川内①

永禄十一年(1568)秋九月二十六日、朝。

源次郎の船で長良川を下る治重郎。

去年、稲葉山で意地を通した若い斉藤龍興に道を開け、川内に落ちるのを信長と見送った長良川は墨俣辺りで木曽川と合流し、川内に掛かる手前で再び分流する。船は木曽川の速い流れから穏やかな佐屋川に入った。

 

佐屋川に入り右手の立田輪中に沿って暫らく下る。

弾正忠家の交易の拠点でもある賑わう津島を左に見て立田輪中を右に回りこんでほどなく左に出てくる梶島の次の島がお小夜の在所のある森島で、右手に小木江城の櫓が見えたところで艫に立ち、艪捌きは源次郎も感心するほどだが人の世の捌きは後悔ばかりだなと自嘲した冶重郎は小木江砦を思い出していた。

  *

上流の津島の沖から長い杭に仕立てた材木を荒縄で束ねた筏を五・六床連ね、立田輪中の南の端を目指し波にもまれ流れに棹差し幼い吾助を背中に括った年若い源次郎を気遣いながら一蓮托生の筏上、棹を掲げて飛び渡る小六に(もたもたするな)と大声で怒鳴られていた三郎信長の茶筅髷が小木江の岸で躍った。素早く上陸した第一陣に続いて第二陣第三陣と風体の怪しい悪童たちが満載の連なる筏の上にまだ少年だった木下藤吉郎の姿もあった。解いた杭を前もって密かに標しておいた縄張りに沿って打ち込んだ柵を支えに天文二十一年暑い夏の日に造られた砦が今では、信長の弟信興により建てられた幾棟もの櫓が小木江城と呼ばれるほど聳え、織田憎さの象徴にまでなってしまった。

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傾いた古家のすっと開いた玄関戸に男手を感じた内藤冶重郎は何となく高く感じる敷居を跨いで挨拶に口ごもった。

迎えたお小夜の四十を越している筈なのに若い時と変わらない男好きな童顔がにっこり笑って(おかえりなさい)と言った。

いつも座っていた場所から見慣れた天井の古いシミを見上げ、濃い縁取りがこの家の古さを物語っているなと当時を思い出して感慨にふけっている冶重郎。

そんな元夫を好ましげに見ていたお小夜がお茶を入れながら、

「月が替わったら在所に帰ろうかと思っているの、父はもう年だし母がこの前亡くなって父の面倒を見なければ……」と言った。

 昔、冶重郎の父が何度も訪れたと聞く森島に在るお小夜の在所。

(時衆の流れを汲む真宗本願寺派源真寺の住職であり医師でもある夫と上品な妻)

三ヶ月ほど前母親が亡くなったことを告げ、森島に帰るため願証寺を辞めたとこなのとお小夜が言った。そのことは帰蝶に聞いてはいた冶重郎は黙って頭を下げた。

「この辺りの空気も濁って若い華子のことが心配。でも華子は嫌がっているの何も無い森島に帰るの、ここで自分の店を持ちたいらしいけど……」

「ほおっ店を! ものいりだが大丈夫か?」と冶重郎が首をかしげると、「あれから貴方に送ってもらっているの全部ためていますから……」とお小夜が言った。

なるほど(しかし此処で)と再び首をかしげた冶重郎。

「此処に来るあいだにたくさんの物乞を見た。たしかに前にも乞食は居たが縋って物乞いをする乞食は居なかった。流れ者も非人も浮浪者も芸能民も遊女もいたがみんなそれぞれの役割を心得、必要なものと互いに尊重し、阿弥陀如来を信じて堂々と生きていた」

今にして冶重郎は思った。世間では三百年かけた助走を隔絶した此処では溜めに溜めて一気に踏み切った別世界だったかも知れない。

 

「年貢が上がって食べていけなくて、長男以外は家に居辛いから」とお小夜。

願証寺はどうするつもりだ、年貢を下げるとか手はあると思うが」と冶重郎。

「どうにも出来ないでしょう、本坊の言いなりですから」

「おのれの実入りしか頭にないのか本願寺わ?」

「石山の維持と門跡としての付き合いにたくさんのお金がいるらしいの」

法主に逆らえばたとえ願証寺の一家衆でも破門されかねないのは事実だ」

「破門されたら村八分にされ、行く先々にお触れが回って流れ者としてさすらった末にのたれ死ぬのが見えていますもの」

「坊主も門徒も怖いのだ、野糞を垂れ流しながら死ぬことが」

「またそんな口から出まかせを」と言って元夫を軽く睨んだお小夜。「とにかくこの世に居場所が無くなることは想像しただけでも身がすくむほど怖いこと」

お小夜をこれほど怖がらせるものに対して無力な元夫。何処にも居場所がない恐怖。何ものにも属していない恐怖。恐怖が人を支配したくなる誘惑を刺激するのだ、情けなさに怒りがこみ上げてきた冶重郎が青臭いことを言った。

