聖徳寺③

直ぐ戻る約束だったのに帰るのが遅れてしまい、一人留守番をさせられ不機嫌に違いない長政に折檻されたら可哀想だと思ったお市の方が「小谷に遊びにいらっしゃい」と言ってあのあと早々に、お豊をつれ市之介の一行と帰ることにしたので他の女達も残るわけにもいかず、ゆっくり話が出来なかったのでぜひ行きたい小谷には雪の心配がなくなる三月ごろに行くことにして華子が会いたがっていた帰蝶の居る聖徳寺に向った。

永禄十三年(一五七〇)正月十五日。

風は穏やかだがまだ寒い一月の長良川に屋形舟が一艘。源次郎が風を防ぎ火の気がある屋形船にしたのは多恵という幼子を抱いたお藤が同行することになったからだった。

一度きっちり挨拶をしておきたいが、一人では行きにくいお藤の気持ちを察したお徳が同行を快く承諾したというよりお藤に増して行きにくい気持ちがあった。

  *

美濃と尾張を縫って伊勢湾に注ぐ木曽川長良川揖斐川の濃尾三川はたびたび洪水を起こし、分流や合流を繰り返していた頃には内陸まで深く湾が入り込み、木曽川長良川が合流していた墨俣辺りまでも潮が上がって来ていた。墨俣より二里ほど上流の笠松辺りで木曽川の本流と別れ、下流の祖父江辺りで再び本流と合流する穏やかな支流が領内川とも境川とも呼ばれていたのは、支流と本流とで囲まれた逆三角形地帯の領有権をめぐって尾張と美濃が長年に亘り争い、尾張領だと言い張る尾張では領内川と呼び、美濃では支流を境に美濃領だから境川と呼んでいたからで、水路で結ばれた中州が点在するその一帯は一種の緩衝地帯になっていた。そんな呼び名が二つある木曽川支流右岸の緩衝地帯に建つ真宗聖徳寺と岐阜稲葉山とは船で行き来できたのだった。

  *

やがて流れの速い本流から穏やかな水路に入り、川内みたいな雰囲気を感じて懐かしくなった華子が艪を漕ぐ源次郎の側により襟元を寄せ訊いた。

「迷路みたいな水路だけど迷うことはないの源次郎さん」

「洪水が起こると水路が変わるのでそのときは迷うことも」

と言う源次郎に、「迷ったらどうするの」と華子が訊いた。

「迷ったらもとに戻る。しかし迷ったことを素直に認めてもとに戻るのがけっこう難しいもので、慌ててやみくもに行きたがりいっそう迷う」

「迷っても行ってしまうのね。もし、もとにもどっても分からなかったら?」

「さあっそのときはそのときの気分次第だが、人に訊くのが一番」

「そうなのね素直に人に聞くのが一番なのね。わたし意地っ張りだから……」

流れに目をやり艪脚を見ていたら無性に漕ぎたくなった華子。

 

「私に漕がせて」とねだると、「良いですよ」と手から渡された艪の感触が心地よくこのまま川内まで漕いでいきたいくらいで、「いい艪、漕ぎやすいわ」と笑みを浮かべた。

「上手なんだ!お父さんも上手ですよ」と嬉しそうな源次郎。

「川内は今どんな様子なのかしら、最近川内に行きました?」

「先日も。変わらないですね、足元をかきならしている感じで……」

そうっ、と言って艪を漕ぐことに集中する華子。

やがていっそう入り組んだ水路に入った。

「代わりましょう」と艪が源次郎に代わりしばらく行くと聖徳寺の裏手に出た。伽藍と塔頭を左に見て過ぎたところを左に曲がり、こちらでは境川と呼ばれる木曽川の支流に出る手前、右手に高く連なる石垣が出てきて間もなく石垣に隠れた門の前に架けられた橋のたもとにつくられた桟橋に着いた。「ここなの、立派な石垣!」と感心する華子。

木曽川の氾濫にたいする備えですよ」と源次郎。

「輪中の堤防よりよっぽど頑丈そうだわ」と感心しきりの華子。

目の前で左右の扉が音も無く外側に開いた。正面に立っている若い男の様子の良い姿に三人の女の視線が投げかけられ、お徳の視線が冬なのに素足の足元にとまった。

 

