北国街道①

永禄十一年(1568)春二月十日。

明け六つ。一乗谷に総勢二十五人が姫屋敷の前に顔を揃えた。

早朝にもかかわらず見送りに姿を見せた久政。

留守居のお香に抱かれて眠っている茶々姫をチラッと見た久政が、

「娘より一乗谷か」と言ったので微笑んで肯き、

「行かなくては定めですもの、まいります」

と言ってさりげなく冶重郎を窺ったお市の方

一年余り前に比べ顔の表情が様変わりした内藤冶重郎が、

「行こう」とぶすっと言ったのに続いて、

「雪は降らないだろう」と空を見上げて太鼓判の蜂須賀小六

内藤冶重郎の険呑な表情に眉を顰め、

「先は長いから、あんまり張り切るともちませんよ新六郎」と言ったお徳は

前途に難儀が待ち構えている予感に声がくぐもり、初めての旅らしい旅に張り切る息子新六郎を連れて行くことを早くも後悔していた。

そんな雰囲気を突き破るように、

「マトイが無いから寂しいでしょう吾助さん。お菊さんをだっこしたら」

とお福が大声で言ったが、

名前を出されたお菊は、お香に抱かれている茶々姫が誰かに似ているのに気を取られて反応しそこなっていた。

そのお菊の方の同行に反対したのに、

(お菊殿を連れて行きます)

と言う正妻の一言で決まった上にお豊まで来てしまい、見送りにも来ない新九郎さん大丈夫かいなと心配する市之介も人ごとではなく、

いうことを利かない体にしぶしぶ諦めた父孫右衛門のことはさておき、これ以上延ばせない朝倉鏡景の養女との結婚に気が重い一乗谷

 

それにしても久政以外の見送りは小者太平だけ。

太平が来たのは留守中の風呂焚きを吾助に頼まれ嬉しかったから。

そして今までまともに見られなかった冶重郎の目を真っ直ぐ見て、

「だんなさまが死んだらおいが泣くから」

と臆さず言えたのは、死んだら泣いてくれる者がいると思ったらなんか、生きてることが楽になったからだった。

 

頑丈な駄馬八頭に馬丁四人。

人を運べる背負子を背負った強力二人も顔を揃え中間三人と小者三人。

前回痛い目にあった雨具と行程を確かめる旅頭田屋市之介。

一日目は以前長政に誘われた余呉湖畔の正福寺。

二日目は椿坂峠を越え栃の木峠に掛かる山中の難所。

三日目は栃の木峠を越え今庄の龍谷寺。

四日目は今立の西光寺。

五日目は目指す一乗谷の逗留先浄真寺。

  *

初日の足慣らしは平坦な道中で早めに正福寺に着いた。

大小百数十本の河川を受け入れ京.大阪をはじめ幾多の命を支える水を貯える琵琶湖は、瀬田川一川からのみ流れ出て宇治川となり、桂川・木津川と合流し淀川となって大坂湾にそそぐ。

そんな琵琶湖の湖面を高嶺から見下ろしているだけで同じ目線で見たこともないし水に触ったこともなかったお市の方が着いて直ぐ

(水に触りたい)と言いだした。

目の前の余呉湖は琵琶湖ではないけれどとりあえず揃って湖畔に出かけた。

「琵琶湖とは繋がっていませんけど水にさわってみますお市さま!」

とお徳に言われ

こわごわと湖水に触れたが慌てて手を引っ込めたお市の方

「冷たい! こんなに冷たいと泳ぐのは無理でしょう」

と言ってお徳を見た

「雪解け水が混じり始めたからです。無いのでしょう泳いだこと?」

と素っ気なく言うお徳に

「ないけど、泳げるかしらわたくし……」

「さあどうでしょう、でも水に浮くことは間違いありません」

と言うお徳の確信ありげな様子に、

どういうことと首をかしげたお市の方が独り離れそぞろ歩いていた冶重郎を呼んで、「わたくしが水に浮くのは間違いないとお徳が言っていますがどういうことですか?」と真顔で聞いたら傍にいた新六郎が、「太っているからです」と言ったのでマアッと大げさにフクレテ見せたお市の方