如来は何処に行ったのだ。流れ流れて行き倒れ生きた印の悪臭を放ち野に朽ち大地の肥やしになり川に漂い海に流れ魚の餌になるのが当たり前だから死ぬことも人の目も恐れることがない誰にでも居場所があった自在な川内から狭い村落の中で身の置き所が無くなる村八分の恐怖と死んでも人の目に怯える萎縮した川内になったのは!」

いまどき流行らない少年でも言わないような台詞を口にする元夫を久しぶりに目にして少女のように紅潮したお小夜。苦労をしていない後ろめたさが言わせるのでしょうが、後ろめたさを感じる感性が好きだった記憶と繋がって思い出した。

息が絶えると同時に肉体が消滅するなら、生きることも死ぬことも恐れることは無いそれこそ極楽なのだから、煩悩の済度よりも息の絶えた肉体を摂取してくれるほうが人にとっては有難いことに何時か如来様が気付いてくれる日がくることを信じていた幸せなときがこの川内にはあったのだ、と父が言っていたことを……。

  *

紅潮したお小夜を見て我に返った冶重郎が言った。

「川内と対決して血が流れることは三郎さまも望まない」

「うわさでは京に行かれたとか。しかも公方様になる方を奉じて! でもアナタは京に行かなくてもよろしいのですか?」と言うお小夜。

「いいのだ、わたしの仕事は京より川内だ」と答えた冶重郎。

「やっぱりアナタにとって川内は仕事の場。わたしとの生活で楽しいことは、楽しい思い出は、何も無かったと違います」と首をかしげたお小夜。

「そんなことはない、包丁を使う楽しさも覚えたし日々新鮮だった」

「あの暑い夏の日の夕方、庫裏の奥の小部屋の出来事もですか」

「朝、お前の顔が来いと言っていた」

「きっと来ると思いました。だから親しい坊さんにあなたの悪口を散々言って、あなたから別れ話が出るようにお芝居してもらったの」びっくりしたでしょうと言うお小夜にびっくりしたと素直に肯く冶重郎。「そんな気がしたが、訳がわからなかった」

「三郎信秀さまから何度も便りが来たの、そろそろ冶重郎を返してくれって。こっちがあんまり居心地よくてあなたが帰ってこなくなるのを心配したみたい」

「勝手な話しだ、人をあっちにやったりこっちにやったり」

「あなたを帰したく無かったので直接言ってくださいと申し上げたのですが……あのとき子供が、あなたの子供なのに疑うだろうし、どうしていいのか分からず在所に……でも流産してしまい、あなたも帰る気配がないのでこのままでと思ったけど……」

体調が思わしくないことをそれとなく伝える思ってもいない気弱な手紙が届き、帰そうと決心して帰したのに間もなく死んでしまった三郎信秀。

  *

清く切ない思い出がお小夜の脳裏をめぐり、「勝幡城の近くのお寺に十二歳になったわたしが葬儀のお手伝いに行ったとき列席していた信秀さまのお目に……」と言った。

「へえっそれは知らなかった、見初められたのだ」

「雨漏りがするお寺の修理と新しい医療の道具やお薬を揃えたがっていた父の顔が浮かびそれを条件に三年の約束で御側に。格好いいでしょう三郎信秀さま。影があるの何故だか分からないけど。頭抜けた能力も包容力もある明るい男の秘められた影に魅かれ幸せだった三年があっという間に過ぎて現われたのがあなた」

 

「ふむっ災難だったな兄貴とは間逆の冴えない俺で。知っていたのだろう俺のことわ」

「知っていました。でもモチロン知っていたでしょうわたしのこと」

「知っていた、しかし名前までは……」

「嫌だったでしょう、お下がりなんて!」

「――今だから言うが俺のほうが先客なのだ。お前とは兄妹ともお下がり同士ともいえる」

「えっ本当?嘘でしょう!なぜ言ってくれなかったのです」

「知っていると思って言わなかったが、言うべきだった」

「わたしのこと本当に好きでしたの?」

「それはそうだお前の笑顔に……しかしお前も兄貴の居室で顔を合わせたとき、断ろうとおもえば断れたはずだが……」

「好きでしたから、遠目にもわかるほど二人に慕われている貴方が」

「そうか……ところで川内を出る気はないのか?」

「さっき言ったように、年老いた父と跡継ぎの無いお寺が心配」

「華子とそのことで話しをしないのか?」

「今度の区切りで若い元気な坊さんをひっかけて寺を継ぎなさいって冗談に言ったけど、あんな貧乏寺なんかってその気はないみたい。確かに小さな島だし、これからの川内自体あまり希望が持てない気がしてわたしも強くは奨められないの」

