姫屋敷②

永禄十二年(1569)冬十月十九日。

「お菊殿が在所に帰っているようですねお香、どうしたのです」

「うわさでは公方様と喧嘩したとか」

「公方様と喧嘩したのは兄上でしょうお福、お菊どのもですか?それなら兄上が喧嘩した理由を知っているかも。手紙を書きますから吾助に行ってもらいましょう」

「わたしも行きます。今のお菊さんは以前のお菊さんと違います」

「お福の言うとおりです。側とはいえ実質公方様の室。駕籠を用意しましょう。お前も休みを取るよい機会、一晩でも二晩でも泊まってのんびりしてきなさい」

   *

困った吾助を面白がりながら三人で湯に入った。

「あれからまだ二年程しか経っていないのにもう遠い人のようです」

と言ってお菊を眩しそうに見たお福。「この湖の上で始まったのですね、未だ夢をみているみたい」とあの時の色々なことを思い出しながらお菊が言った。

 

「足利将軍のお世継ぎはまだ出来ないみたいですね。いつでもどこでもなんでも一所懸命なお菊さんが好きだけど、たまには力を抜いて公方様以外の殿御と仲良くしたらお世継ぎができるかもね! 種は誰のでも、この吾助さんのでもいいのだから。吾助さんの種が公方様になったら面白いもの、頑張ってみない吾助さん」

と言いながら吾助との間の子かも知れない茶々姫を思うお福の視線に体を縮めた吾助。

「相変わらずのお福さん。気が置けなくて楽しいわ」とお菊。

お市さまが来てほしいって、暇を持て余しているのよ」とお福。

「これからすぐ行ったら日が暮れるまでに着けると思うけど」とお菊。

「泊まってゆっくりしてきなさいってお市さまが」とお福。

頷いたお菊が、「それなら船を出しましょうあのときのように。久しぶりに思いっきり漕ぎたいから思いっきり漕いで琵琶湖の真ん中まで。思い出話もしたいし訊きたかったけど聞きそびれたこともたくさんあるし、お徳さんはいないけど……」と言った。

長湯から上がると隣の湯場から市之介が出てきた。

早朝から琵琶湖の水位と湖岸の調査に来ていたが早く終わったので、一風呂浴びていたと言う市之介を風呂上りの洗い髪を匂わせたお福が体を寄せてしつっこく誘った結果、根負けして連れていた従者達を先に帰らせお菊の船に乗ることにした市之介。

しなやかに艪を漕ぐお菊の本当の好みは市之介のような細身の男ではないかと睨んでいるお福が親子ほどの光秀をつい抱いてしまったのが一乗谷なら、吾助の盛り上がった筋肉と端麗な顔に魅かれたお豊が女になったのも一乗谷だった。次々に女が目の前に現れる吾助に、「吾助は幸せだなあ」と言った市之介がしたいのはお市の方なのだ。

船を下り冷えたのでもう一度みんなで温泉に入った。

かねがね市之介さまならまんざらでもと船の上でもまとわりついていたお福だがここはひとつお菊さんに譲って、隅っこで身を縮ませる吾助に近づき、(もう一度お菊さんとしたかったのでしょう)と耳元でからかい温泉に入った勢いで久しぶりだけど……。

こちらも久しぶりに義昭公以外の殿御と仲良くしたお菊はぐっすり寝て翌日早立ち。

  *

「ご無沙汰していますお市さま。ずうっとお会いしたいと思っていましたのでお元気そうで安心しました」とすっきりした顔で挨拶したお菊。

「お菊殿もお元気でなによりです。将軍のお世継ぎはまだできませんか」

とぼんやりした顔で言ったお市の方

「きのう琵琶湖の中程まで漕ぎました。久しぶりで体の節々は悲鳴を上げていますが頭はすっきりしていい気持ちです。でも世継ぎの気配はいっこうに。一所懸命頑張っているわたしがこのごろ懸念していること、義昭さまは種無しなのではないかと……」

