清洲城

永禄九年(1566)九月十三日。

二年前、三郎信長が小牧城に移ったので清洲城に入った市蝶。

信長の寝室をそのまま使っている市蝶の寝室は、開けられた蔀から差し込んだ十三夜の月明かりで、文が読めるほど明るかった。

いつもではないけど、どちらかが気が向けば、片方もその気になり、布団を並べて寝ることもあり、九月も半ばになりちょっと寒くなったので、掛け布団をたくし上げるようにして首をすくめている市蝶とお徳。

三郎信長の匂いを嗅げると思い勇んで勝幡城から移ってはや二年。

三郎さまの匂いはおろか、痕跡さえも無くなった此処とはもうお別れだわと思いながら、「今夜は明るいから帰蝶殿が覗きに来る心配はありませんね、お徳」と、思わせ振りなことを市蝶が言った。

時として闇を突き聖徳寺から駆けてくる帰蝶

「覗きになんて、そんなつもりで来られるわけはありません」

とお徳が素っ気なく言ったのは息子のことが気がかりだったから。

輿入れの日取りも決まり、荒子の前田家に預けているまだ幼い息子。

もう何年も会っていない息子。

輿入れ行列と一緒に連れて行くわけにはいかない息子を小谷に連れて行くのはどうしたら良いかだった。

お徳の様子にうなずいた市蝶。

「お前の気がかりが子供のことなのは分かっているのよ、お徳」

と言いもって布団から上体をもたげた市蝶。

「三郎さまの血を引くお前の蝉法師は間違いなく弘治元年(1555)生まれですが、同じ三郎さまの血を引く生駒吉乃殿の奇妙丸が同じ年と言うのは、吉乃殿の夫土田弥平次殿が戦死したのが弘治二年(1556)九月なので無理があります。ちなみに、奇妙丸が弘治三年(1557)生まれとするなら、三郎さまと吉乃殿との間に弘治二年 (1556) 九月から永禄元年 1558) 三月までの最長十八ヶ月間に奇妙丸と弟の茶筅丸の二人が生まれたことになり、早産ならともかく辻褄が合いません。でも、馬借を柱に手広く商う生駒屋敷に常々出入りしていた三郎さまと、たまたま実家に帰っていた吉乃殿とが出会い出来た子が奇妙丸なら、元年でも二年でも三年でも辻褄は合います。奇妙丸の父親が誰かは格好な噂話ですが、跡継ぎの話になると、ことさら血筋の正当性を問われ不義が蒸し返され心を惑わされる。蝉法師を預けている前田の家から怪しい影の報せが度々。鬱陶しいだけなら我慢すればすむことですが吉乃殿がこの五月に亡くなられ、いっそう影が激しくなって来たと言う報せ。こちらに引き取って一緒に暮らせばと薦めてもお前は頑なに承知せず、わたくしは前田の迷惑を考え気が気ではありません。輿入れも三十路になる前の潮時。勘十郎君の首がどうとか、朝倉の一乗谷がどうとかとか並べ立て、兄上を怒らせましたがとりあえず小谷への避難はなります」

と言って一息ついた市蝶が布団の上に正座したので、市蝶の訳の分からない長広舌はほとんど聞いていなかったお徳も倣って正座した。

しかしお徳の子供のことは別にして、さしあたり市蝶にとって一番の気がかりは侍女のことだった。

「住み慣れた尾張を離れる決心をするのは容易なことではありません。お前を慕っているお福は心配ないでしょうけど、お香は小谷に来てくれるかしら?」

嫌々ではなく喜んで来て欲しいと思っている市姫が心配顔で、「一番気が置けないお香は傍に居てほしいの」と呟やいた。

でも、もういい年のお香がまだおぼこなのは、お市さまに惹かれているからに違いないと思っているお徳は、「心配することはありません、きっと喜んでお市さまに付いて小谷に来ると思います」と言った。

そうならいいのですが、とちょっと安心した表情を見せた市蝶が、「お春に会えなくなるのもつらいこと」と言つたが、もし見送りに行けなければ輿入れの途中どこかで必ず会いに行くからとの連絡がお春から治重郎に来てはいた。

つまり治重郎が市姫に伝えるのを忘れていたのだ。

そんなことは知らない市蝶。

「それから、長年世話をしてくれた冶重郎どののことはどうしたものでしょう」

「どうしたものと、おっしゃいますと」

と首をかしげたお徳。

「何か、お礼をしたいのですが……」

と市蝶がいたずらっぽそうな顔で言った。

「冶重郎さまは内心お嫁に行って欲しくないのでは!」

と澄まして言ったお徳は、内藤冶重郎が想っているのは、輿から降り尾張の青い空を見上げた十四歳の少女市蝶なのを知っていた。

しかしギリギリだなと治重郎が思ったことはお徳も知らなかった。

そんな治重郎だが、いつもわたしの目を避けているけど嫌われているとは思わないから子供のことは冶重郎さまに相談しようと思ったお徳。

 

内藤冶重郎が顔に似合わない趣味を持っていることは、何となく感じていた市牒だが、何時から持ったのかも知っているに違いないお徳に嫌味を言われたと思った市蝶は、「冶重郎どのがわたくしを想ってお嫁に行ってほしく無いと思っているなら、別れの旅の途中にでも一度くらいコソッと抱かれるのはどうかしら、お礼にならないかしら」とお徳に負けず澄まして言った。

普段は怖がりの市蝶なのに、普段ではない危ないことや面白そうなことはもう一人の於市が不意に出てきてやりたがる。

世話になったお礼だからと誘い、輿入れの途中に肌を合わせるぐらいのことはやりかねないと思っているお徳は、とぼけた顔の内藤冶重郎が少女趣味なのは紅を注された十一歳の時から知っていたので、お市さまに誘われ戸惑う姿を見たくもあり、「お好きなように」と素っ気なく言った。

「まあっ愛想のないこと」

と言ってお徳の手を取り引き寄せた市姫。

「この旅を区切りにきれいな体で出なおしましょう。これがさいご」

と言われちょっとあがらったお徳だけど……