門から入ると石垣の内側の犬走りから一間ほど空けて高い生垣がぐるりと廻り、反対側にあるはずのもう一つの門は見えず、屋敷の真ん中を流れる疎水を挟んで渡り廊下だけで結ばれた高床式の二棟の建物も屋根しか見えなかった。

姿は見えないが気配を感じたお徳。生垣に隠れた小さな門を潜ると建物を支える床下の夥しい柱が陽炎のように揺れ、ここに費やしたお金と情熱と異質さが今なお漂い入った者をすくませた。「なんか気持ち悪い」華子がつぶやいた。

何度か来たことがあるが中に入るのは初めての源次郎は、(石垣の門に赤い襷が架かっているときは反対側に回った)と故老に聞いたことを思い出して肩を竦めた。そんなことは知らないお藤は、「大丈夫すぐ慣れます」と笑いかけ、多恵を抱きなおした。

  *

玄関で出迎えた若い女に案内されて通る暗い中廊下が別の世界に迷い込んだようなふわふわした感覚で、一月の寒い日だったのに足袋を付けない左足の異常に大きな小指が浮かび、「小太刀で」と言ったとき目が合い、ドキッとしのを思い出したお徳。

中廊下から畳廊下を通り陽が当たる縁側に出た。

陽のさす縁から座敷に入ると別の女が急須と湯飲みを持って現れ、「こちらの部屋もお使いください」と言って隣との境の襖を開けると部屋の隅に調度品のように何個かの水瓶が置かれ、長火鉢の炭がひっそり熾き五徳の上のやかんから湯気が出ていた。

何時もは火事を恐れて火を焚かないのだが、今日は特別なのかと思ったお藤がやかんに手を伸ばした女に、「いいわよわたしがやるから」となれた様子で言った。

「では御願いします。しばらくお待ちください」と言って女は出て行った。

 

お藤が淹れてくれたお茶を一口飲んで美味しいと思ったお徳がもう一口と湯飲みに口を

付けたとき、「此処はお市さまが使っていた部屋なのよ」と言いながら覗いた顔を見てびっくりして飲み込んだ。「遥さん!」と言ったきり言葉が出ないお徳。

「ずいぶん心配したけど無事だったんだから、元気そうだしよかったよかった。お藤さんも赤ちゃん、おそまきながらおめでとう。源次郎さんはお父さんになってよかったね。おやっ貴女がうわさの華子ちゃんね、冶重郎さまに似なくて上々だわ」

と言ってアハハと笑う遥子の明るさが周りの気持ち悪さを吹き飛ばしてくれるようだ。

「貴女が三郎さまと乳姉弟の遥さん!」

と華子が目を丸くして言ったので、よく知ってるねえアハハとまた笑った。

「お父さんから聞いたわ、三郎さまを泣かせてばかりいたって」

「三郎さまは今も昔も頼りなくて泣き虫だけどでも芯からお優しいから!」

と言って昔を思いだし懐かしい顔をした遥子。

「どうして此処に遥さん」と吃驚したお徳が気を取り直して聞いた。

「びっくりした! 帰蝶さまに呼ばれたんだよ、お前の声が聞きたいって。あたしも会いたかったし……さあ帰蝶さまがお待ちだから行きましょう」と言われみんな揃って立ち上がったが、「オレはいかなくても……」とひとり尻込みする源次郎。

お市様なら会いたいのでしょう」とお藤にちょっと睨まれうろたえた源次郎。

きっぷがいい分かりやすい男は置いて、女達だけが帰蝶の居室に向かった。

 

