禁裏①

まさかそんなことはありえないと思ったことが信じられない早さでお菊のもとまで伝えられたのは岐阜から京に駆けお上に懇請したのが信長自身だったから。

永禄十二年(1569)冬十月二十一日。

「まえぶれも無く来るのは以前と同じ、イラチなそこもとらしい」

と言う正親町天皇にいささか恐縮しながら信長が手紙を差し出した。

「とりあえず妹からの手紙をご覧ください」

二人だけで向き合うのは永禄六年(一五六三)以来六年ぶり。

手順は踏まず何箇所かで袖の下を使って清涼殿に辿り着いたのはあの時と同じで、雨漏りに悩む昼御座で会ったのもあの時と同じだった。

「ほおっなるほど。ばかばかしい話だが織田弾正忠直々に持参したとなれば無下に無視するわけにも……それにしても義昭将軍は手間の掛かる人」と天皇が言った。

「義昭将軍を動かすのはなかなか手間が掛かりますが、お上に意思が通じるのはもっと手間が掛かります。出した手紙が届くのかも怪しい」と信長が言った。

「慌てないことだそういう歴史を通ってきた」と天皇が言った。

「その間に意味不明になり消えてしまうことが多すぎます。逆に突然意味を持ったりして歴史とはやっかいなものです」と言いながら実に厄介なものだと改めて思った信長。

「それが歴史というもの、それが生きてきた証し」

「これまでは、しかし……」

「しかし? 焦らないことだ。六年前、風化し始めた殿舎を見て、風化し始めた高御座を見てそなたが言ったではないか必要なものは残ると。苛うそなたが五か条の案文を示したのは将軍をないがしろにする気はないが手間を掛けたくないから?」

「もうお耳に。察するに二条館にも禁裏の手のものが」

「将軍とは絶えず連絡を密にしている」

「その密な将軍義昭とこの弾正忠信長とではどちらに重きを措かれておられる?」

「言うまでも無く征夷大将軍! 弾正忠職は殿上にも上れない下級職」

「では足利義昭織田信長でわ?」

「痩せても足利は名門中の名門。かたやそこもとの織田は今では衰退したとはいえ足利家と同格だった斯波氏の数いる守護代の其のまた下の数知れない奉行職の一人」

「ならば義昭と信長でわ?」と問う信長に、「それは好み」と答える天皇

「好み?個の人としては好みでしょうが重きはどちらに?」

 

要は好みだと言って目を細めた正親町天皇

信長の目を見るときには何時も目を細めるのだった。好みといえばーー。

「先日、村井貞勝明智光秀という名の男を連れて挨拶に来た」

「ほおぅ光秀が、何用で?」

「暦を、ポルトガル語で書かれた暦を持ってきた。月ではなく太陽を基にした本邦のキリスタンも使っているという暦を。澄んだ眸に不釣合いな嗄れ声の面白い雰囲気の男」

「それはまだ此処に?」と暦の重要性を知っている信長が訊いた。

「持って帰った」と言う正親町天皇の光秀にも似て非な不思議な雰囲気。

「光秀はお上の好み?」

「不思議な男。まだ身の寄せ所が決まっていないとか……」

にわかに風が出て殿舎がきしむ音を二人の男は聴いた。天井を見上げた信長が、「改修は年明けから、むろん此処の雨漏りも」と言うと頷いた天皇が言った。

「雨漏りの雫はすでに朕が母の胎内で聞いた五十年前から殿舎を穿ち続けている。出会ったことが雫のシミにすぎなかったとはお互い思われたくないではないか。今はまだこの国の行く方にそなたがどういう筋書きを描いているのか定かでは……」

「ないが匹夫がじたばたすることではないと、恐れ入ります。ではとりあえず命令文はお上の手のもので速やかに届けていただくということで、よろしいですね」