間道①

永禄九年 (1566) 九月二十九日

藤川の里は朝から晴天だった。

木下秀吉に手を取られ(お市さまのおぼしめしにかなうよう骨を折ってくれ)と頼まれたのが八月の末。

お市様はともかくあの女の為ならと思った小六が、小六組の郎等を引き連れ、関ケ原を越し近江に入って最初の集落藤川に来ていた。

雲一つない青ぞらに、

「気持ちいい天気だ。関が原も上天気だろう」と小六が言ったら、空を見上げていた里人の弥平が、「雪がくるな」と言った。

「びっくりした小六。

「なぜだ、雲ひとつ無いのに」

と空を見あけて怪訝な小六。

「風に雪のにおいがする」

と言って花をぴくぴくさせた弥平。

「琵琶湖のむこう、海からの風に乗ってやってくる雲がこの辺りから雪雲に変わり、風の通り道関が原で今日はたぶん昼ごろからドカッと落ちる」

と言った弥平がさらに

「もっともドカッときても一時の雪だから動かなければ大丈夫」

と言った弥平が心配そうに

「間道に迷い込んだとき地吹雪が来ると何も見えなくなる。その時うろたえ、やみくもに動いたら間道のさらに間道に迷い込み危ない」と言った。

改めて空を見上げた小六。

そんなことは無いだろうとは思ったが、地形がわずかな距離で空の模様を激変させ、人の行動をも支配してしまうことは知っていた。

「外れそうな分かれが何箇所かある」

と言って弥平がむつかしい顔をしたので心配性な小六血気が引いた。

改めて。尾張と京を隔てて南北に鈴鹿山脈が連なっている。

南の端の鈴鹿峠を越えて京へ行く東海道より、北の端の関が原を通る東山道のほうが行き来し易いのでとりあえず墨俣に拠点の砦を構えたということはお徳も知っていた。しかし雪が深いのが難点だった。

降り出したら一気呵成だ関が原の雪。

その怖さはお徳も知っていた。

幸い雪の心配もなく関が原盆地を無事に抜けた一行は、近江の藤川に向かう街道に入り、細い山道をだらだらと下りはじめた。

しばらく行った先で迷いやすい間道との別れに差し掛かかった。

差しかかったとたん、まるで一行を待っていたかのように、なんと季節はずれの雪がドカッと行列をめがけ落ちてきた。

「雪だ!合羽をお徳」と冶重郎が反射的にさけんだ。

一瞬で辺り一面が真っ白になった。

でも、お徳が周りを見渡すと雪が降っているのは行列の周りだけ。

一瞬幻覚かと思ったお徳。

そうではないと合羽を積んだ駄馬に急ぎ足で向かったとき、嫌な気配を背中に感じ半身向けたお徳のの横目に映ったのは、白竜が後ろ足を蹴上げ、乗っていた市姫がアッと叫んで振り落とされたところだった。

雪が舞い、木狐紋の陣笠が飛び、市姫の形相が変わった。

スパッと抜いて白刃をかざした於市。

ダメと叫んで踵を返したお徳の市女笠が飛んだ。

慌てて下馬した冶重郎も間に合わず、振り下ろされた白刃でズバッと白竜の首が断たれ、噴き出した鮮血が雪を染めた。

「まあっきれい」

と於市さまの喚声が場違いに響いた。

まあっきれいだってよく言うわとあきれたお徳。

それにしても

人の首を刎ねるのは得意だが、馬の首は断ったことがないお徳。漫然と断たれた白竜の首を見ていた視線を外し辺りを見回すお徳。

悲鳴を上げて右往左往するだけの一行を、何とか落ち着かせようとしたお徳が視線を感じ振り向いたら、お徳を見ている山本佐内の姿があった。

またして不覚にもお徳。

山本佐内の姿に気を取られた一瞬、絶たれた白竜の首に驚いたのか、五郎丸が雪を蹴立て来た道を一目散。それにつられ合羽を積んだ駄馬までも、小者太平が持つ手綱を振りほどき、五郎丸を追って遁走。

重なる不手際に一瞬呆然としたがそこは女忍、終わったことと気を取り直したお徳の目に入ったのは、雪まみれで立つ市姫。

握るヤイバの刃文からツウッと垂れ、雪に滲みた潜血に見入る市姫の、固まった右手にハアッと息を吹きかけ、小指を引っ張って小太刀をもぎ取り、血濡れたヤイバを片膝立てた着物の裾で一気に拭き取ったお徳。

白い静寂をチーンと鎺で裂いて鞘に収め帯にすっとさした流れのなかで一瞬の裾の乱れ、黒い脚絆の膝の端から奥にちらっと覗いた真っ白い腿の生足。

見てしまった山本佐内の脳裏に焼き付いた。

 

そんな行為をしながらお徳の横目は見ていた。

五郎丸の後を追って駄馬まで逃げ(合羽がなくては)と呟いた冶重郎が引き返しそうな素振りを見せたのを。

咄嗟にいつの間に作ったのか隠し持った雪ダマを投げたお徳。

さすが忍者。

たまたま西来寺でお徳と目が合った若い侍が隣にいたので手品のように取り出した雪ダマを渡し、横目で促すとしゃにむに投げた。

両手で風車のように雪玉を投げるお徳。

その一つが間道との別れに佇む於市をかすめ爆発した。

間道で爆発した。

爆発した雪玉に引き込まれるように間道に入って行く於市。

まるで定めのような薄い笑みを浮かべる於市に、引きこまれるように続く侍女お香。そのあとを仕方なくふらふらと続く一行。

首をかしげた内藤冶重郎。

雪ダマを投げたお徳を目の端に捕らえていた治重郎は、この雪もこの地吹雪もお前のの幻術では無いかと言わんばかりの表情でお徳を見ていた。

 