「なんか緊張してお手洗いに行きたくなっちゃった」と華子が大きな声で言った。

「いいねえ、華子ちゃんはいいねえ。みんなで行っときましょう途中にあるから。でも大事なものは持って入らないように、落としたら大変だから」と遥子が言った。

落としたら大変なのは何処の便所でも同じだが……。

二つある扉からお徳と華子が入った途端華子の叫び声がした。

なるほど落としても落ちても大変だ。しゃがんだ下を絶え間なく水が流れている。

川内生まれで泳ぎは得意な華子なのに、人が落ちる訳は無いのに、引き込まれそうな恐怖を覚え慌てて出てきて言った。「誰がここをつくったの遥さん」

「異常だね! 疏水の下に暗渠までつくっているのよ」と遥子が言った。

   *

美濃から花嫁を迎える前、信秀様に連れられ、三郎さまと三人で此処を訪れたことがあった。長年の埃が綺麗に払われ、修理が施されているのを見て回りながら(ここにかまけた金と想いが尾張をまとめる力を削いだのは事実だがそのことは後悔していない)と言いたげな信秀様のお顔が、那古屋城の奥の間で競って母の乳房に吸い付く三郎さまとわたしをニコニコ笑って見ていた元気な顔から急にやつれた顔になった。

  *

手洗いの反対側にある板戸から漏れる湯気。「こっちが風呂場」と言った遥子が突き当たりの開き戸を開けると棟を繋ぐ緩衝部屋で、左右の明り取りの蔀戸が開け放たれ、生垣の間に門が見えた。門の外に並んだ家屋と長屋を指し、「使用人の住居なの」と遥子が言いもって隣に通じる扉を開けた。「こちらが帰蝶さまの居宅」と言い、手洗いと風呂場が並んだ同じつくりの渡り廊下から人の気配がする薄暗い中廊下に入った。ああっここだったと迷路みたいな中廊下を通りながらお徳が透かして窺うが佐内の姿は見えなかった。

中廊下からたどり着いた板戸を開けると、踏み込みの奥の襖の向こうに畳廊下が真っ直ぐ縁まで伸びているのは同じだが、縁との境の板戸が明りを遮っていた。右側に続く三部屋は襖が閉められ左側は一面壁で縁に近い一箇所だけある襖が開けられると覚えのある控えの間だった。控えの間の縁との境は障子ではなく壁で仕切られ暗かった。

「暗くてごめんなさい」と奥の暗がりから明るい声が聞こえ、「すぐなれるから」と遥子が言った。漆黒の闇ではなく障子が嵌った小さな二箇所の地窓を通し縁で反射した明かりが差し、奥の暗闇にいる人影から、「お入りなさい」と声がかかった。

 

えっと驚いたお徳。昔少女トクが会ったとき漆黒の闇から聞こえたのはにごっただみ声だつたのに……市蝶さまそっくりの明るい声で(お入りなさい)と言ったのは本当に帰蝶さまなの? 混乱するお徳が、「声変わりされたのですか帰蝶さま?」と間抜けなことを訊いてしまい、フッフッフッと押し殺しそこねた笑い声が闇から聞こえた。

「やっと来てくれましたねお徳! びっくりして面白いことを言ったとこをみると昔ここで会ったときのことを覚えていたのですね、妹に連れられて来たときのことを」

あの闇の中から聞こえたかすれた声とはまったく違う声が言った。

「お入りなさい」ああっこの声なのだ! 生まれながらのコノ美しい声に背中を押されて三郎さまは京に行ったに違いない。間違いない、コノ声に押されて!

「改まった挨拶は無用です。よく見えないでしょうが好きな所にお座りなさい。――十二歳のお前の目は覚えています。あれから何年経ったのか、幾つになりました?」

「信じられませんが二十九になりました」

「信じられない思いは同じでわたくしは三十三になりました。もっとも妹はいまだ二十七のはずです。妹が図々しいのは子供の頃から変わりません。それにしてもよくここまで来てくれました。お前が来たらここではお徳と呼ぼうと思っていましたが無事お徳に戻れたようですね。お徳のお前に是非聞いておきたいことがあります」

「なんでしょう」何故か何でも答えることが出来るような気がしたお徳。

 

元服した新六郎は誰の子で誰が勘十郎君を斬ったのか是非お前の口から聞きたいの。もう終わった昔のことをむしかえすようですが、いまだにチラチラ現われるお前の十二歳の目から開放されたいの。新六郎は誰に似ているのです」

