石山本願寺

元亀元年(一五七〇)秋九月十二日。

信長は確かに七十日程で二条館を造ったが、土台を据え木組みも他の材料も何もかも揃えてからの七十日なのだ。それに比べ、いちから準備して五ヶ月で出来たのは上々といえる五重塔の天辺に上った本願寺十一世顕如は早朝の風に吹かれ、震えながら本願寺城を間近にした陣形を望遠。刻一刻伝わる情勢を自分の目で確かめていた。

三好三人衆を主力にした一万三千余りが盟主に管領家嫡流の細川六郎を立てて七月半ば過ぎに阿波から渡海したが(その中に斉藤龍興の姿があったという)直ぐに京を目指す構えは見せず、本願寺の参戦を促すかのように石山本坊に程近い天満森に陣を張り、野田と福島に砦を築いて様子を窺うという報せを受けた信長は承知の上と八月半ばを過ぎて岐阜を発ち、京を通り石山を迂回して南にある四天王寺に陣を構え野田と福島の砦を大軍で取り囲んだのが八月末。あちこちの小競り合いを手探りに、二千の兵を従え出陣した将軍義昭を後ろ見に信長の本陣も天満森に迫り一触触発の雰囲気に覆われていた。

巡り会わせか何か知らないがなんでこんな近くで合戦しなければならないのだと、顔を

しかめて五重塔から降りてきた顕如を待ち構えていたように、「人の心が分からない貴方が図々しく説教を垂れるものです」といきなり罵倒した春子。

このごろ、体調が良いときには春子の罵倒が子守唄のように聞こえ眠くなるのだが、朝食を前にして胃の腑が痛くなりそうな顔をした夫光佐に妻春子が言った。

「読経だけは一人前で遠い本堂から聞きたくもないのに聞こえてくる声。お経の意味は二の次でこけおどしもいいとこ。こんな愚かな男の言い名付けにされたのが不幸の始まり。言い名付けにされたのは貴方の責任ではありませんが結婚は断れたはずなのに何故断らなかったのです。山科本願寺寺内町を焼き尽くし、夥しい門徒僧侶を虐殺した首謀者の養女とはいえ娘との結婚なんて、たとえ言い名付けでも断るのが当然なのにいろいろと差し障りがあるからなんて言い訳して、しかも火つけ役六角氏の猷子として迎えるなんて情けない。いつもだんまりを決め込んで、バカな女とは口をききたくもないお顔。私は貴方と話をしたいのに貴方はいつも知らん顔、なさけない。京の郊外には何時移るのです、早くしてくださいません。京には実家があるし両親も姉も友達もいます。妻と話も出来ない弱虫で意く地なしの恥さらしの貴方みたいな、何も知らない門徒からはあがめられているけど生きている値打ちもない生き仏なぞ死んだらいいのです。死になさい」

ああっすっきりしたと高笑いする背中を見送り、生まれた時から一緒になる定めの二人だから本来は相性がいいはずなのに何処でどう生き違ったのかと溜息が出た顕如

言いぱなしの罵倒に向き合わなかった付けが当然回ってくるがしかし、まともに向き合わないから何とか持って来たともいえる。両手を後ろ手で縛ってひたすら耐えている日々だがふと、おれは春子の立派な体躯に縋って生きているのかも! 何かの拍子に春子を手にかけてしまう恐怖から逃げるため五重塔に上り、本願寺城の堅牢さにほっとするのだと思い至った顕如は改めていかなることがあっても此処は護らなければと決意したが、思い出すと憂鬱になる書状が何時の間にか漏れ、困ったことになった。

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まだ永禄だったこの正月の二条館で、懐刀だと後で知った内藤という信長の臣から渡された書状に慄然とした。文面は慇懃だが内容は、換わりの地を与えるから石山を三年のうちに明け渡せという無理難題。しかも提示された場所は話しにならなかった。

京都の南、宇治川左岸沿い槙島から淀に至る広大な湿地帯。確かに京に接しているのは良いが、好きなだけ与えるといわれても池や沼が点在する湿地帯での工事の難しさと莫大な費用、掛かる年月の仮住まいを考えると到底受け入れることは出来ない。破却という言葉は使われていなかったが顕如にとって石山が無くなることは宗門が破却される以上の恐怖。内緒にしていたのに漏れ、春子は京に近いというだけで乗り気なのだ。

急かす春子の罵倒に曝される己の危機を真宗本願寺の危機にすり替えた顕如は、破却という言葉で門徒の決起を促す檄文を末寺という末寺に発し更に、秩序の破壊者信長を撃滅する必要がある旨の書簡をあちこち手当たり次第に送っていたが手ごたえがいま一つなのは求心力が無いからかもと打診した義昭公からの返事は未だ無い。

不安がつのりにつのり、五重塔から目にした織田の大軍に本願寺城が蹂躙され、春子を手にかけ破却する幻覚を見た光佐は自分があげた悲鳴で長い夢から覚めた。

夢とうつつの間で十四歳の新妻が寝息を立てている。

十五歳の光佐は境内の鐘を憑かれたように打ちつづけた。

呼応し、雑賀孫一の手から一発の銃声が闇を震わせ、潜んでいた雑賀党の銃口から楼岸の織田軍めがけて一斉に銃弾が打ち込まれ、本願寺城に閧の声が上がった。