のような嫁入り道具を姫屋敷に置いてそそくさと帰って行った
「やはり来てほしかった人は誰も来ませんでした。やっぱり優柔不断で臆病な兄信長が保身のためやれ妹だやれ養女だと嫁がせたうちの一人に過ぎないわたくしのことなど誰も覚えていないのです」
一乗谷に行けなかった怒りを八つ当たりする於市を慰めるお徳。
「今は美濃攻めに精一杯。片が付けばみなさん訪ねて来られると思います」
しかし怒りが収まらない於市。
「イクサしか能が無い兄上は一生イクサをしていればよいのです」と罵ったついでに屋敷を埋めた大量の嫁入り道具をねめまわし、「こんな趣味が悪いものならお金をもらったほうがよほどまし」と大声で品の無いことを言った。
「今の大声は近江中に聞こえそうだな」といつものように滑るような足音の長政が笑いながら市之介とお菊を伴い姿を見せた。
「納戸を建てればいい倉のような納戸を、併せてお徳と新六郎の住まいも。そう思っていたが雪にまぎれて忘れていた」
と忘れていたことを気にする様子もなく新六郎の頭を撫ぜ
「急に大きくなった、幾つになった」と長政が言った
「十歳になりました。これ差し上げます」と桜の枝を差し出した新六郎。
「おおっさすが気が利く血は争えない」
と口にするのを憚る血筋のことを口にしたことも気が付かない長政が、「見事だ、座敷に飾ろう」とお菊に渡し改めて新六郎を眺めた。
「もうじき元服だな、立派な若武者になるに違いない」
と言って歳の割にしっかりした新六郎の肩をぽんと叩き、「母親譲りだな」
と気持ちの悪いお愛想した長政に素っ気なくお徳が言った。
「有り難う御座います。でもわたしは武士になって欲しいとは思いません。いつも命をかける武士は心配ですし、逆に命をかけない武士になったら情けないですから」と言う母に苦笑して見せた新六郎。
「母者はああいっているが、では何になりたいのだ貴君わ」
と市之介が聞くと、
「武士になりたいと思ます。立派な武士になって母上を安心させてあげたいと思います」と澄まして答えたのでなるほどこのボウズも曲者だと思った市之介。
お徳の目には澄ましきれずふざけているのは見えたがちょっと照れた顔になった息子にダメな母親が嬉しそうにメッという顔を見せた。
「余呉湖に行こう」突然長政が妻を覗き込んで言った。
「琵琶湖は大きくて圧倒されるが余呉湖はほどよい大きさ。行こう余呉湖え!お前の一乗谷に通じる道、北国街道の入り口余呉湖え」