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墨俣④
永禄十二年(1569)正月一日。
ズドーンッ、ズドーンッ、ズドーンッ。馬小屋の前で三発の荒き音が響き、新年の祝いもかねて撃った三丁の新しい火縄銃の筒口から煙が燻っている。衝撃の手ごたえとツンザク轟音に興奮を隠せない華子が叫んだ。
「当たった当たったわ」
華子の的の瓢箪だけが粉砕されている。
「まぐれにしてもたいしたものだ」と小六。
「くやしいけどすごいなあ」と新六郎。
馬が一斉に嘶き足を乱している。「馬がびっくりしているけど大丈夫?」と華子が目を見開いて訊いたら、「イクサ場で暴れないように慣らす必要がある」と小六が言い、「音が大きくなったこの鉄砲を馬の前で撃ったのは初めて。筒を頑丈にしたので火薬が多く使えてより速くより遠くに飛んでいくようになったんです」と新六郎が言った。
「さすがに心配性の三郎さまの考えたこと」と小六が言った。
「心配性って何の心配 ?イクサで勝ってばかりいるのに」と首をかしげて華子。
「勝ってばかりでは無いよく負ける。大きな声では言えないが織田弾正忠信長は極め付き臆病な男なのだ」と小六が言ったのでうそっと驚く華子。
「嘘ではない。渡来して間もない鉄砲を実戦で積極的に使い始めたのは三郎さまだが長い槍も同様、遠くで敵を倒したい気持ちがそうさせる。ときとして敵を威嚇する大音声を発して突進することもあるが、それも追い詰められて已む無い火事場のバカ力。武器だけでなく戦略も戦術も用心深い、なにしろ根が臆病だから」
とは言ったが、かつて筏の上で見せた三郎信長の隠れた狂気は感じていた小六。
「ふーん、そのことはみんな知っているの」と華子が訊いた。
「近い者は知っている。遠い者は感じている」と小六が答えた。
「それなのに大将って仰いでいるのは何故なの」と華子が言った。
「何故だか分からない。それが三郎さまの魅力!」
と小六が言って笑ったので華子も笑ってねだった。
「三郎さまにますます会いたくなりました会わせてください」
「近々新六郎の元服をするつもりだ。藤吉いや秀吉殿に烏帽子親を頼んでいるが三郎さまにも声を掛ける。岐阜に居れば必ず来てくれるはずだからそのとき会える」
気になっている新六郎の元服。母親のことがスッキリしてからと思っていたが、何時になるか分からないのでいい加減きりをつけないといけないと思っている小六を窺っていた華子が催促するように言った。「女の元服ってモギって言うの。裳を着ること」
「よく知ってるわねぇ」といいもって顔を出した千代が、「仕度ができましたからみなさん中にどうぞ。なんか大きな音が聞こえましたが?」と首をかしげて微笑んだ。
「当たったのよ鉄砲、お千代さん私だけ。病みつきになりそう」
「おやおや親子で負けているのですか、若い娘さんに」
「稽古して三郎さまに挑んでみたらいい。華子が鉄砲自慢の鼻を折ったら大事件だ」
馬競べの時のようにと心の中でけしかける小六。
*
囲炉裏の前に座った小六に疲れを見た内膳が一献だけと銚子を掲げ、ちょっと戸惑ったが直ぐ受けた杯を躊躇なくとぐいっと飲み干し舅どのもと返杯した小六。
「お千代は見たところ変わりないが」と内膳。
「それがいいのか悪いのか成り行き任せです」と小六。
まがりなりにも肌を合わせた男と腹を痛めた実の子がいつも側にいるのに記憶が戻らないならお市の方でもお福でも冶重郎でも誰が来ても首がとぶ心配は無いのではないかと思いながら何かの拍子に万の万が一という危惧はぬぐえなかった。
「あんたにはすまんが、今のままでと言うのが……」
「心配をかけます。わたしがあの懐紙をお徳に渡したばかりに……」
「とんでもないあのおかげでわしらは生き返った。だからもし千代の記憶が無事にもどったら、記憶がもどったらお徳に戻るのが良いのではないかとお史も言っている。お史はお徳のお陰で元に戻れた。だから記憶が戻ったら遠慮なく……」