「新六郎は勘十郎さまに似ていましたが……」

「勘十郎様に? 三郎さまと勘十郎様は兄弟だから新六郎が勘十郎様に似ていても不思議はないけど、でも三郎さまは新六郎の父親は自分だと言っています」と帰蝶が言った。

「恥ずかしいことですが誰が父親なのかはっきりしません。あの頃のことを思い出そうとしてもどうしても思い出せないのです」とお徳が言った。

「誰が父親か分からない? 勘十郎君のほかにも相手が? まさか冶重郎どの? そんなことありえないわね。では佐内どの? ほかに誰か?」と首をかしげた帰蝶

 

子供を生したことがなく殿御も三郎様だけの帰蝶さまには分からなくても、大勢の男と接し子供も生しているお徳は分かっているに違いないと思っている遥子。

「誰が父親なのか分からないのはほんとうです」とお徳が言い、「お前が三郎さまを避け続けている訳が分からないの」と帰蝶が言い、「三郎さまに会いたくないのは、父親も分からないようなふしだらな女とは思われたくないからです」とお徳が言った。

「お前らしくも無い、言うてることがめちゃくちゃねお徳」

と言って呆れた帰蝶も知らないお徳が信長を避けている本当の理由は、二人だけになったとき、愛しい三郎信長の頚を刎ねる誘惑に抗す自信がないからだった。

  *

まさかそんな理由とは思わない帰蝶が気を取り直して聞いた。

「でしたら勘十郎君を切ったのは誰です」

「それも分からないのです誰が斬ったのか。わたしかもしれないのです。でも新六郎が彦

右衛門さまに似て来たのは本当です」とお徳が言った。

 

暗がりに慣れてきて耳を澄ませていた華子が彦右衛門の名を聞いて割り込んだ。

「彦右衛門さまって小六さんのことですか?」

「今いきなり口を挿んだのはどなたです?」

「あっすいません。内藤冶重郎の娘の華子です」

「冶重郎殿の娘さんの華子さん?」

「遅れましたが紹介します。いま口を挿んだのが冶重郎さまのお嬢さんで華子さん。華子さん、暗闇の中にいらっしゃるお方が帰蝶さまです」と遥子が言った。

「華子ですよろしくおねがいします」

と改めて頭を下げたがいろんなことに興味津々の華子が訊いた。

「わたしと新六郎さんのお父さんは同じかも知れないの? 姉弟ということ」

「せっかちなのね華子さんわ。でもそれも分からないみたい」

帰蝶が言うと、「今も昔もモテモテなのねお徳さんは」

と華子が茶化し、「モテモテも結構ですが品が……」と帰蝶

二人におちょくられ苦笑したお徳がずいぶん昔のことですがと話を変えた。

「市蝶さまは何故ここを離れ勝幡城に移られたのですか?」

「今になってそれを……ここが気持ち悪かったのだから仕方がありません」

と自分を棚に上げた帰蝶が妙な咳を抑えて言った。

「でも、生まれたときから二人はいつもいっしょと聞いています」

とお徳が言うと、「どなたに聞いたか……此処と勝幡は馬でひとっ走り、時々夜の闇を駆け妹に会いに行っていたのは知っているでしょう」と帰蝶が言った。

それは知っていたお徳。闇をつき、一人駆けてきて市蝶さまとのことを何度か見られ、そのことでチャラチャラしている主従と非難されていることも知っていたが……。

「本当の訳は、好きな三郎さまが帰蝶さまの所に通ってこられる気配に耐えられなかったからと違いますか」と言いたいことを言ったお徳。

「仕方のないことはいっぱいあります。お前と三郎さまのように……でも、華子が三郎さまと仲良くしたことは仕方がないけど、仕方があるのは華子の誘惑に負けた三郎さま。若い女の子にちょっと色目を使われると、だらしがございません」

帰蝶さまとも思えぬくだくだと! 眉を顰めた遥子が強引に話を変えた。

「お姿が見えませんが佐内さまはどちらに」

 

