庫裏①

永禄九年(一五六六)九月三十日。明六つ半。

「きのうの天気が嘘みたいにいい天気ですよ」と襖を開けながらお徳が言った。

「お春が居て安心しました。死にそうな目に遭いましたもの」と言う市姫に、先乗りに同行していたお春が髪を梳きながら、「普段の行ないが悪いからそんな目に遭うのですよ」と言う口の悪さは何時ものこと。三郎信長の頭を触りながら「三郎さまのおぐし細くなられて、もうじき禿げてしまいますよ」と言って辟易させたこともある。

女達は雪に痛めつけられた行列の着物を繕ったりする作業を手伝うため直ぐ近くにある白川神社に朝から出かけていた。簡単な朝食をとりお膳を片付けたお徳が、また寝ますからと市姫が言ったので片隅に寄せた寝床を気にしながら、「わたしも神社に」と出かけて行ったのと入れ違いに小六を伴い冶重郎が姿を見せた。「おやっ冶重郎殿ではありませんかお久しぶり」と市超が嫌味を言った。「ご無沙汰しています。お元気でなにより」と返した内藤冶重郎と市姫を交互に見て笑った蜂須賀小六をちょっとにらんで市蝶が言った。

「おやまあっ小六殿まで。いまお徳が出て行きましたが会いませんでした」

「いやっ裏木戸から入ったので……お元気そうで恐悦至極、です」

「お春と小六殿は初対面かしら?」

「知っているわよ小六さんは。むかし筏で木曽川を下ってきた人」

「冶重郎殿と三郎様と一緒に桜の下で手をふっていた女の子!」

「そう、そのときの女の子。久しぶり。お徳殿のことを調べているの小六さんは?」

と言うお春に、「おやっそれは知りませんでした。お徳は知っているのかしら。小六殿に揶揄されましたけど吾助に抱っこされて気持ちよかったのはほんと。吾助の怪力を目の前にしてびっくりした冶重郎どのお顔も面白かった」と市蝶が言った。

「わたしお市さまが落馬したときの方がびっくりしましたが……」と冶重郎。

「落馬?わたくしは白竜から落ちて気を失ったのかしら。そして吾助に抱っこされて気がついたわけなの。それで、わたくしを落とした白竜はどうなりました?」

「足を傷めて動けなくなったのでわたしが楽に……」と冶重郎。

「冶重郎どのが楽に……」何かを思い出しそうな市蝶。

「さよう。それからお市さまが足を傷めたと聞いた小六殿がこの近くにあった神輿を改造した輿を用意しているようです。お市さまに喜んで乗ってもらえるように」

「白竜が死んだのでわたくしは輿に乗るのですか」

お市さまの代わりにお徳を馬に乗せたがっているのが小六殿」

「お徳を馬に?それはいいのですがわたくしは承知していませんよ輿に乗ることを、足はもう痛みませんし。それになぜお徳を馬に乗せたがっているのですか小六殿が?」

「お徳の乗馬着姿を見たいからと言って見栄えのいい馬を小六殿が探しています」

「もしかして、墨俣の砦で見たお徳の乗馬姿……小六殿はお徳に惚れたの?」

「惚れた!おやまあ。小六さんはお徳殿が好きなの?」と念を押すようにお春が訊くとあわてた小六が、「いやっ、もうそんな歳ではありません」と髭まで赤くなった。

「お徳はもう年増といってもいい歳。小六殿とおにあいかも徳殿に好かれているの」

「それは……」と自信無さげに髭を撫ぜる小六。

「お徳の気持はわたくしが確かめてみます。いい馬が見つかるといいですね」

と言ってふっと微笑んだ市蝶の様子に輿に乗ることを承知したと勝手に判断した緩んだ空気が漂い、ここからは茶飲み話という感じでお春が言った。

「冶重郎さまも小六さまも女の気持は手の内で釈迦に説法でしょうけど、もし馬で早駆けしていて曲がりそこない木にぶつかって落馬したとしたらどう思います」

どう思いますかといわれても馬が苦手だからと呟き、「おのれの間抜けさバカさ加減を笑うか嘆くか……」と言う正直な小六に改めて好感を持った市蝶。

「ところが女はそこに木があるのが悪いと思えるの。とにかく木が悪いと言い張れるのが女の性。もっとも近頃では木が悪いと言い張る情けない男が増えましたけど。理屈ではなく殿御は女御を理解していたわってあげないと、それが男の値打ち」

ねえっ冶重郎さまとお春に顔を覗き込まれたが、オレは鈍感だからと苦笑して言った。

「しかし過ぎると男が参る。手が出る足が出る」

そこが問題なのとお春も笑って言った。「手や足が出るのも困るけど、誇りを取り繕うためイクサを始めてしまうのが男。違いますかお市さま」

「違わないけど、男の誇りを操る女の怖さや狡さは女が知っています。でも、男女の仲は理屈ではありません。小六殿とお徳、二人はお似合いです」

どこか投げやりな市蝶が手で口を押さえてあくびをした。

お市さまはお昼寝をしたいようです」と言って部屋を出たお春に続き二人の男は庫裏を出ながら(お春は大げさなのだ)と同じように思ったが口には出さず、庭を掃いている頬かむりした長身の寺男を横目に神社に向かった。

ひとりになった市蝶はふっと気が抜け無性にねむたくなり(小六殿も大変だ)と思いながら片隅に寄せてある寝床に入って長押の薙刀見ていたら瞼が重たくなった。