お福さんも吾助さんも心配してくれましたと言って顔を曇らせるお菊。

「そんなことは無いと思いますが過ぎたるは何とかといいますから……」とつぶやいた市蝶が、「公方様と喧嘩したとか聞きましたがどうしたのです」首をかしげた。

 

「三郎さまと初めて目を合わせたのに条書のことで義昭さまが怒ってしまわれ、当惑された三郎さまはそそくさと帰られてお話ししたかったけど出来ませんでした」

「三郎さまと目を合わせた? じょうしょ? 何のことです」

「将軍をないがしろにする五項目の規約が書かれた条書。そんなものを押し付けられ笑っていられるかということのようです。読みましたが、義昭さまが怒られるわけがいまひとつ分からなかったので分からないと申しましたらいっそう激怒されて……」

「分からなかった? 内容がですかそれとも他に……まあよろしいでしょう順にお話しすれば分かること。兄上と初めて目を合わせてどんな感じでした?」

「ひとくちに言ったら三郎さまは危険なお方!」

「危険! あなたもそう思いますか、あなたも惑わされた?」

「あなたもって……お市さまもですか!」

そう、男だけではないのだ。

「三郎さまは人のよい所しか見ないからその気になって甘えたらあてが外れますよ。だますつもりはない危険なアノ目にだまされてしまうの。それは仕方がないとして分からないのは、あなたが一乗谷で義昭公に関わったのは光秀殿に頼まれたからでしょうがその後京まで付いて行ったのは何故ですか、新九郎さまが嫌いになった?」

「嫌いになった訳では、義昭さまの方が面白そうだったから……」

「新九郎さまより義昭さまのほうが扱い易いから?」

「扱い易いなんてめっそうも無い、そんな失礼なこと……。ちょっと変わった危なっかしいお方が好きなだけです。新九郎さまは……」

「変わりすぎているから? でも兄上を始め周りはそんな殿御ばかり。お前の好きな義昭公はどのように変わった方なのかおしえてもらえます」

暇を出された今なら話せますとちょっと笑ってお菊が言った。

「先ほどの条書の話、義昭さまが激怒される理由が分からなかったのは役だからです。役を演じていることを忘れていらっしゃる」

と言うお菊に「やく? やくとは?」首をかしげる市蝶。

「役ですよお芝居の。義昭さまが言い出されたこと」

「芝居のですか! 思い切ったこと。あなたもそれに乗っかった」

「義昭さまは征夷大将軍の役、わたしは次の将軍の生母になる役」

「おやおや将軍の生母になればわたくしより上に立てるから?」

「そんな、どんな状態になってもお市さまはお市さま、菊は菊に変わりありません」

「面白いお話し、役のこと兄上にも報せなければ。他には?」

「ご自分の血筋に拘っていないのでかっとなっても直ぐ冷静になられるのが爽やか。母親を知りませんから女には屈折したおもいがあるみたいですがわたしには優しいお方」

「お菊どのにお優しいのならもうじき京より迎えが来きます」

「さあどうでしょう、かなり意固地ですから」

「意固地なのは三郎さまもかなりのもの。殿御はみんな意固地」

「義昭さまは意固地のうえに筋を通したがるの。たとえ役の上でも真剣なの」

とちょっと困ったようなちょっと面白がっているようなお菊。

「芝居ならせりふが要ります、わたくしが京え行ってせりふを伝えましょうか」

と笑いながら冗談のつもりで言った市蝶。「ご冗談を! それとも本気ですか?」

とお菊が驚いて絶句した一瞬の間を突きお福が大声で訴えた。

「京え行かれるならわたしも行きたい。連れてってください」

お福の大声が合図のようにお豊を従えた長政がすべるように姿を見せ、「お菊は変わらず達者なようで結構」と今までのことにはまったく屈託無さげに声を掛け、慌ててご挨拶が遅れましたと頭を下げるお菊の横を通って市之介とお藍も入ってきた

