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一夜城 ①
永禄九年(1566)秋八月十六日。
墨俣の砦に水を滴らせた馬二頭。
先頭の白馬が小六を認めピシッと止まった。
アッ於市御前だ!
於市御前に違いない! 初めて見るがすぐ分かった小六。
「織田弾正忠殿はいずれに、妹市蝶ただいま参上」
芝居がかったエロさが馬上から降り注いだ。
続く二頭目の馬から素早く下りた乗馬着姿の女が、いつの間にか小六の動きを抑える位置にいるではないか。
唖然とした小六の目に女の濡れた腰の小太刀。
「お取次ぎを」
女の声が気持ちよく小六を打ち抜き正面から目が合った。
下馬する市姫の気配に、
顔は市姫に向けたが目は離れず横目になった女。
呆然と不動金縛りにあったように身動きできない小六。
横目の女の、
不気味に輝く瞳の底知れなく深い闇に、あっという間もなく吸い込まれてしまった小六は何故か、この女を幸せにしたい想いに駆られてしまった。
目ざとく駆けつけたのが木下秀吉。
いつでもどこでも、愛嬌のあるねずみ顔で終始周りに気を配る秀吉。
作事奉行になった今年の正月。
新年の宴に始めて列席を許され、筆頭小姓菊丸に木下秀吉どのと紹介され、上げた顔を見た市蝶が、(秀吉殿はよい愛想笑いをなさる)と言って悪戯っぽく笑ったので信長もつられて笑い、満座がほんわかした雰囲気に包まれた。
それ以来市姫にぞっこんと言う。
*
尾張と京都の間には、容易には越えられない鈴鹿山地が南北に連なり、南の端の鈴鹿峠を超えて京へ向う東海道より、北の端の関が原を通る東山道の方が、冬の雪深さを除けば行き来し易いので、墨俣に砦が築かれたと言われているが実は、聖徳寺から大垣を経て嫁ぐ予定の市姫が、日課として必ず昼寝を取ることを知った秀吉の進言、美濃攻めの拠点を墨俣に築くと言う、もっともらしい口実を信長が笑って頷き、一夜ででっち上げられた、お昼寝用の砦もどきだったのだ。
まあ一夜でできたわけではないが、ゴロがいいから一夜城。
*
浅井長政との結婚が決まって二年。
市蝶の我侭で延び延びになっていたのだが、近々嫁ぐに違いないと直感した秀吉の勘に、なるほどと感心しながら許可した手前、様子が気になり来ていた信長が、怖い顔して妹市蝶に近づき、
「おんなの来るところではない、帰れ」と大きな声を出しさらに「わけの分からん我侭言って延ばした挙句、三十になる前に嫁ぎたいなどと勝手なことをほざきよって、しかも馬に乗ってだと、ふざけるのも休み休みに言え」
と言って怖い顔で市蝶を睨みつけた。
まあっこわいお顔と震えて見せたが、
「歳のことを言うと姉上に嫌われますよ」と笑って市蝶が言った。
「帰蝶は関係ない、帰れ」
と言いながら濡れた乗馬袴に気づいた信長。
「おまえ馬で墨俣川を渡って来たのか! 正気か」
と呆れた顔で言った。
でもと市蝶が「馬で渡れる浅瀬をお徳が知っていたとしても不思議には思わないでしょう」と言うと、お徳の名が出て信長の表情が変わった。
それを見て面白そうに笑った市蝶が、
「ところで帰蝶どのですかここに砦を築かせたのは?」
と妹市蝶が訊くと、
「ばかなそんなこと帰蝶にイクサのことは分からん」
と信長チョットあわてた感じ。
「でも駿河の方を迎え討ったあのとき、清洲から熱田まで初代五郎丸の轡を取って闇を疾走したのは姉上。そして熱田で夜が明けたそのあと、熱田から狭間まで轡を取って兄上を導いたのはお徳」
と言われ戸惑う兄信長の耳元に口を寄せた市蝶が、
「朝倉の一乗谷にお徳と行かなくてはならない訳があるのです」と声を潜め、「今からそのわけを申します」と言った。