まあとにかく湖の水はきれいだが泳げないほど冷たいことがわかり寺に戻って驚いた。中山右門と植木六衛門がそれぞれ若い女性を連れ笑っている。

面倒を見たのは内藤冶重郎。

小谷から帰ってぼおっとしていた二人を丹羽長秀から預かったのはお徳とのこともあったが、信長の周りに人より抜きん出た者ばかりを集めたら、傲慢で世間知らずで自分のことしか考えない集団が出来てしまい碌なことにはならないと思ったからだ。親は重臣だが共に次男で家督は継げず何の得手も力もないのに、イクサに行くのも人に命令されるのも嫌だからふらふらしていた二人を、織田家中から良さそうな年頃の娘を選び、知行地をあたえるからという甘言で結婚させて手元に置き、とりあえず扶持米を与えて佑筆見習や吏遼見習いという使い走り的な半端仕事をさせていたところ今度の一乗谷行きを聞きつけ御供をと申し出て来た。一乗谷までは無理だが小谷までならと昨日は緒上荘に泊まって新婚の湯を楽しんだ二組の若い夫婦が立ち上がっておじぎをした。

  *

二日目は雲がやや多めで雨の心配をしながら出発。

「かわいいお嫁さん!はやく赤ちゃんが出来るといいわね」

とお徳とお福にひやかされ

意味も無く赤くなった二人の夫に疑念を持った二組の若夫婦に見送られ長い真っ直ぐな急坂が目の前に立ちふさがる椿坂峠に向かった。

すれ違う旅人もいない山道

男も女もお市さまも必要に応じ木陰に入って用を足し、お握りを法張りながら好き勝手に歩いていたら、何時の間にか椿坂峠を超え、次の難所栃の木峠に掛かる前何にもない山中の無人の茶屋に着き、正福寺で用意された弁当を食べ、やることもないし次の日に備えそうそうにお市様を真ん中に雑魚寝で寝た。

  *

三日目は天気もよく栃の木峠を越えて越前に入り今庄に向かった。

明るい内に龍谷寺に着くと満開の桜の下で待っていた光秀が

「ご無事にお着きで」と言って迎えた。

「この満開の桜はどういうことだ」

と冶重郎が眉をひそめ光秀に訊いた。

「急に咲き始めてわたしもびっくりしています。きのうまでつぼみは固かったのに。暇だから咲いたわけでもないでしょうが……」

とつまらんことを呟いた光秀が満開の桜花を見上げる市蝶の姿に目を細め、

「本堂にお越しください」と嬉しそうに言った。

あの時も満開だったと思い出しながら市牒が、「あとで光秀殿」

と頷いて足早に庫裏に入っていくのにお豊が従い、庫裏の玄関から中廊下を通ってカワヤに向かったお市の方と付添うお豊。

それを確認したお徳が、お菊とお福に本堂を示し小六に頷いた

お菊とお福が本堂に向かうのを目の端に

中庭にも咲き誇る桜花の下で(何用だ)と首をかしげる小六を見据え

「何も訊かずにここから新六郎を連れて帰ってほしい」

と頼むお徳の目は

虜になった墨俣の砦で見せた深く暗い目とも知恩寺の巨木の下で見つめられた女の濡れた目とも違う母親の目だった。

  *

一方、駄馬で雅な一乗谷を練るのは似合わないと思った光秀。

ピカピカの長持ち六竿を用意した上に、長持ちの横に豪華な姫駕籠とこれも真新しい一本の纏を本堂の外陣にこれ見よがしに並べ、本堂の前には見栄えのいい馬六頭が足を掻き慣らしていた。

それぞれ必要な人数も装束もおこたりない光秀が使った金は相当なものだが……とあきれ顔の冶重郎をしり目に、駄馬から荷駄をおろし本堂の中に運ぶよう馬丁たちに指示した光秀。

 運ばれてきた荷物を、「わたしたちが……」

と本堂に来たお菊とお福が一緒に長持ちに片付けるのを眺めていた市之介。

何時まで一乗谷に滞在するか分からないと思い、必要なくなった駄馬と馬丁と強力を小谷に返すことを決めたところに小六が顔を出した。

 

新六郎を連れて帰るためにここまで来たことをて合点した小六が、

「朝倉にも一乗谷にも用はないし興味も無い。藤吉郎もワシの帰りを待ってるし一乗谷は子供が行く所ではないから新六郎を連れてあした帰る」

ともっともらしいことを言うのを何となく肯いた一同。

小六が帰ることになったので馬が一頭余った。

長持ちから顔を上げたお菊が、

「わたしも馬に乗せてもらえませんか」と言った。

駕籠に乗るはずのお菊だが、

「そう言えばこのごろ新九郎さんと並んで乗っているのをみかけるがなかなか様になっている」と市之介が援護するように言った。

それに乗っかるように

「いいじゃあないか乗れるなら乗ったら、駕籠はお福がお姫様になって乗れ」

とあっさり言った冶重郎本来のいい加減さが露わになった。

「わっわたしがかっ駕籠に? おお姫様に! ダメダメ駄目です、駄目に決まってます」とうろたえるお福は光秀が用意した化粧方に、「試し塗りをしますからこちらに」とむりやり連れて行かれ、庫裏に通じる渡り廊下の方からなおも、ダメダメを連発するお福の声が響き、一同大笑いの中馬に乗れるので喜んでいたお菊までが笑い転げて止まらなくなった。

