二条館③

岐阜に早馬を出してからそれこそ電光のように伝令が飛び交い信じられないが半月後に迎えの書状が緒上に届き即小谷に。その早さに驚きながら準備万端堅田衆が用意した自慢の速舟を連ね、比良の頂に輝く雪を眺めながら坂本まで琵琶湖を一気に縦断。ぬかり無く出迎えた光秀に手を取られ下船したお市の方、次の日には京に入っていた。

永禄十二年(1569)冬十一月初め。

若い侍女のお晶を従え広間に現れた将軍義昭。

お上の命令なら仕方がないと迎えをだしたお菊にくっ付いてこんなに早くこんなに大勢くるとは思わなかったのでびっくりしたが中でも、浅井長政室で織田信長の妹という危険な地位にまったく無頓着なお市の方の様子に仰天した。

明るく無邪気とも見える仕種や鷹揚な振舞いにも抑えきれない成熟した色香がにじみ出て挨拶だけはした一乗谷でも小谷までの途中にも気にはなったが……おりにふれお菊から聞いて笑っていた長政の妻に対する執着ぶりを笑えなくなった。

「小谷の方さまです」とお菊が言った。

「お初ではございませんが改めまして浅井備前守の妻市蝶です。大勢で押し掛けびっくりされたでしょう。お菊どのから公方様のやさしさを聞き、他に都のツテも無し甘えて見ようと厚かましくもやってきました。しばらくの間よろしく御願い申します」

ニッコリ笑って優雅に頭を下げたエロさは無敵なのだ。 此処に来たときから気安かった奥女中取締りの絵島までそわそわしたので笑いをこらえるお菊。

 

「よく来られた京は初めてかな?」と唾を飲み込んだ義昭が訊いた。

「京には以前、もう大昔に一年ほど行儀見習いで居たことがあります」

と言う市蝶に「わたしが奈良にいたころだったら会うことはなかったのだ」と義昭。

「お会いできなくて残念でした」と言って思わせぶりなそぶりをみせた市蝶。

「わたしもだ」と言った義昭公の喉仏が動いた。

「水をお持ちしましょうか公方様」とお菊が言った。

「いらん」と言った征夷大将軍の喉仏がまたまた動いた。

「浅井家には一乗谷以前からなにかと世話になった。こられたわけは訊かん。あいにく京は荒れてはいるが好きなだけ逗留したらいい」と鷹揚さを見せた義昭。

ありがとうございますと深く頭を下げたお市の方が、「お菊どのみなさんを公方様に」と促し、「はい、かしこまりました」と慇懃に頭を下げたお菊。

側用人田屋市之介 妻お藍 侍女お麻

浅井長政側室お豊 侍女お貞

小谷の方侍女 お香 お福

浅井家家臣八人

家臣も侍女も一人一人普通なら目通りもかなわない身分の者までこの際だからといつもはアッサリしているお菊がことさら丁寧に庭に控える小者まで「吾助です」と指した。

 

困惑した義昭が「気兼ねなく」と一言残してお晶を従えそそくさと奥に引っ込んでしまったのは留守の間にあの若い侍女に手を付けてしまった引け目に違いないが、引け目に思うことは無いのに感じる素振りを見せた義昭がなんかまた好きになったお菊。

義昭公が退席してほっとした空気が漂った。

いつもは留守居だが今回は是非と頑張り嬉しそうなお香に比べ、お豊の元気が無いのは明日帰る予定の市之介と一緒に戻ることが条件だったからだ。

しかし、あのときは長政の手前そういうことになったが、此処まで来て明日帰るなんてあまりのことなので、「しばらくゆっくりしたらいかがです市之介どの」と勧めるお市の方に、「そうしましょうか」と思案する間もなくあっさり同意した市之介。

とたんにニコニコ顔になったお豊とお貞の様子に、「よかったね」とみんなが口々に言ったので気が緩み(お腹がすきました)と訴える女たち。

そんな無作法な行為にも表情を変えず、「まもなく食事の用意ができますからそれまで別室でおくつろぎください」と声をかけた奥女中絵島に畳んだ懐紙が渡され、大人数の逗留日数が増えて渋くなった顔の目の前を大っぴらに通ったお捻りに(田舎ものが)といっそう渋くなった執事の前に(当座の分ですお納めください)と滞在費が裸で置かれ、直接手渡す非礼さに顰めた眉が少なからぬ額にひそっと下がった。