比叡山

脅すような書簡を送った覚えも口にした覚えもないのに突然攻撃する本願寺に吃驚した信長をさらに驚かせた報せ、浅井・朝倉連合軍の進攻は分かっていたが湖西の要衝、宇佐山城守将森可成(十四年前稲生で共に戦った怙臣)の戦死にうろたえた。

元亀元年(1570)冬十一月。

城を出て迎え撃つ森可成は討ち取ったものの肝心な宇佐山城は落とせず、洛外の山科と伏見醍醐辺りを撫ぜただけで入洛出来なかった浅井・朝倉軍は素早く大坂から撤退して近江に駆ける織田軍を迎え撃つため坂本に陣を構えたが、追撃しない三好勢の動きと、森可成の仇を討つとばかりに迫る信長の勢いに臆したのか決戦せずに比叡の峰々に上がって三ヶ月近く、十一月も半ばを過ぎると下界では雨でも山上では雪になった。

そろそろ帰らないと越前は雪に埋まるし兵糧も尽きてきた。

「引きあげよう」と明るく言った義景。

 

イクサをやる気が無いのは分かっていたがこの明るさは、小谷の三日間を思い出しているのかもと呆れる長政を尻目に、密勅と手紙を火鉢に投じた義景は、チラッと見た少女の青く光る瞳がやがて男を手玉に取り天下を混乱させるに違いないと思った。

やる気はないが先が見える義景は二人の女を通して義昭公に頃合を見ての調停をあらかじめ頼むと同時に動揺させる為に後方からの霍乱、信長の足元小木江城をじわじわ攻めることを本願寺に依頼するくらいのことは画していた。しかし、あっという間に攻め落としてしまい守将の信興も自刃してしまったので救援の是非を悩む間もなかった信長に動揺する気配は無く、渡海したら一気に洛中を目差す構えの三好勢を、土佐の長曾我部が留守を衝くという偽の報せで牽制したのはあわよくば撤退するかもとの望みもあり、大坂から素早く撤収したのは本願寺の頭を冷やすためだったに違いないと思った義景。

 

一方の信長。森可成の戦死や信興の自刃に衝撃を受け動揺したのは事実だが、何時までも引きずっていたら戦乱の今の世、身がもたない。積年の恨みも少なからずあるが恨み事は次々に起きるから拘っていたら押しつぶされる。

本願寺に攻撃された時には吃驚したが、三好勢の渡海と浅井朝倉勢の進攻が打ち合わせた行動で無いことは追撃すべき三好勢の動きをみても明らかで、反織田勢力のばらばらなのを見透かしてのんびり、(イクサに明け暮れた信長の生涯の中でもこんなにのんびりした時は無かった)交代で兵を帰らせ慰安していたが頃合と見て琵琶湖水運の要堅田に兵を繰り出し、応じた朝倉軍が下山して応戦。門徒勢の応援も得て撃退した様子にこれ以上面目を立てようが無いと判断した義昭が調停に動き、織田方の働きかけもあり、正親町天皇が出した講和勧告の綸旨で和睦があっという間に成立してさっさと撤退した信長。

織田軍が撤退した次の日、負け癖がついたイクサ続きで戦利品も恩賞も何もなく疲れただけだとぼやく声も元気なく寒さに震えながらトボトボと山を下りる浅井朝倉軍。

浅井だけでもやるべきだと坂本での決戦を市之介に促されたのに、幼少から何かと比較され素直に意見を聞けない絡みついた臍の緒を噛んで長政は悔やんだ。市之介の提言は無謀だがどこかでケリをつけなくてはならなかったのだ。代々檀徒筆頭的役割を務め、勝手知ったる比叡山延暦寺にあっさり上った朝倉家当主につられて上ってしまったが、オレが踏ん張ればあの悲しい目で付き合ってくれたかも……。