近江路② 

永禄九年(一五六六)十月一日.夕七つ

市姫の長い昼寝が覚め再び出発した行列の最後尾列外。けしかけたようになってしまった立会い騒ぎに気分が晴れないお春。小六が用意した駕籠を下りやれやれと伸びをして歩き始めたお春に、腹に一物ありげな光秀が並び掛け歩調を合わせた。

「よい輿入りだわ。それにしても近江路は血の臭いがしないわねえ。無論たくさん流れている筈だけど姉川に流れている血はみんな名札つきの血、光秀の血とか」

とお春が言うと、「わたしの血は名も無い血ですよ」と言って笑った光秀の謙遜に隠した自恃の念を感じたが受け流し、改めてこの得体の知れない男を窺った。

初めて息がかかるほどの近さで接した澄んだ眸なのに濁声のこの男、小太りでもういい年なのに女が抱かれたいとは思わないが抱いてみたくなる不思議な雰囲気を感じて眉を顰めたお春の疑念に構わず、「亡くなった勘十郎君の母御は土田氏だが、弾正忠殿の母御は土田氏ではないという噂を聞いたことがあるが……」と言って光秀もお春を窺った。

三郎信長の実母は知らないが乳母は知っている。

日陰の女だった母との思い出がいっぱい詰まった那古野城で泣き虫の吉法師を泣かせて喜んでいた日々。父を池田恒利に持つ春代は三郎信長と一ヶ月違いの乳姉弟なのだ。

   *

「あんた帰ったら三郎さまに呼ばれているんですって!冶重郎さまが言ってたよ」

と光秀の疑惑をすかすように突然お春が言った。

突然言われて光秀の澄んだ眸に赤みがさしびっくりした拍子に良いとこを衝いた。

「化粧方として弾正忠殿の頭を最初に触ったのはいつのことです」

「そんなこと……まあいいか教えてあげる。今から十五年前、道三様と三郎さまの会見のとき帰蝶さまに呼ばれ、お市さまも来ていたからお二人の顔をさわったあと、あの屋敷に泊まっていた道三様に三郎さまの所に行くように言われたの」

三郎信長の頭をさわり着付けたことは話したが、京仕立てという長袴とちいさ刀を道三から

渡され、聖徳寺まで持って行ったことは聞かれなかったので言わなかった。

「道三殿の姉妹が揃って屋敷に何故?もしかしてそうに違いない」

「なに、思わせ振りに、言いたくなければいいけど……」

「還暦を越しわたしはもう終わった漢と言っていた斉藤道三。若い信秀に先を越され落ち込み弱気になって会いたくなった。婿の信長に会いに来たわけではない二人の娘に会いに来たのだ。もっともらしい道化芝居でおちょくって道三殿らしい」

あっ惜しい!(道三があの会見を望んだ真の理由を知っているお春)信長に会いに来たわけでないことは当たっているが金的は外している。明智光秀という男は時々記憶を無くすことがあると市蝶から聞いていたお春の顔が何故か悲しげになった。