墨俣②

永禄十一年(1568)十月十八日、足利義昭征夷大将軍の宣下が下る。

入京した織田軍が三好三人衆とそれに組して敵対する勢力を池田城まで追い、機内の大部分を制圧。目出度く第十五代足利将軍になった義昭公の御座をとりあえず六条本圀寺に置き、十月末に京を発ち岐阜に戻る織田軍の秀吉勢のなかに小六の姿があった

一緒に帰ってきた秀吉から城に上る誘いがあったが断り、手勢と墨俣の砦に向かっている間はまだしも、別れて独りになり屋敷に帰る気持ちが甲冑以上に重くなった。

新六郎からの手紙に震え無我夢中で墨俣まで駆けた馬上の興奮のまま騎虎の勢で式を挙げたが心の奥底では後悔していた。

お徳を思う心はいささかも変わらないし秀吉に属したのもお徳のためで、一緒に暮らしたい思いも偽りないがあのとき、覚悟はあるかと内藤冶重郎に念を押され、あると肯いたが今は自信が無かった。

 

あの知恩寺の巨木の下で馬に乗る経緯を市姫から聞き、庫裏から出てきたこの女を護りたいと力を籠めて引き寄せたものの、「あなたに甘えてあなたの負担になりたくない」と言われ、俺のほうが甘えていることを思い知らされた。

体温に甘えることも出来ない今の厳しい状況にいつまで耐えられるか? 

いきなり首が飛ぶかもしれない恐怖も併せ戸惑う心が馬上で揺れ動きこのまま引き返そうかと気弱なことを思う小六に向かって二頭の馬が遠くに見えたと思ったらアッという間に近づき、湯気をたてて目の前で止まった。

「お帰りなさい」と新六郎が元気に言った。

「お帰りなさい」と若い女も元気に言った。

乗馬袴の裾を巻き上げ膝から下がむき出しの寒さを物ともしない若い女のすがすがしい声と威勢の良い姿が以前何処かですれ違ったことを思い出させ、冠木門の前で下馬した小六の手綱を慣れたしぐさで取った女を間近で見て、間違いない!頬がゆるんだ小六。

「お帰りなさいませだんな様」

と玄関にでむかえ前掛けを外しながら言った表情がこの前婚礼を挙げたときとはまるで違って活き活きとしていたので式を挙げたことは覚えているのだと安心はしたが、何時から何時まで誰に何に関しての記憶が無くなったのかも分からない闇からの狙い撃ちのような呪いがどうしたら解けるのか……。なるようにしかならんとまた無理やり思いながら前掛けを掛け直し奥に入っていくお千代の後姿を見送りため息が出た小六。

かたちのうえでは継母だが実の母親のお徳を(母上)と毎日のように新六郎が呼んでいて気付かないのはよほどのこと。万が一のときは仕方がないと腹は括っているが二人が接触するたびに胃の腑が痛くなるほどびくついているのも事実だった。

「邪魔をしている、無事でなにより」

と言って内膳夫妻が玄関から元気な姿を見せほっとした小六。

「おそれいります留守中の気づかい恐縮です」

「上洛は思ったより大事なかったようだな」

「いささかの抵抗はありましたが、しかしこれからが大変」

信長に立ちはだかるズルガシコイ集団がその権力と利権を守るためにあらゆる手を使い死に物狂いで潰そうとするのは当然だ。なにしろ恥を知らない集団だから。  

 

小六以上に既存勢力の巨大さを知っている舅だがそれはそれとして今は、「とりあえずお祝いをしなければお史のことも」と遠慮がちに言った。

何のことだと首をかしげる小六を正面から見たお史が、「あの時直ぐに帰ってくれたことを、そしてお千代と結婚してくれたことに改めて御礼をもうします。おかげでわたしは元に戻ることが出来ました」としっかりとした口調で言って頭を下げた。

「それはどうも、よかった」戸惑いながら取りあえず言った小六。

本当に戻ったのかと改めて姑を見てそんな簡単にとおもったが考えてみれば八年の歳月を経ているのだ。それならお徳も元に戻るのが今から八年後かもしれないのだ、と思って落胆した小六の想いはよそに横手に在る厩から女と新六郎が戻ってきた。

前髪姿が不釣合いに見えるほどの背丈になった新六郎。元服してもいいころだが、陪臣のおれが烏帽子親を弾正忠殿に頼むのは気が引けるから藤吉郎に頼んで後で知ったら新六郎を自分の子供と信じ込んでいるから怒るかもしれないがかまうものか。大きな不安を薄めるためにもう一つ不安をつくってやれとやけくそ気味に思った小六。

  *

大またに歩いてくる女のおおらかな顔が辺りをぱあっと明るくして言った。

「華子です、内藤冶重郎の娘の華子。よろしくお願いします。あなたのことなんて呼んだらいいの?」と訊かれた小六が、「好きなように呼んだらいい」と言った。

「じゃあ彦右衛門さん、決めました。本当は正勝さんって呼びたいけど」と言ういかにも馴れ馴れしい華子にムカッとし、

「はじめて川内を出たらしいが世間は甘くない。此処と川内は一本の川で結ばれているから帰ろうと思えばいつでも帰れる」 

と素っ気なく言った小六に臆さず華子が言った。

「冗談言って。お父さんは見掛けより優しい男だって言ってたけど……それより馬競べしません。新ちゃんとやって負けてしまったの。彦右衛門さんは馬が苦手だってさっき新ちゃんから聞いたわ。勝ちたいからやりましょう」

新六郎を新ちゃんと呼び、苦手と分かった相手に勝負を挑む突拍子もない女を舐めるなよと年甲斐もなく本気で思った小六。たしかに馬は苦手だったが緊急のあのとき戦陣と墨俣を駆けた必死の往復が馬との関係を変えていた。

「いいともいつでも相手をしてやる」と逸る小六にまあまあと

「とにかく小六どのは戦陣から帰ったところ、馬競べは日を改めて何時でもできること、とりあえず中に入って休もう」苦笑いの内膳が言った