競歩

永禄十年(1567)九月十六日。

小谷の早朝。

気持ちいい冷気のなかわき目も振らず早足で歩いているお市の方

もともと肥える体質なのに産後の肥立ちも順調でひねもすぼうっとしていたら、「ご立派なお体になられて」とお徳に嫌味を言われその気になった。

来春かならず行く朝倉の一乗谷

小谷からの近道北国街道は関が原と比べ物にならないほどの山道が続き椿坂峠と栃ノ木峠二つの峠を馬や輿に乗って越すのは難しいと聞く。

歩こう今から足腰を鍛え誰の世話にもならず自分の足で歩いて一乗谷に。

何故かそう決めた市蝶

決心して歩きはじめた市蝶の後ろに唯一人お香が従う。

お香だけなのだ

一緒にと誘ったお徳は普段動いていますからとか、お福は股ずれがしますからとか、浅井の侍女たちにも軒並みご遠慮もうしますと丁重に断られてしまった。

 

話しを聞きつけ嬉しそうに現われたのがお菊。

「肉付きのいいオナゴが好みなどと戯れを真に受けむりに食べ続けた挙句、お前肥り過ぎだぞと言われ難儀なことです」

と訳の分からないことを大げさに嘆くお菊に肯いたお市の方が、

「うちの馬鹿殿様には困ったものです」

と言って正妻と側室二人顔を見合わせ大笑い。

あくる日の早朝並んで歩く二人の後ろからそっとお香とお豊。

日ごとに増える人影。

なにしろ正室と側室が競って歩いているのだから。

 

速く歩くには裾が邪魔になる。

初めのころはちょっとつまんでいたが人が増えると競う心が次第に上に持ち上げ人目もはばからず絡げて帯に挟み膝から下はまるだし。

なかには調子に乗って膝小僧はおろか膝上まであらわにこれみよがし。

これではなにを競っているのか分からない。

浅井の名物になり女たちの後を歩く男たちに加え遠くから見物人も来る始末でそれを目当てに街道沿いに屋台まで出る騒ぎ。

 

活気が出るのは結構だがしかし

「困りますなあお市どの足をなんとかしていただかないと」

ものには限度があるとばかり市之介言った

「あらっ目障りですか、みっともなくてごめんなさい」

とことさらしおらしい市蝶

「いやそういうわけでは、とにかく足を隠していただきたい」

と言う市之介に改まって市蝶が言った

「浅井の恥と言いたいのですね、分かりました。でも、お徳がわたくしと競いたがっているのが分かるの。このごろ顔を合わせても気まずくて白々しいのは見過ごせないほど。ですから市之介どの全力で競える機会をつくっていただけません?それまで、こけたときの用心に男の方の猿股のようなものを付けさせますから……」

二人の気まずさは分かっていたがサルマタって言ったぞ。

開いた口が塞がらない市之介をさらに脅かすお市の方

「年を越したらきっとお徳はあなたから離れますわたくしには分かるの、あなたが未練を残さないように、お徳は残しません」

  *

市蝶の望みどうり十月二十日に競歩の大会が開かれた。

相撲好きな兄 信長に倣って相撲の大会もやろうと長政が言い出した。

館の前に土俵がつくられ競歩の決勝帯もひかれた。

そのうえなんと屋台も並び見世物小屋まで出来て小谷は大賑わい。

競歩の出発点は【お休み茶屋孫べえ】

出発時の明け四つ半もまじかに迫り、襷ハチマキも凛々しく裾を絡げてやるき満々のお市の方。お徳とお福は慣れない格好で落ち着かない様子。

(主命です)と引っ張り出されたが足元がちょっと恥ずかしいお徳をニコニコ顔で見ている市蝶を襲う声。

お市さまには負けませんよ」

気が入ったお菊の声とふっくら見える姿は元気一杯。

「おやおやお菊どのなにをおっしゃいますやら、見たところお菊どのの目方、早歩きを始めたころより増えていませんこと」

容赦なく痛い所を衝かれ(そんな……)退散するお菊。

「勝ったら何をもらえるのでしょう。まさか小六どのが現れてほっぺにチュウなんて怒りますよ。お福、何をもらえるか市之介どのに聞いてきなさい」

ほっぺにチュウ。そんなこともあったのだ。

夕暮れ迫る白川神社の拝殿に小六組の男衆が次々に詰め、疲れた顔の女衆に生気が甦ったことを思い出したお徳。

【間よく姿を見せた小六に、「簾に野筋の縫い付けを言われたの」と四枚の簾と野筋の束を示したお徳。手間の掛かる仕事だと分かった小六。社務所に屯する針仕事の出来る男衆を招集。男のにおいが拝殿に満ちお徳が言った。

