姫屋敷③

藤川に泊まった次の日。坂田郡にあり、織田家から花嫁を迎えることに反対していた江北一向衆の中心、福田寺に不穏な動きがあるから護衛してきたと言う部隊は姉川を越えることはなく、一行を見送った曇り空の川沿いを一見散策のように散開していた。

永禄十三年(1570)春二月二十七日

姉川を渡り極楽寺を素通りした一行は草野川に掛かった。

草野川に架かる船橋はあの時のようにギシギシと音を立て、初めて渡る華子は仙千代の手に縋っていたがへっぴり腰の仙千代に業を煮やし、逆に手を引く始末にくすっと笑ったお徳は厚い雲が覆う空を見上げ眉を顰めたが幸い姫屋敷に着くまでもった。

待ちきれずに孫ベエで出迎えたニコニコ顔のお福はますます肥え、姫屋敷で待っていたお市の方をはじめお豊、お藍、遥子に加えお徳にお香に華子、それにお福とずらりと揃った八人の女たちに恐れをなした三人の若者が挨拶もそこそこに館に向かうのを笑って見送り、「新九郎さまにご挨拶を」と言うお徳をさえぎったお市の方

「新九郎さまはお前に興味が無いから慌てて行くことは無い」とわけの分からないことを言ったお市の方は、「馬で来たのですねあの雪のなかで死にそうになった思い出はわたくしの宝です」と馬で来たことをうらやましげに呟いた。

「新九郎様にご挨拶を」と再度伺うお徳が預かった姉帰蝶からの手紙を手に取り、「あの若者が万見仙千代! 姉上の……」感慨深げに若き日の思いに沈んだ。

  *

天文十九年(一五五〇)春一月二十一日。

こそっと美濃を発ち無事京に着いた一行。皇居の南西に在る妙覚寺で身重の姉帰蝶と別れた市蝶は、皇居の北西、町小路の一郭に在る清原邸に父と共に入った。

【天文五年(一五三六)山門衆徒等に襲撃され焼失した法華宗寺院妙覚寺は前々年の天文十七年(一五四八)旧地に復建され、永禄二年(一五五九)初上洛以降、同じ法華宗寺院本能寺と共に入洛時における信長の宿舎になっていた】

四ヵ月後に男児を出産した帰蝶がその半年後の十一月、行儀見習いを終えた市蝶と共に美濃に帰ったのは延ばしていた信長との結婚のためだが、幼い乳呑み児を妙覚寺に預けたのはそのしばらく後に若くして第十九世具足山妙覚寺貫首になった観照院日饒上人は道三の息子、すなわち帰蝶とは腹違いの兄妹と聞かされていたからだった。

「さびしくないの、姉上わ」と気遣いする妹市蝶に、「半年近くもお乳をあげられたから十分。これ以上一緒にいたら可愛くて食べてしまいそうだから」

  *

と言ってわが子を抱きしめた帰蝶の姿を思い出した市蝶。

その何年か後に、「これ以上一緒にいたら可愛くて頚を刎ねてしまいそうだから」と言って前田家に子供を預けたお徳のことも思い出した市蝶。

あけて十四歳になる姉妹が美濃に帰る直前、京の清原邸で市蝶の心を捉え妙覚寺の一塔で帰蝶と向かい合ったイエズス会バテレンフランシスコ・ザビエルの困憊はしているが愛嬌のある顔が市蝶の眼前に永禄十三年(一五七〇)の今不意に浮かんだ。

京から帰った姉帰蝶から黄金の免罪符の意味を聞いた父が、姉に代わって花嫁衣裳を着たわたくしに(もう会えないかも知れないから言っておく。黄金の免罪符が二人の母に埋め込まれ、お前たち姉妹はその血を受け継いだのだ。そしてこれから嫁ぐ織田信長もその血を受け継いでいる。お前たち二人と信長の母親が違うのは明らかだが、父親は同じかもしれないし違うかも知れない)と言ったときの、今までに無い気弱な表情の理由がそのときは分からなかったが……禁断の交わりに近親の交わりそして今また、そんなことがありえるのか? ありえるのだ! 分かってざわざわと市蝶の血が波立った。

 

子供の父親は山本佐内だと言われ疑うまいと思って来たが、姉帰蝶が抱いていた乳飲み子の顔に父道三の中高の顔とさっき初めて会って父に似ていると思った万見仙千代の中高の顔が重なり山本佐内の中窪みの顔が消えた。そして血の気が引いた。

姉上の声が変わったのは……そんな筋書きあってはいけないがそれ以前に……子供が出来たことを知った父が、重ねて犯した人の道に外れた行為を取り繕うため、黄金の免罪符の意味は分からないまま言ったに違いない二人の母のことを記憶していた姉上は、兄上が受け継いだ資格を確信して背中を押したに違いないのだと市蝶は思った。

「そうでしょう、手紙にはなにも書いてないけど」と遥子を見た市蝶が血の気が戻るのを感じながら言った。「知っていましたかお徳、小指の先が無かった父の右足を」

言われたお徳は、色っぽい目をした山本佐内の左足の小指が気になった。

「何のことを話しているのですか?もしかして仙千代さんのこと」と知らないやり取りが行き交う間隙を縫って口をはさんだ華子に、「あらっ華子ちゃん、ちょっとの間に女っぽくなって、三郎さまの次は仙千代どのですか、お盛んなこと」と市蝶が蓮っ葉に嫌味を言ったそのときすうっと雲が走りぱあっと日が射した。

「若い桜が!お徳さん」お福の大声が部屋の空気を弾ませた。

三年前、お徳には来年こそ咲いてみせると意気込んで見えた塀の中の若い桜木が若々しい花びらを咲かせ、塀の外から変わらぬ艶やかな流し目で屋敷を窺っている姥桜と見事に調和してあっという間に晴れ上がった青空一杯に拡がり、すべての怨念を笑い飛ばすように満開に咲き誇った命に共鳴した市蝶の気分がころっと変わった。

「姥桜も頑張って咲いているわ、ねえ遥」と声を弾ませる市蝶。

「本当に! 来年も再来年も五年後も十年後も競って咲いてくれたら浅井は万々歳、織田も万々歳、めでたいことです」と笑顔満開の遥子。

遥子が茶々を入れる気にもならないほどに桜花が種を競って見事に咲いている。

純潔な香りのする桃の節句なのに鮮やかな桜花が猥褻なほど満開なのだ。

一乗谷の姥桜も咲いているかしらと人は聞く。

切り倒される心配も無く咲いているだろうと人は言う。

あとは滅びるしかないと旅人を思わせた一乗谷の出入り口を護って二体の地蔵菩薩が鎮座している。福々しい地蔵様の上を今桜花が舞っているわと若い女の誰かが呟き、その場の雰囲気がお酒を飲む気分になったときすっと長政が姿を見せて言った。

「にぎやかで華やかだな」

足音を聞き損ねあっと畳に手を付いたお徳に手を振った長政。

「挨拶は無用だお徳無事でなにより。男ばかりの花見では殺風景だと思い今年もここでと来てみたが、やっぱり館よりここの桜のほうがきれいだ。豪勢な見送りも帰ったことだしお徳の無事を祝って飲もう。お豊、館の一同を此処に」

いいだろうと言う長政。「もちろんですともあなた。こんなにいい陽気でこんなにいい気分なのですからみんなしてにぎやかに楽しみましょう」と笑った市蝶。

目が回りそうな元亀・天正に突入する四月まであと一ヶ月あまり、何処から見ても誰が見てもうららかな小谷の春。