二条館④

永禄十三年(一五七〇)正月二日。

暮れに入京して妙覚寺に泊まっていた村井貞勝と内藤冶重郎と明智光秀の三人が松の内には誰にも会わないはずの将軍義昭を訪ね二条の館に早朝現われた。

早く来たつもりだが先客が居て待たされ寒いなと口々にぼやいている三人。

そういえば玄関脇に豪勢な駕籠と見るからに屈強な坊主頭が一小隊ほどいた。

熱いお茶を持ってきた若い女に冶重郎が、「先客は坊さんだろう」と訊いたら、「分かりません」と素っ気なく言って下がったが直ぐ手あぶり用の火鉢と同じ大きさの水の入った鉢を一口ずつあてがわれ、いい年の男たちが体裁も構わず火鉢を抱え込んだ。

 

しばらくして、「おこしやす」とお菊がにこやかに現われた。

松の内なのに迷惑かけます」と会釈した冶重郎。

三人の男と向かい合っても気おれを見せないお菊に感心して軽口を言った冶重郎。

「いまや公方様の室の貫禄たいしたものです」

「京が嫌いと聞く冶重郎様が遠路底冷えのする京までわざわざこられ何事かとびっくりしています。人を化かすのがお好きな方が今日は何を化かしに来られたのやら」

と軽く受け流し貞勝と光秀に顔を向けたお菊。

「うちの公方さまが一乗谷以来なにかとお二人にはお世話になりましたのにお礼もせず、ご無沙汰で申し訳ございません」と口ごもりながらそつない。

「いやこちらこそお礼を言わなければ、一乗谷のことは責任を感じています」

と言ってことさら恐縮する光秀に、心にも無いことをと内心笑ったお菊。

「わたしのことを気にされることはございません。それより念願でした御仕官、織田家にまだお決めにならないみたいですが……」何故と首をかしげるお菊。

あんたが気にすることでは無いと心の中で舌打ちした光秀だが、「いずれにしろ最後はお菊どのをお頼りすることに……」とにこやかに言った。

「この如才なさを冶重郎さまも見習ったらいかがですか。いつもぼんやりしている方だから兄上と姉上に挟まれ大丈夫かしら、と市蝶さまが心配されていました」

二人とも承知の掛け合いを面白がっている余裕がない冶重郎にお菊が言った。

「冶重郎さまの推察どおり先客は本願寺さま。公方様と膝をつき合わされてかれこれ半トキ、男の長話も尽きる頃もうそろそろでございます」

催したのを我慢していた冶重郎。ではちょっと手洗いにと言って女に案内されるのを見送ったお菊が村井貞勝の従者が携える文箱について尋ねた。

 

「冬のこの時期にはいちだんと底冷えのする京え、年の始め早々に来られたのは例の条書の件ですか?五か条の文書がその文箱に?」

「さよう、しかしこの前はダイブご立腹と聞いています」

「怒っていましたわ! わたしまでとばっちりを受けてしまいました」

「そうらしいですな、市蝶さまの手紙を見て京えとんで行かれた」

「えっ三郎さま自ら京え! 知りませんでした」

「これは余計なことを、言ってしまったようで……」

「だからあんなに早く!」お菊の頬が紅潮した。

  *

女を遠ざけカワヤに出たり入ったりしていた冶重郎が寒さに震えながら何度目かに出てきたとき、見るからに寒そうな坊主頭と擦れ違った。

「冷えますなあ」初めて会ったが一目で顕如だと分かった冶重郎。

「さよう、京は冷える」と言ってそそくさと厠に入った顕如

早々に出てきた顕如は手水鉢の前で付添いの坊主にカワヤを目で指し、左手で持った柄杓で手水鉢の水をちょっと掛けた右手を僧衣の袖で素早く拭いさりげなく僧衣を調えた悪戯っぽい顔で、「手は洗いましたぞ」と冶重郎に言った。