「迷っているのだなこれからのこと、当然だ」

もっともらしい台詞でもっともらしい父親顔になった男をからかいたくなったお小夜。

「いっそ縒りを戻してあなたが坊さんになって寺を継ぎません?」

と言って覗きこむお小夜に不意を衝かれ動揺した冶重郎。

「冗談ですよびっくりしちゃって!」ふっふっふっと笑うお小夜の声にかぶり、「ごめんなすって」と玄関から中を窺っている風をかきわけ源次郎が顔を出した。

あっ、忘れていたのを笑って取り繕った冶重郎。

「今晩は此処に、明日は森島に行くがその先はハッキリしないので迎えは結構、世話をかけた」と言って頭を下げる冶重郎に、「お徳さんには四六時中誰か付けるから」と言って源次郎が笑顔を見せ、安心してゆっくりしろと気づかう知恩寺で朝日が当たる輿の脇に片膝ついて控えていたこの男に声を掛け、すっと輿に乗り込んだまばゆい花嫁が少女になって輿から降り、尾張の青い空を見上げた真っ白いおとがいが目の奥で揺れた。おれが死んでもまばゆい花嫁はむろん泣かないだろう。少女は?少女はおれのことを覚えてもいないだろう。お小夜は?お小夜は笑って送ってくれそうだ。

   *

《同じ九月二十六日の朝入京した織田勢は洛南の東寺と東福寺に陣を構え、町衆が心配した濫暴狼藉は普段の厳しい統制に由って杞憂に過ぎなかった同じ日、細川藤考の先導で入洛した足利義昭は駆けつけた足利家譜代の臣に囲まれ洛東の清水寺に旗印を立てた》

  *

その前九月十三日。

上洛途上の障害、南近江を支配する六角承禎が説得に応じないので駆逐し、観音寺城の物見櫓に上った信長を囲む近臣たちの中に浅井長政もいた。

「この辺りの小山に城を築き琵琶湖を眺めて暮らすのが夢だ」

と言う信長に心配顔になった近臣たち。

「これからというのにもう隠居されることをお考えですか?」

「夢は、この琵琶湖を結んで大坂の海と敦賀の海に通じる大船でも通れる水路を創り、大陸や朝鮮に往来する船と、大海に乗り出していく船があふれている光景だ」

「それでここに城を!水路を!」

とうてい無理な話だと顔を見合す近臣たちと残念そうな信長。

「城は出来るが、水路は高低差がきつく小船なら何とか成るが大船はいささか難しい」

「出来たとしても途方も無い大工事、今はもうあきらめられました?」

「あきらめていない。遠い海の向こうバテレンの国の技は目を瞠るものがあるらしい」

「ひょっとして、上洛したかった真の心はそのあたりに……」

真の心は馬にあった。こちらの馬が子馬に見えるほど大きいらしいあちらの馬に乗ってみたい心がバテレンに近づくため上洛させたともいえる。

「この国が他の国に伍していくためにはバテレンを通じて海の向こうの事情や優れた技術や制度を取り入れる必要がある。彼の国々がよからぬ事を企んでいることは分かっているが怖がってばかりいては何も始まらない、そうだろう新九郎どの」

と言う信長のあちらの馬に乗って見たいという子供じみた思いを隠すためのもっともらしい言い種に首をかしげた長政。かつて琵琶湖をどうしたいのだと信長が言ったことを思いだした。

「兄上は琵琶湖を二倍にも三倍にもするおつもりですか?」

「琵琶湖を? 何のことだ誰がそんなことを、ひょっとして市蝶が言ったのか?。妹は口から出まかせを言う癖がある、まともに聞いていたら馬鹿を見るぞ」

「しかし浅井の田畑が湖底に……」

「そんな戯けたことをする気は毛頭ないが、何時までも自分の領地や想いに拘っているとしまいには身動きが取れなくなるから気をつけたほうがいい」

と言う信長に

備前殿の思い違いで琵琶湖を大きくしたいわけではないのだから心配には及ばぬ。三郎様は琵琶湖全体を巨大な港にして世界に討って出られるつもりだ」

木下藤吉郎が言った

「討っては出ない間違えるな藤吉郎、交易と交流だ。此処から出て行く船と入ってくる船が世界中の旗を比良下ろしの風にはためかせ賑わうのを天守から眺めるのが夢だ」

  *

そんな戯言が櫓の上で交わされる前。秀吉軍の一翼、蜂須賀勢の小六のもとに早馬で届いた文を一読。

「墨俣に大事な用が出来た、入京までに必ず戻ってくるから」

と理由もいわず唖然とする秀吉に一礼。

苦手な馬に跨り唯一騎、乗り換えの馬を曳き墨俣目指して無我夢中で駆ける小六。三日後に冶重郎が立ち会って婚礼がおこなわれた。

 

「あなたの肌に抱かれたら過去を思い出しそう。思い出した途端わたしの首は飛びますがそれでも抱きますか」と記憶を失った女に言われ、

知恩寺の巨木の下でお徳を抱きしめたようにぎゅっと抱きしめて言った。

「こまった筋書きだ」