二条館②

永禄十二年(1569)冬十月初め。

三郎信長の目を初めてまともに見たお菊。

二条館の客間の前で伏して信長を迎えたお菊に、「お菊か顔を上げよ」と信長が初めて声を掛けた。ハイと仰ぎ見たお菊の目が三郎信長の目と合い、(ああっ男たらしなのだ)と分かった。男が、コノ男なら自分の言うことを親身になって聞いてくれるに違いないと錯覚するような(男たらし)の目をしていた。この世にそんな甘っちょろい話は無いし三郎信長にそんな器量も気もさらさらないのだがにじみ出るものはしかたがない。

本気で怒る義昭を初めて見たお菊。

当惑顔でそそくさと帰る信長を心配顔で見送ったお菊が客間に戻り、義昭の直ぐ前の青畳に転がっている皺わくちゃに丸められた一枚の紙をかがんで拾った。

「もういらないのですか、いらないなら捨てます」としわくちゃな紙を丁寧にのばしながらお菊が言うと、「待て捨てるな、将軍をないがしろにする五か条の条書の下書きだ、今一度読んでみるお前も読んでみよ」と義昭が言ったので五か条が書かれた下書きを読んだお菊が、「そんなに怒るほどのことですか」と言って怪訝そうに義昭を見た。

伊勢を平定したついでに伊勢神宮に参詣し、岐阜には帰らずわずかな供を連れ千草越えで入京した次の日に二条館を訪ねた信長が、将軍の権限委譲を促す条書の下書きを自ら持参して直接示した誠意も、一読して平静を失った義昭には通じなかった。

信長の目に裏切られたと勝手に思ってカッとなったことはすぐに収まったが、信長に甘えていた姿をお菊に見られてしまったと思い、恥ずかしくてたまらない義昭が、「もういい下賎な女には分からん」と我を忘れ罪も無いお菊に八つ当たり。

八つ当たりなのは分かっていたが、このところ閨での熱の無さにいささか腹を立てていたお菊が、「あら下賎な女でわるうございました。下賎な女がお側にいてはお身が穢れましょうからおいとまいたします」と冷静に言うといっそう激昂し、「さっさとどこえでも行ってしまえ」という義昭の怒声を背に、さっさと琵琶湖に発ったお菊。