「満開の桜花が呼んでいるのは朝倉の一乗谷なの。先の夜、首だけの勘十郎信行様が枕元に現われ、びっくりしているわたくしに、(市蝶殿の輿入り今年の内にしてもらえないだろうか)とおっしゃるので、どうしてですかと訊ねると涙をはらはらと流し、(あれから九年経つのにこの通りまだ成仏できずあの世とこの世の間をさまよっているのです。市蝶殿が今年中に輿入りし、来年桜の咲く頃にお徳と一緒に一乗谷に行ってもらえればわたしは成仏できるのです)と言ってまた涙をはらはらと流したのです。腑に落ちないこと、なぜわたくしが来年桜の咲く頃にお徳と一乗谷え行けば成仏できるのですかと訊きますと、(それがわたしの定めなのです、逆らえない定めなのです)と言って当て所も無く漂う首を見兼ねこうして兄上にお願いしている訳です」ともっともらしく言った。
呆れた信長。
訳の分からない好い加減なことを言っているこの女は、普段の市蝶なのかそれとも時々出てくる於市なのか判断が付きかねた信長。
忘れていた九年前のことまで言われ、嫌な顔をした信長の切れ長の目が、乗馬着姿のお徳を捉えて碧く輝き、五年前の馬競べを思い出した。
【前の年(永禄三年)駿河の冶部大輔殿を迎え討ちホッとして馬競べに熱中。競う者がいなくなったのでかねてより何度呼んでも来なかった馬自慢の妹市蝶に声をかけたら、気が変わったのか今度は内藤冶重郎とお徳も連れてやって来た。オレの子に違いないのに子供が生まれてから何故かオレを避けるようになったお徳。傍に居ることを望む俺を頑なに拒否したお徳。いまもオレの顔を見ようともしないので何でだと腹を立てながら首をひねっていたら、足慣らしをしていた市蝶の愛馬白竜が足を痛めてしまった。急遽代わりに気は荒いが走るのは誰にも負けない四郎嵐を薦めたが他の馬には全く乗る気の無い妹。いまさらやめる気はないオレ。互いに譲らず九年前に起きた清洲城の奥の間を思わせるただならぬ雰囲気が漂い困った冶重郎が、「お市さまに代わって三郎さまと」とお徳に乗るように言ったが(そんなこと……)と尻込みするお徳。しかし、(お徳と馬競べ?)バカバカしいとそっぽを向いたオレを見て、(わたしに負けるのが怖いのですか)とお徳が笑いながら言い放ったので(なにお)とムキになったオレが負けた】
「供は馬の達者なあの女か」
と言った信長の碧く輝く眸が黒い眸に変わり、「武家の馬は凶暴で見境なく咬む、気をつけて帰れ」と心配そうに言った。
お徳をあの女と言ったとき、
兄信長の眸が碧く輝いたのを改めて記憶した市蝶。
かつて偽りの花嫁姿で(輿に乗って輿入れは一度っきり)と言ったのは、信長に一目ぼれした女心として言ったのに、妹としてしか見てくれないのが悲しく、今度の縁談も兄の保身のために違いないのでちょっと意地悪して延ばしていたけど、好きな気持は変わりない市蝶。
お徳から白竜の手綱を取った市蝶。
「嫁にまいります。ごきげんよう」ときっぱり兄信長に言った。
頃合いを図っていた秀吉。
よい愛想笑いを浮かべて近付いてきた秀吉に機嫌よく肯いた市蝶。
髭面の男にも笑顔を見せて市蝶、
ヒラリと跨りヒラッと跨ったお徳を従えびゆーんと宙を飛んで行った。
女はかっこいい男はかっこ悪い
低頭して見送る小柄な秀吉の横でぽかんと口を開けた髭面の男蜂須賀彦右衛門正勝、通称小六は急いでアノ女の噂を集めようと大柄な体を奮わせた。
その後幾度か書状のやりとりがあり結局、
於市御前の世話役内藤冶重郎と信長の近臣島田秀満が揃って小谷の城に出むいて頭をさげ、せっかく花嫁を迎えるために新築した姫屋敷が古家になってしまうことを心配していらいらしていた浅井の事情にも合い、受け入れが決まったのが閏八月二十一日。とりあえず輿入りして婚礼は来春という、時代にふさわしく花嫁の性格にもふさわしい好い加減な筋書きでシャンシャンと決着した。