 

そんなな茶番をよそに

このところ日課の昼寝満足にとれず眠たくてたまらないのに寝られないお市さまをようやく寝かせつけたお徳

お豊を伴い渡り廊下で半泣きのお福とすれ違い、笑いを押し殺し本堂に入ったら、笑い続けるお菊と困惑顔の冶重郎がいた。

呆れ顔になったお徳に、「お市さまはどうされた」と冶重郎が訊き

「お風呂に入られ寝てしまわれました」と答えたお徳。

「それは残念、小六殿の送別も兼ね久しぶりにお相手できたらと思ったが……」

と言う冶重郎の元にも増してとぼけた表情に安心したお徳。

笑いが止まらないお菊を横目にお豊を促し手早く荷物を長持ちに片付けたとき酒席の準備を告げる声を聞いたお徳。

 本堂の外に屯している馬丁や強力に、

「酒席の用意が出来たそうですから皆さま書院の方に、遠慮なく」

と声をかけたお徳が、「案内して差し上げて」とお豊に言った。

本堂の中にいた殿方にも声をかけ見送ったお徳が、笑い止んで長持ちから取り出した乗馬装束を抱えるお菊と渡り廊下から庫裏の座敷に入ると、お姫様姿のお福がちょこんと座っていた。

 

ふっくらした顔がよく似合っているお姫様姿を目にしたお菊が、出立時に見た茶々姫が誰かに似ていると思ったことを思い出し、

「茶々姫のお顔が誰かに似ているけど」と口を滑らせた。

「下手なことをおっしゃると首が飛びますよ」

と言うより早く首を刎ねたがる刃になったお徳の横目に震え上がったお菊。

「わたしはお市さまが好きです」

と必死に言って笑ったお菊の腹の据わり具合に感心したお徳が表情を緩めて明日の仕度を促した。

ホッとしたお菊が乗馬装束をいそいそと着け、「似合いますか」

と科までつくる変わり身の早さに今さらながらだが感心したお徳が、ただならぬ様子に身を縮めていたお福に大丈夫よと頷き、改めてお姫様姿を眺め、

「本当のお姫様みたいだよお福」と褒め

夢が覚めるのを怖がるお福はお菊に預け、小六の目を思い出し書院に向かった。

 

座の一員として酒を飲んだのは初めてだった新六郎。

馬丁たちとも打ち解け直ぐに気持ちがよくなり陽気になったのでいい酒だと肯いた市之介が、若さに任せ調子に乗って過ぎるのを案じ、(もうすこし)と残念そうな新六郎を促し部屋に送っていった。

 

二人を馬丁たちと笑って見送り杯を美味しそうに空ける冶重郎と顔を見合わせ、ひとくちふたくちと飲んだ酒が気持ちよく回ってお徳の目を思い出した小六。

書院をふらっと出た所でお徳と縺れ玄関脇の小部屋に凭れ込んだ。

母親の目ではない知恩寺の巨木の下で見せた濡れた目をしたお徳がぎゅっと抱きつくと小六もぎゅっと抱きしめた。

やがて体温が混じると渡さずに帰るつもりだった一枚の懐紙が何時の間にか肌から肌に渡り汗に滲んだ(益田内膳)という文字が浮き出た。

  *

越前今庄の朝が明け始める。

駄馬を曳く一団の後ろに付いて竜谷寺を後にする小六と新六郎を見送る冶重郎の顔に先走った一条の光が差した。

それから半時が過ぎ竜谷寺の空が明るくなった。

先頭に奴姿の吾助がマトイを掲げ続いてはさみ箱を肩に中間姿の男二人の後ろに馬上の於市と並んで冶重郎。続いてお姫様姿のお福が乗った姫駕籠と脇に付き添うお豊と中間一人。その後ろから馬上の光秀とお菊に続き長持ち六竿。続いて同じく馬上の市之介とお徳。最後尾に借り着の供侍姿が続きややぎくしゃくと出発した。次々に咲く桜花に迎えられ今立の西光寺に到着した行列は早、落ち着いた色香が漂う大人の雰囲気。ここでも桜は満開だった。

準備は万端越前今立の夜がくれ始めいよいよ明日は一乗谷

 

今立の闇をついて触手のような桜花に霊送りされる公達姿のお徳を追う市蝶