一乗谷

永禄十一年(1568)初夏四月。

《嵐が去って一乗谷の(時)が止まった》

挽かれた姥桜に重なり抱き合って倒れている二人を浄真寺に運んだ

医者は呼んだが役に立たず、

怪しげな結界に包まれ息はしているが一乗谷の桜がすっかり散っても結界の霊気は弱まる気配が無いのでどうしょうもない。

心配で痩せる思いのお福はますます肥、

光秀が用意してくれた釜の水を毎日換え沸かしている吾助。

たまらず市之介が事態を小谷に知らせ、

険しい顔の長政が羽織旅袴姿で浄真寺に飛び込んで来たのは十二日後。

妻を覗き込み「元気なように見えるが?」と呟いた長政。

腰がやや引けているのはあの苦い記憶のせいだがそれはともかく、

一ヶ月余り何も食べず何も飲まないというのに

脈も息も間隔は開いているが正常でやつれた感じも無く、

近寄りがたい霊気に包まれた二人は

冬眠している熊のように排尿も排便もしないと聞いてしばらく思案していた長政がいきなりエイッと掛け布団をめくると市蝶が寝返りをうった。

久しぶりに嗅ぐ市蝶のいい匂はいつもと変わらずホッとして羽織を脱ぎすて体をぴったりくっつけ添い寝した。

盛り上がって乱れた掛け布団を丁寧に掛け直した冶重郎。

なるほど今はこれしかできることはない。結界をあっさり無視して添い寝した長政をちょっと見直した。

お福が襖を開けあっと声を呑みそっと冶重郎の横に座ってお盆を置いた。

開いたままの襖から覗いた吾助が廊下に座って音を立てずに襖を閉めた。

 

《そして一乗谷の(時)が動きだした》

絶え間なく前方からやって来る未来に惹かれながら暗い過去を取り戻したい一心で去り行く光を求めて奈落の虚空を疾走するお徳。

お徳の曳光を必死に追走していた市蝶だが奈落の谷間で見失い、

くれない色の虚空に漂う筏に縋ってウトウトッとしていたら圧迫感に体を包まれ、息苦しくなったので両手を突っ張り何かをエイッと蹴っ飛ばした。

あっ、股間を押さえ苦悶する新九郎の姿に笑いをこらえる冶重郎。

跳ね、「お市さま!」叫んでかけより抱きついたお福。

気配を感じて覗いた吾助。

朦朧としていた市蝶が吾助を見てむしょうにお湯を使いたくなり急に立ち上がったので目眩を起こしお福にすがって寝ているお徳に気がついた。

お徳起きなさい「お前はもういいのよ、定めに従い辿り着いた一乗谷でゆがんだ過去の償いを生身の体で充分払ったのだから休みなさい。わたくしは疲れたのでちょっとお風呂に」と言って行きかけ、

うめき続ける足元の物体をよく見ると長政なので、

此処は一乗谷のはずなのになぜここに夫が居るのとびっくりしたはずみに、

「あらっ新九郎さま、いっしょにお風呂に入りません!」

と誘ってしまい、ぎくっと痙攣が止まった夫を改めて見下ろし足裏の感触がよみがえり(まさか)とよろけてみせた市蝶。

 

よろけた市蝶ををさっとすくい上げた吾助。

抱かれてくるっと回りいい気持ちで風呂場に運ばれた市蝶。

冷えた体に吾助の湯が心地よくおもわずハアッと息を吐いた拍子に豊かな胸が湯をはじいて揺れた。

付き添ったお福は元気な市蝶の裸を見てホッとし気持ちが口に出た。

「心配で心配でやせる思いの一ヶ月でしたよ」とお福

「まさか!いっ時だけでしょうわたくしが寝ていたのわ」と市牒

「一ヶ月以上ですよ、いっ時なんて、誰にでも訊いてください」とお福

お福の言うことが本当なら奈落では齢を取ることも許されないのかも。

流れているはずの時間が奈落では流れていないならお徳の疾走は無駄なことかも。そして奈落と極楽は何処かで繋がっているかもと市蝶がとりとめもなく思ったとき下帯だけの長政が勢いよく入って来た。

 

(ぐえっ)と呻いたお福の裸には目もくれず市蝶の前に仁王立ち。

 「お福出なさい、新九郎さまと二人っきりにして」

お福を追い出し目の前の下帯に集中した。

「ごめんなさい大事なところに当たってしまったみたい。調べて見ましょうか……まだ痛みます?これ外さないと!」と言って下帯に手をかけた。

「……」

「大丈夫みたいですけど試してみます!」

「……」

《そして一乗谷の(時)が走りだした》

  *

苦しい立場の光秀が市之介と向かい合っている。

重臣筆頭の朝倉景鏡と話をつけ、義昭公の岐阜行きを朝倉義景に承知させたがお市の方が回復して一ヶ月あまり経つのに変わらない状況。

侍女ふぜいの具合が天下の将軍になろうかという貴人の足を止める理由にはならないはずなのだがーー。光秀の心配顔を見ながらとりあえず

お徳の周りだけ時が止まっているような異変を岐阜に知らせた冶重郎。

細川藤考は岐阜に行き、元気な市牒を確認した長政はあっさり小谷に帰り、入れ違いにお徳の身を心配したお春が村井貞勝にくっついてやって来た。

「なんとかならないか市之介どの」と訴える光秀。

「なんとかしたいがなんともならない」と言う市之介。

「胡散臭がられていた朝倉から疑いの目が、身に危険すら感じる」

と泣き言を言って揺れ始めた光秀。