渡す渡さないは思惑外の紙一重だったし、なぜあのとき益田内膳の名前を書いたのかも覚えていなかった小六。しかし考えてみれば、一緒に暮らすことは想像すらできない状況だったのだから今一緒に暮らしていることは望外のことと思いながら、何時の間にか飲めるようになった杯を重ねる小六を窺いながら内膳も無言で重ねた。
そんな空気には頓着しない華子が運んできたお雑煮をめいめいの前に置いて(わたしもここで食べよっと)とおぼんを置き座り込んだ。
「いつ元服するの新ちゃん」とひつこく何度も言う華子の魅力的ともいえるノホウズさに以前思ったことを今も思った小六。新ちゃんと呼ぶことを注意すべきか、それとも新六郎に手を出すなと注意すべきかとぐずぐずと思案していた小六は、「いつするの」となおも催促する華子に煽られ、いっそう回った酔いが気を大雑把にした。
「華子に言われたからではないが早いほうがいいだろう。急だがこの七日の七草粥の日にやろう此処で。今なら三郎さまも秀吉も岐阜に居る。よろしいですね舅どの」
「良いも悪いも無い、目出度いことは早いほうが」と破顔した内膳。
「ではお手数ですが舅殿のお手で秀吉どのに案内を一筆。ご存知のようにわたしはすこぶる悪筆なので……」と以前思った不安の数を増やすことにして頼んだ。
酔った勢いの小六。失礼にもほどがあるが三郎様にも伝えてもらうよう書き添え、稲葉山の下、井ノ口改め岐阜に屋敷を構えた木下秀吉に使いを出した。
次の日、楽しかった年末の餅つきのように集まってくれた人に、お餅の入った七草粥を振る舞いたいという元服する息子の母親としてのささやかな想いが伝わり、七草のうち畑にあるスズナとスズシロを除く五種類の野草、セリ・ナズナ・ゴギョウ・ハコベラ・ホトケノザを散歩がてら春の陽が射す長良川の堤にみんなして採りに行った。
*
六日。早朝、京より早馬で伝令書が細川藤考名で信長宛に届いた。
《四日早朝、本圀寺に三好勢来襲。交戦中》
七日、快晴。まだ前髪姿で笑みを浮かべた大柄な奇妙丸を信長の後に認め、奥の方の頼みを思い出した。本当に奇妙丸に逢いたいのか? 今一度考えてみようと思った冶重郎をよそに、新六郎の元服のために集まってくれた大勢の人に、お屠蘇とお餅入りの七草粥が振舞われ、春の風はまだ冷たいがほっこりと温まってみんないい気分。
烏帽子親を小六に頼まれその気になっていた木下秀吉を制した信長が、「新六郎の烏帽子親は徳川殿に」と、嫡男信康を連れ新年の挨拶に来ていた徳川家康を指名した。
吃驚した小六が口を挿む間もなく、「徳川殿に烏帽子親を」と重ねて名を指され、秀吉を気にして戸惑う家康から烏帽子子の新六郎に名前の一文字(家)が与えられた。
(すまん)と謝る小六に気にするなと手を振った秀吉の硬い表情とは対照的に、烏帽子を戴いた新六郎に拍手せんばかりの笑顔を見せた奇妙丸を窺う冶重郎。
近臣、武将が集い、陪臣の息子の元服式とは思えない豪華な顔ぶれが普段の緊張から開放され、前髪を落とし凛々しくなった蜂須賀家政の門出を祝った。
「いい集まりだった。さて京か、予想通り来たな」
「京の備えは万全。昨日仰せのとおり織田弾正忠家の旗印を立てた騎馬武者を京に駆けさせました。明日も関が原は雪かも知れませんが降っていても出発は六つ」
上洛を期に京に通じる街道の整備を始め、特に関が原の住民には、一気に積もる雪を踏み固めて人馬が通れるようにしてほしいとの依頼をすると、仕事の無い冬場に日当が入るので喜び、各家総出で今までは厄介者だった雪が降るのを待つほどになった。
家正ではなく家政にした小六の思いは胸にしまったが、信長に制されチラッと見せた秀吉の表情はしまいきれない父冶重郎は措いて、すでに二年前、信長と家康から一字ずつもらい九歳で元服した徳川信康の颯爽たる姿といまだ前髪姿の奇妙丸を見比べ苦笑した華子は、想像以上に格好よかった三郎信長を見送り、大人になった新六郎になにかお祝いをしなくてはと思案した結果やっぱりあれがイチバンいいかもまだみたいだし♪