佐内の名前が出たので子供を抱いたお藤が闇に向かって急き込んで言った。

「藤です。申し訳ありません御方様、勝手をしてしまいました」

「お藤ですか、いいのです無事でしたら。お前も佐内どのも間違ってはいなかった。どちらもわたくしの本当の気持ちなの。それに子供も授かってよかったこと」

「佐内さまにもお詫びしなければ!しかしお姿がーー」とお藤が言った。

「佐内どのは体調が悪くて家で養生しています」と帰蝶が言ったのでびっくりしたお徳が訊いた。「えっ、養生しなければならないほどお悪いのですか?」

「本当は、好きなお前に歯の無い姿を見られたくないのです」と帰蝶が言った。

歯の無い山本佐内! 見てみたいとはおもったが……それより露骨な言葉を使うほど体調が悪いのかと気になったお徳がそろそろと思い伺った。

 

「桃の節句のころ市蝶さまを訪ねて小谷え行こうと思っています。茶々姫のお祝いも兼ねお福にもみんなにも会いたいし、何かお届けものがあればお預かりします」

「届けて欲しいもの! あるにはあるのですが……」

と言って暗闇で目を閉じた帰蝶が白い歯だけで笑った。

「そのうち佐内殿も姿を見せるかも知れませんから、気兼ねはせずに好きなだけ泊まっていきなさい」とけだるそうに言った帰蝶の言葉に送られ隣に移った。

   *

「あたしも久しぶりに市蝶さまに会いたくなったわ。誰にも気兼ねなく馬に乗って小谷まで行きましょう、ねえお徳どの」とその気になって嬉しそうな遥子は、お徳が横目で心配するまでもなく、奥の方の体のことは以前から日に当たらないのはよく無いのではないかと、暗闇でも見えるような透き通る白い肌に危うさを感じていた。

食事の前にお風呂に入ることにした。

遥子とお徳が一緒に入り、お市さまが届けて欲しいものを言いあっていたら明智光秀の話になった。男としての外見は冴えない光秀様の奥方は危険なくらい美しい方、とお徳が言うと、会ったことがない遥子がぜひ会ってみたいわと言って声を潜め、お市さまの初めての男が光秀殿なのと言ったのでびっくりしたお徳。内緒よと笑った遥子。

  *

夕食も済んでホッコりしていたらお徳だけ呼ばれた。案内は、右足の小指が異常に大きな若い男。右足! 名前を訊くと「万見仙千代」と答えた。首をかしげながらお徳が客間に入ると漆黒の闇の中から昼間と違った声がぴしっと飛んできた。

「仙千代どのはわたくしに似ていると思いますか」

「似ていらっしゃいます。でも……」

「でも? 今お前にはわたくしが見えないでしょう」

「見えません、あの時から見えなくなりました」

「あの時、父親かもしれない男の首を刎ねたい誘惑とそんなことをしてはいけないという気持ちとの板ばさみになって立ち往生していたお前は、妹から黄金の免罪符をもらい見事に介錯しました。その代わり過酷な運命の代償に得た闇が見える目を失った。そしてこんどは首を飛ばされずに記憶を取り戻すために黄金の免罪符を差し出したのでしょう」

「ですから、今わたしに出来ることは地獄におちることだけです」

「そのようね。ところでわたくしが今お前に何を望んでいるか分かりますか?」

帰蝶さまの頸を断つこと! でもわたしにはできません」

「お前が政秀殿を介錯したときのことを冶重郎どのから聞きました。政秀殿は首を断たれたことに気が付かず、早く断てと言ったとき首がポロリと落ち、ビックリした表情で懐に抱かれたと! 私も出来たらお前に……」と言ってフッと笑った帰蝶が、「此処もわたくしも、もう長くはないの」と言ってまたいやな咳をした。

十数年後この穏やかな支流が本流に変わるほどの大洪水が起き、聖徳寺は人の記憶から消え祈りは人の心から消え、二棟の建物は石垣もろとも痕跡もなくなっていた。

「お前に、人間の業に向き合い続けることをもし三郎さまが望んだら」

「三郎さまが望むことはわたしの定めなのですから命がある限り!」

「やっぱりお前にとって此の世との手がかりは三郎さまだけなのね」

熱田から狭間まで轡を取り、三郎信長と死に向かって疾走したひと時がお徳にとって何ものにも換え難い甘美な記憶だった。