「間違いなく見とどけましたこの目で! お上人には御初にお目にかかります、織田弾正忠信長の臣内藤冶重郎、無官です」と言って頭を下げた冶重郎。

「これはご丁寧に、本願寺の釋顕如、門跡並みです」

「やはり、京は石山よりだいぶ冷えますか?」

「冷える。用があるならてみじかに」

「おそれいります。それでは一つだけお尋ねしますがお上人は生き仏と門跡、どちらに重きを置かれておられますか?」

「どちらも」と顕如が言ったのでなるほどと肯いた冶重郎。

「しいて言えばどちらに?」

「どちらも」と当たり前の顔をした顕如

「では公方様に問われたら?」

「どちらも」今度はくどいという顔をした顕如

「それでは如春尼様に問われたら?」

「……」

「いまひとつ、お上人は往生を信じておられますか?」

「……」

「これは失礼いたした。まったくの愚問。ともあれ川内は元々尾張領ゆえ万一事が起きても内紛でございます」と言いながら封書を一通渡した。

渡した肩と受け取った肩がすくまり、二つの肩が寒々とした縁の向こうを見ていた。

   *

内藤冶重郎は措いて、客間ではなく義昭の居室に通された。

「客間は広すぎて寒い」義昭がぶすっと言った。

怒っている振りをしている義昭の左に側近の曾我兵庫頭助乗の慇懃な不服顔が控え、右に澄ましているが何か落ち着かない様子のお菊が控えている。

今日来た理由の口上を型通り述べた村井貞勝のあとを受け、緊張を隠した光秀が義昭を怒らせた案文を改稿した「五か条の条書」を示し承諾を求めた。

お菊の手を経て条書を受け取った義昭。一枚の紙に書かれた写しの第一条から第五条まで何度も読み返し、お菊をちらっと見て曾我助乗に条書を渡し思案する義昭。

「弾正忠どのはこの次いつ来られるのだ、光秀」

「さあっ、義昭さまのお怒りに恐れをなしているようで……」

「まさか! しかし、表現は変わっているが内容は同じだな」

「おそれながら今日までのご苦労をおもんばかり、公方さまのお手もお気も煩わすことなく気楽に過ごされるよう臣信長日夜腐心しております」と言って平伏した光秀。

「分かっている」と肯いた義昭が言った。

「思うに、この館の造営にせよ内裏の修理にせよ、何もしないのにとやかく陰口をたたくだけのやからが横行しているなかで、上洛を決断し実行し実際にこれらの大工事を迅速に遣り退けようとしているのは織田弾正忠殿だけだ。何度も綸旨を出されたお上も満足されている。さらに、足を引っ張ろうと狙っている輩を物ともせず、三好勢を京から追い払い命からがら逃げ回っていた覚慶を征夷大将軍に据え、安心して眠れる館で引きも切らぬ拝謁者に将軍様だとふんぞり返って居られる身になんの不満が。いささかいい気になってこの前は忘れていた。それを思い出させてくれたのがこのお菊だ。しかし光秀、正式に妻にしたいわたしの求めを拒否するお菊の心根はいかがなものだろう」

この男は賢いというより性格がいいのだと思った貞勝が微笑を浮かべた。

(幼い頃難儀な目に遭うとそれを取り返そうと我が強くなる。特に身分の高いこの男が人一倍我侭になっても不思議はないのに、苦労が謙虚さを養ったまれな事例だ!)

 

「お菊が身分のことを気にしているのなら摂関家の猶子になれば良いがそういうことではなさそうだ。妻になって将軍の世継ぎを生すのが望みのはずだが? 違うかお菊」

「世継ぎを生すのと妻になるのは別のことです」

「なぜだ、妻になって子を産むのが一番だと思うが」

「この乱世の真っただ中を生きてこられた公方さまのご本心は庶子ならまだしも、嫡出子が出来るのが怖いのです。望まれない子を生す気にはなりません」

「まったくお前は何が望みなのだ菊!」

条書の件はそっちのけで話が変わってしまったとき、襖の外から(内藤冶重郎様お入りになられます)と女の声がして襖が開き敷居を跨いで将軍に一礼した冶重郎が光秀の隣に座り、「条書の話は済んだのか」と顔を光秀に向けて言った。

肯いた光秀が、「ご用はお済になられました?」と逆に訊いた。

「済んだ一応。それで御袖判はいただいたのか?」と冶重郎が訊いた。

「それは未だです」と光秀が言ったので、「では貞勝殿、公方様のご決断に敬意を表しすみやかに御袖判をいただきましょう」と義昭に会釈して言った。

肯いた村井貞勝が文箱から取り出して義昭のまえに置いた文書にはすでに信長の自筆で署名捺印がなされ、後は袖に義昭の印が押されるだけになっていた。

「ほうっ相変わらず手際がいい。お菊、手文庫をここに」

はいと元気に返事をしたお菊が微かに眉を顰めた曽我助乗に会釈し、床の間の違い棚に置かれている手文庫を掲げて恭しく義昭の横に置き、僭越ですがと言った。

 

「公方さまはまだお若こうございます。この事書のとおりに弾正忠様の庇護のもと気楽にお暮らしになられるのもよろしいでしょうが、それにはそれなりの失礼ながら覚悟と資質が要ります。かつて一乗院で籠の鳥に嫌気が鎖したように、公方さまの才気がいつしか鬱積した不満になって爆発する恐れがないとはいえません。爆発は混乱を生じます。ですからこの条書は尊重するとして、毒ぬきにみなさまもご存知の(役)を演じ続けられたらいかがでしょう。義昭様にふさわしい筋を通したがる征夷大将軍の役を。既得権を主張する勢力を打ち壊そうとする織田弾正忠信長との競演、なかなかの出し物でしょう」