「簾に野筋を縫い付けてもらいます。簾は四枚ありますから四組に分けます。男女の別はありません。早くきれいに出来た組にご褒美があります」

期待のざわめきが広がった。「女の方には小六様がほっぺにチュウ」間髪をいれず「いらない気持ち悪い」の大合唱。

何のことだと憮然とする小六の耳に信じられないお徳の声。

「男の方にはわたしからチュウ」男衆の大歓声を蔽い消す小六の大音声。

「今のは取り消し。男も女もみんなおれがしてやる」

拝殿を包んだ爆笑がお休み茶屋孫ベヱの喧騒に溶け込んだ】

 

お福がもらってきた目録を見て苦笑するお市の方

競歩大会賞品】

一位 緒上荘 一泊二食付 二名様御招待券

二位 緒上荘 一泊二食付 二名様八割引御招待券

三位 緒上荘 一泊二食付 二名様六割引御招待券

四位 緒上荘 一泊二食付 二名様四割引御招待券

五位 緒上荘 一泊二食付 二名様二割引御招待券 

以下、完走者にはもれなく孫右衛門様がほっぺにチュウ。

  

館の決勝帯までほぼ一里半、歩き手は三十三人。

精微万全、種子島を持ち出した市之介。

構えて号砲一発。

一斉にからげた裾が舞い、見物人と応援団の大声援のなか、六十六本の白い足が【おやすみ茶屋孫ベエ】を蹴っ飛ばして砂塵を巻き上げた。 

(こんなことをしているのだ♪)内藤治重郎の目の前を市蝶の膝小僧が疾走する。

内藤冶重郎が尾張からここまでわざわざ足を運んだのは、越前から来る明智光秀と京から来る細川藤考の二人と緒上荘で落ち合い、義秋公の本音と朝倉の本音について話し合うためだが(春ね春までね)と信長越しに背中を押す帰蝶が鬱陶しかったからでもある。

木の芽峠を越え塩津街道沿いの宿を取った明智光秀

さて長かった浪々の身にけりをつける期待と予感に逸る意気込みと微妙な足取りの右手に琵琶湖が現われた。

もうじき越前は雪に埋まり悶々とする義秋公も埋まる。

春だな春になったら動く動かしてみせる。

すかっと澄みわたった湖面の向こうに夢の城が見えた。

 

清原邸に逗留し長年に亘る朝倉と本願寺との抗争の和解を義秋公の手柄とする目途を付けた細川藤考。

浜に泊まり砂塵が舞い夜盗が横行する京を改めて悲しく思う藤孝。

京を愛し京の華やぎを取り戻したい一心で必死に担いできた足利義秋が京にさほど愛着を持っていないことが分かりいささか気抜けしたが春だな、春が来たら気分も変わるだろう。

  *

緒上荘にいた太平が浅井唯一人の出迎えと知って感心した冶重郎。

「お前が死んだらオレが泣いてやる。オレが死んだらお前が泣いてくれるか?」

と感心ついでに真剣な顔で太平言った。

その太平に(来春、雪が溶け桜の咲くころ小六殿を誘って当方も一乗谷へ。ぜひ小谷からお供を)というお市の方への手紙を託し、代わりに吾助からの依頼を聞いて肯いた冶重郎。

  *

大声援に押された女衆が疾走する間に五つ半に始まった相撲大会の一日目は盛況のうちに終わり未だかと競歩を待つ人の波の最前列。決勝帯の後で待っていた長政の目に飛び込んできた一位を競う二人の女。ともに髪を振り乱し必死の形相。

一人は市蝶だがもう一人のお徳は嬉しかった。

(勝てるわけが無いと知りながら全力を振り絞って戦ってくれているお市さま!)

大歓声の中ほとんど同時に決勝帯を切った。

勢いあまってというより、全力を使い切ったお市の方が長政の胸に倒れこんでしまったのが罪なことになった。

懐かしい汗の匂いと荒い息遣い。

乱れた襟元から覗いたふくらみ。

うなじに触れた唇の感触。

ちょっと変態じみてはいるけどままならない市蝶への想いが暗くなるにつれ増し、我慢しきれず夜這いに及んだ。

疲れて熟睡していたがもう一人の於市は寝ていなかった。

息を殺して覗き込む長政の鼻っ柱に真っ直ぐこぶしがめりこんだ