とにもかくにも間道に入ってしまった行列。

その一瞬、絵に描いたように前方から襲い掛かってきたひときわ強い風が猛烈に雪を巻き上げ、白い闇に一行の視界が塞がれた。

「きゃあっ」

と嬌声にも聞こえる女たちの悲鳴。

いつものことだが、女に煽られた男たちが闇雲に白い闇を掻き、いく先も定めず列から離れようとする気配がした。

「動くなかたまれ」

と山本佐内が白い闇の中から叫んだ。

それに合わせて治重郎の怒声も響き、とりあえず動くのをやめた一行。

そんなバタバタの中、

体を震わせお徳に縋り付いている市姫。

「お香は浅井に留まるのかしら」

と脈絡もなく市姫が言ったのは恐怖を紛らわせるためだろうがお徳には、「無事に行き着けたら尾張のことは忘れお互いにきれいな体で出直しましょうね、お徳」と行き掛けの駄賃のように言った。

  *

那古野城で初めて迎える元旦の闇を漂い去年(永禄元年/1557)の十一月、清洲城の奥の間で、血塗れた抜き身を握った市蝶さまを、呆然と見ているだけの三郎さまを退け、固まった指を開いてもぎ取り、血の滴る勘十郎君に頬擦りしている身重のわたしから生首を取り上げたのは駆けつけた冶重郎さまだったと、赤子の寝息で思い出したお徳。

三郎さまの心配そうな父親顔も浮かんだのに、勘十郎君のすべすべした肌を懐かしがっている自分が不安になり、お市さまの豊かで暖かな胸に顔を埋めたら安心できるなんて図々しいにも程がないが、時として思い出しぞっとするのは、冷たくなった母との別れと、刎ねた首が高く舞い上がる快感》

  *

風も止んで雪も止み音が止んで時間も止んだが寒さは止まない。

震えながらこのままじっとして小便臭にまみれ凍え死ぬくらいなら、歩いているほうがましなのでよたよた歩き続ける一行。

やがて

遮る濃い霧の中に蠢いていた遠い灯りが急に目の前に現われた。

お市さまの輿入れとお見受けしたが」

と大きな影が大声で言った。

「さよう」

と答えた冶重郎を照らした龕灯がくるりと返り髭面が現れた。

お市様をお迎えにまいった。わしは木下秀吉が手の者蜂須賀正勝、通称小六」

よく通りはっきりした声と龕灯に映える白い歯。

むかし、春の日の木曽川の激流にうねる筏の上で遠くキラリと光った白い輝きの記憶につながり安心した気持が小六の手をぎゅっと握った。

握った手をさらに強く握り

「供頭の内藤冶重郎、遅いぞ」と理不尽に文句を言った。

「すまん」

と言った小六が白い闇を透かし、「見たところ馬がいないがおなご衆はみんな無事か」と不安を露わに女の安否だけを訊いた。

「馬は死んだ。みんな無事だが於市さまは足を痛めている」

と冶重郎が言って市姫を指した。

「無事か!お市様が足を痛めているならかごがある」

と言いもって市姫に寄り添う女を墨俣で出会った女と見定めホッとした小六が後ろの闇に大声で呼んだ。

「源次郎~かごと吾助を前に、かごと吾助を早くここに」

白い闇から町駕籠と若者が現れた。

吾助という名で呼ばれた二十前後の若者。肩幅が異状に広く、着物越しに筋肉の盛り上がりが窺えるほどの異型夫。

「姫様を駕籠え、姫様は足を傷めている」

と言って小六が指差した市姫にすっと近寄っ吾助が、声もかけずいきなり根こそぎ横抱きにふわっとすくい上げた。

(あっと)声を出す間もない市姫。

唖然とする市姫が両手であがらう間も与えず、くクルッと踵を廻した吾助が、まるで赤子を扱うようにかがみこんで駕籠のなかにそっと下ろした。

軽くはない市姫を赤子のように扱う吾助の怪力に治重郎もアングリ。

それを見たにんまりした小六が、お徳にもたれ見るからに弱っているお福が腹下しと聞き、懐から薬らしきものを取り出し素早く飲ませた。

「まあありがとうございます」

お徳に礼を言われ気を良くした小六が吾助を呼んだ。

弱っているなら吾助におぶわせ雪道を下るという小六の算段に、「恥ずかしいからいや」と逃げ腰のお福に笑いをこらえるお徳。

緊急の場合だし「吾助が歩きにくいから」と、あがらうお福にかまわず、吾助の背中にことさらぴったりお福を括り付けお徳を窺う小六。

笑いをこらえながら小六に頷いたお徳。

 

市姫を乗せた駕籠に風雪よけの桐油紙を被せ準備が整った。

小頭源次郎の合図でゆらりと駕籠が持ち上がった。

市蝶もゆらりと揺れ、揺れながら宙に浮いてクルッと回った幼い記憶は、すべてをゆだねる快感と共に常に心の中心にあった。

それはともかく、

抱き上げられたとき間近に見た吾助という若者の碧い眸を改めて記憶した市蝶は、揺れる駕籠の真っ暗な中で、右足首を撫ぜながら、乾いた足袋に履き替えようと奮闘していた。  

「あわてるな、里は近い」

小六の大音声が暮れ始めた山間にこだまし、「寒いのもいま少しの辛抱」と揺れる松明の明かりに揺れる駕籠に向って付け加えお徳を窺った。