戦乱の立役が入り乱れ、音も無く都大路で六方を踏んだ。

「その台詞、確かに三郎さまに伝えましょう」と感嘆する村井貞勝

(さっきのお話)と言いながら、部屋の一郭にしつらえられた書院から文机を運んできて曾我助乗の前に置き、その上に文書を、横に手文庫を置いてお菊が言った。

「妻になってしまったら色々な手続きがあって簡単に別れられないでしょう。今のままでしたら、嫌になったらさっさと在所に帰れますものこの前のように」

今後もやりかねない様子に(かなわんな)と口の中でつぶやいたのとははうらな表情の義昭が文書に花押を押すことを曾我兵庫に命じた。

複雑な表情で肯き、お菊をちらっと見て手文庫から義昭の花押型を取り出し文書の右端

に力を込め印した曾我兵庫をさりげなく窺っていた冶重郎の顔に微苦笑が浮かんだ。

  *

部屋に漂う心地よいざわつき感を微制した村井貞勝

「ご迷惑ついでにわたしの用件を取り急ぎ」

「いや案ずるな貞勝」ホッとした様子で義昭が言った。「どうせ退屈な正月だ、他に来る客はいないからみんなが帰ったら寒くなる、ゆっくりしていけばいい」

それでも早口になった村井貞勝が近隣の大名や領主に将軍の名で(信長が会いたがっているので、温かくなったら上洛するように)との触状を出してほしいと言った。

目的は、上洛以来織田弾正忠信長がやったこととやり始めたこと、形が見える二条舘の造営や皇居の修理。(殿舎全部の修理は今から始めても今年中には終わりそうもないほど荒れ果て、築地も所々で崩れ童達が潜って遊ぶ竹矢来で囲っている惨状)他に撰銭令の発効を始め市や座や通行税の廃止等経済的施策。それに形は見えないが将軍家の安定や御料回復による正親町天皇の満足など、来て見て評価してほしいからだった。

「三郎さまは人に褒められて元気が出るお方なのだ」

白髪が目立つ老臣の妙にあからさまな信長評に感心する一同。

「呼びたい諸侯の名を挙げておきます。ただ、今雪に埋まっている一乗谷朝倉義景殿には雪解けを待ち、こちらから直接書状を送ることにいたしたいと思いますがよろしいでしょうか?」と言って窺う貞勝。承知したと肯く義昭に、「顕如上人とはどのような話を、よろしかったらお聞かせください」と言って首をかしげた冶重郎。。

ちょっと思案した義昭が、「ここだけの話だが、女房殿とのイサカイとか出来すぎる息子とのせめぎあいとか、勿論あの大組織の長だから仕事の悩みは五万とあるに違いないがもっぱら家庭内の愚痴だ」と言って他言無用と付け加えた。

「内裏で小耳に挟んだ噂だが、顕如殿の奥方は細川晴元の女と言われているが、出は高位の公家の姫君。出自を鼻に掛け我侭で手を焼いているらしいと……」と貞勝。

「そう奥方を敬遠している口ぶりだ」と義昭。

「三郎さまも奥の方から逃れるためイクサ場を駆け回っているわけで、三郎さまの大音声はイライラを解消するためと聞いたことがある」と貞勝が言った。

顕如も笑いながらだが、喧嘩したら読経する声に力が入ると言っていた」

と義昭が言ったのですかさず義昭を覗き込んだお菊が言った。

「イクサ場での大音声や巨大なお堂を震わすほどの読経。そんな場も習慣も持たない公方さまのイライラを解消する方法はなんでしょう。お酒もさほどめしあがらないし、でもお酒がなくても妄想はできるのです。義昭さまは妄想で酔えるのです」

妄想? なんのことだと戸惑う義昭に、「一乗院で養われた妄想はお得意でしょう。これからは二人で策略を立てて三郎さまをやっつける妄想で楽しみましょう」とお菊が言ったのでさすがに、「おまえの冗談はきつ過ぎる言いすぎだ」と叱責した。

叱責され、「もうしわけございません」と素直に謝るお菊の悪びれた様子もみせない頭の下げ方の可愛らしさを初めて目にした男たちのほおっという顔と、娘を見るような眼差しになった曾我兵庫の様子を見てちょっと誇らしくなった義昭。

真宗本願寺の脅威は措いて、私人光佐の身の置き所の無い私邸の様子を描いて頬を緩めた冶重郎があらためてお菊をながめ(妄想だけならいいが)と思った。