石山本願寺

永禄十三年(1570)春二月。

本願寺十一世顕如の嫡男茶々丸が数えで十三歳になったのを期に、迷いの此岸から悟りの彼岸に渡る「度」を得るため得度の儀が石山本願寺の本堂でおこなわれた。

剃刀を茶々丸の額に当てた顕如が是生滅法偈陀を唱え、

法名 釋教如 阿弥陀如来に帰命せよ」

答えて茶々丸南無阿弥陀仏

合掌して生まれた釋教如を涙ぐんで見つめる母(如春尼)春子。

立ち上がった教如顕如を見下ろし圧倒する巨體に無駄なく付いた筋肉。

奥儀を極めた数々の武術は習う師もいなくなり読破した万書の知識が形成した風貌と相まっていつ本願寺法主を継いでもおかしくない法衣姿だが(思えば顕如が継職したのが十二歳)生まれる家を間違えたのではないかと思わせるほど法衣より甲冑が似合いそうな巨大な肩幅を誇示する骨太な骨格は母春子から受け継いだ血。

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天文元年(一五三二)八月。法華宗徒主体の暴徒数万人がねたまれるほど繁栄していた山科本願寺とその寺内町を襲い、伽藍・塔頭・坊舎・家屋等をすべて焼き払い(そのため石山えの移転を余儀なくされた)夥しい数の門徒僧侶在家を惨殺した焼き討ち事件の首謀者は管領細川晴元。だがそれからしばらく後になると本願寺の力を必要とするような政治状況に変わり、細川晴元の娘春子を嫡子茶々(顕如)の許婚に押し付けられ、断りたかったが断れずに若くして示寂した十世証如の後を継いだ顕如ものちに、許婚の春子を事件の火付け役六角定頼の子義賢の猶子として抵抗はあったが諸種の事情で妻として受け入れざるを得なくなった。が実は、生まれて直ぐ晴元の養女に出され同時に顕如の許婚にされただけで何の罪もない春子は後に左大臣になった三条公頼の三女なのだ。

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女心が芽生えたある日、自分の肩幅が並外れて立派なことに気付いた春子。

細川晴元正室の長姉にも武田信玄継室の次姉にも見られない体型は隔世遺伝なのかそれとも突然変異なのかは定かでないが、何の因果か年ごとに目立って来た肩幅。

気にしだしたらなおさら気になり、背中を流した新参の女が、「春子さまのお背中は広くて流しがいがあります」とお愛想のつもりで言ったら次の日ひまを出された。

弘治三年(一五五七)四月。花嫁姿の春子を初めて目にし、取っ組み合ったら組み伏せられそうだなと思った光佐の顔が緩み勝ちなのは真に好みの体形だったから。

光佐十五歳春子十四歳、床入り。

ことが済んで恥ずかしさのあまり、ついうっかり背中を向けた新妻の若いすべすべした肌をいとおしげに撫ぜながら、「春子の背中は大きくてはちきれそうで気持ちがいい」と光佐が愛でた瞬間、うっとうめいて嗚咽した春子が驚く光佐をはねのけ、(ちがうんだ)と止める間もなく輝く背中を露わに、裸のまま閨から飛び出してしまった。

それ以来、夫光佐に何を言っても許されると思っている妻春子