「ところで誰が京え行くのだ?」と長政。

「わたくしが新九郎さま」口に出したらその気になったお市の方

「京え行って何をするのだ」と呆れ顔の長政に澄まして、「バテレンの言葉を学びたいと思います」と市蝶が言ったので、「なにを寝ぼけたことを正気か!」と声を荒げた長政。

「兄上から手紙が来ました。元服した新六郎と華子ちゃんがバテレンの言葉を学ぶため京え発ったと。しかもその付き添いにお徳が! お徳にも会えるのです。その上逗留先の清原家は嘗てわたくしがお世話になった処。お許しがなければ離縁は覚悟」

 

何かというと離縁を持ち出す妻市蝶にまたかという顔をした長政。

一乗谷の次は京の都かやれやれ、乳飲み子はどうするのだ」

「あらっ先の夜もういいだろうっておっしゃってお乳をややこから奪われたのはどなたさまでしたかしら」と妻に言われ、「あれはふざけただけだ」と言い訳する夫。

「お吸いになったのもふざけただけなのですね」

と満座の中揚げ足を取られ、露骨な言葉で揶揄されうろたえる長政。

「ご執着なこと」とお菊にも嫌味を言われしどろもどろになった間隙をつき、「だったら豊もお市さまのお供をして京に」と懇請するお豊に、「調子に乗るな許さん」

と叱責する声も弱弱しい長政を助けるように市之介が言った。

「清原家は代々明経道の家。儒学などの権威でもあるしキリシタンが出入りしていると久政様に聞いたことがあります。いっそわたしが警護も兼ねてお供しましょう京まで。何かのときに備え京えの道程を確かめるのも兼ねて若い者たちを何人か連れ」

と尤もらしく言ったはいいが女の勘がお菊を窺わせる妻お藍。

ついお藍も行くかと取り繕った市之介。顔を輝かしたお藍が、「一度行ってみたいと前々から想っていました。赤ちゃんはお市さまのお子と同じどなたかに……」

「どいつもこいつも勝手なことを言いよって。しかしお徳と会って大丈夫なのか、会うのを禁じているのはお前ではないか」と立ち直った長政が怪訝そうに言った。

「そうですけどいつまでもこのままでは周りも迷惑でしょうしお徳に一番係わりがあるわたくしが会って京の都で首が飛んだら二人とも本望。でもお徳の記憶はもう戻っているのではないかという思いも……記憶は戻っているのに生きているのが恥ずかしいから言えない、お徳はそういうところがあります。あるいは一乗谷でわたくしがお徳の目にだまされたかも、確かめてみなければ。ですから京えお許しを新九郎さま。それと、あなたが気にされている滞在費はわたくしが全部出しますからご心配なく」

「あっいやそんなことは……しかし岐阜からの一行に加えこんなに大勢で押し掛けたら清原家もはなはだ迷惑、他に何所か?」と言う夫に閃いた市蝶。

 

「それならいっそお菊どのの処え行きましょう」

「えっわたしの処? まさか二条のお館!」

「お館なら広いでしょうしみんなで押し掛けましょう! お菊どのを先頭に押し立てて」

「そんな無茶な駄目です無茶です!」

「いきなり行って義昭公の反応を見てみたいですが無茶ですか?」

「無茶ですよお市さま無茶苦茶です! そんなこと無茶です驚いた」

お市の方の世間知らずにあきれたがそのおおらかさに改めて魅かれたお菊。

「でしたら義昭公のお好みの筋を通すため兄上に手紙を書きます。公方様に命令できるのはお上しかいません。これまでのいきさつを話し兄上からお上に頼んで義昭公に命令を出してもらいます、お菊と仲良くするようにって。子供だましなのは承知の上、お上の命令なら仕方がないと筋が通りますから内心はともかく渋々でも同意されるでしょう」

とすまし顔の市蝶を見て唖然とする一同に同感の長政が言った。

「兄上がそんな手紙をお上に出してくれるとは思えない。出してくれたとしてもそんな下世話なことをお上が仲立ちする筈はない」と否定的な夫に自信ありげな妻。

「兄上の性格はもちろん正親町天皇も四十を超して即位され、世間に明るいお方と聞いていますから望みはあります。直ぐ手紙を書きますから新九郎さま岐阜に早馬を」

別紙追伸に(義昭公は将軍の役を演じている模様)と記した。