岐阜城

永禄十三年(1570)一月一日。

二度目の山登りも息を切らせている華子がようやく辿り着いた信長の居間。

額に汗を浮かべている華子。奇妙丸がいたので、この前信長にしたのと同じように襟元を広げ風を送りながら、「なんでこんな高い所にお城があるの」と文句を言った。

「慣れたら平気ですが慣れないから大変でしょう」と気を使う奇妙丸。

見ていてははあっと頷いたお徳。この手で垂らしこまれたに違いない三郎信長のだらしなさに今さらながら呆れたところに、報せを聞いて大広間から戻ってきた信長がしっかり新六郎を見てから、「嫡男のお前が年賀の挨拶を受けよ」と奇妙丸に言った。

素直に頷いた奇妙丸が新六郎に会釈して居間から出て行った。

 

出て行きしなに奇妙丸と華子がちらっと交わした視線を横目で感じ、何時かこの二人のどちらかの、あるいは両方の頚を刎ねる予感がわけもなくして奮えたお徳。

「さて」と座りなおした信長。

「おめでとうございます」と年賀を述べる新六郎をを好ましげに見ている信長の頭をそっと窺いながら挨拶する華子の緊張した顔は、もちろんしっかり整えられていた。

そして挨拶するお徳に頷いた三郎信長の目が、「久しぶりだなお徳、いやお千代、京の生活に馴れたかな」と言った一瞬、碧く輝くのを見逃さなかった華子。

「もし三郎さまの頭がツルッパゲになって、髷が結えなくなったらどうしたらいいのでしょう、お徳さん」とお徳さんをことさら強調してかみついた。

ツルッパゲって言っちゃったわ、とびっくりしたお徳をびっくりして見た信長。

お徳! 瞬時に分かって破顔した信長が言った。

「さすがは冶重郎と小夜の子、みんな気にしているが口に出せないことをズバッと言いよった。しかもツルッパゲとわ! どうしたらいいお徳、ツルッパゲになったら」

「彼の国には此の国でいうかずらのような、かつらと呼ばれる頭に被るものがあると聞いたので、今後の三郎さまにどうかと新六郎さんに調べてもらいました」           

と笑いながら言ったお徳と信長のやり取りを見ていて、会ってもらえないかも知れないなんて心配することは、これっぽちも無かったのだと分かった華子。

声をはずませて新六郎が言った。「一見、本物と見分けが付かないほどと本に書いてありました。お望みならバテレンに言って取り寄せるのがよろしいかと」

「ぜひお取り寄せください」とお徳が澄まして言った。

信長にとって本当に取り寄せたいのは馬だがここは当然、「かぶった俺を見て大笑いしようという魂胆だなお徳は」と怒ったふりをした三郎信長。

「大当たりです」と手をたたかんばかりのお徳。

まるで仲の好い夫婦みたいな二人に、生まれて初めて嫉妬というものを感じた華子。

憧れからしただけで、ずうっと傍に居たいわけではないから信長の態度に腹を立てる理由はないが、二人だけの秘密を楽しんでいるかのように顔を見合わせ、眸を碧く輝かせてお徳と呼ぶ信長は絶対に許せないと思った華子は、「お徳さんと三郎さまはずいぶん仲がいいのですね」と嫌味のお返しを言った勢いで、「もう京え行くのはやめます。少しでも三郎さまのお傍近くにいてお世話をしたいと思いますから。それに奇妙丸さまとお友達になりたいし」と言ってこれ見よがしに科をつくった。

息子の名前を出されちょっとうろたえた信長。喧嘩別れしたがまだ未練がある年の離れた不倫相手のような二人を見てクスッと笑ったお徳が、得たりとばかり言った。

「わたしも京えは行きません。これからはずうっとお徳として小六さまのお傍にお仕えしてご迷惑をかけたぶん全身全霊てご奉仕しなければ」

 

帰ってからも京都の件では信長から何も言ってこなかった。

その代わりに、(明智光秀の女房殿とその娘を行かせることにしたから打ち合わせに岐阜まで来るように)と呼び出され、(かなわんなあ)とぼやきながら顔合わせをして帰ってきた新六郎に、「母上に代わって京に行く光秀様の奥方は母上より美しいし、珠子と云う名の女の子はまだ八歳なのに華子さんより賢い」と随分な嫌味を言われた。

二人の女は笑って受け流したもののさすがに気がとがめ、京に旅立つ三人を敷居が高くなった岐阜には行かず東山道の途中揖斐川の渡しまで馬で行って見送った。

「ずいぶん活き活きしていましたね新六郎さん」

「そうね。でもあんなに美しい方があの光秀様のどこに魅かれて結婚されたのかしら?」

とは言ったが、食虫食物の花弁のように、捕らえて食べてしまうために熟した香りを放つ光秀の妻に向ける新六郎の視線に危うさを感じたお徳。