藤川の里は朝から晴天だった。木下秀吉に手を取られ(お市さまのおぼしめしにかなうよう骨を折ってくれ)と頼まれたのが八月の末。お市様はともかくあの女の為ならと思って小六組の郎等を引き連れ近江に来ていた小六が、「気持ちいい天気だ。関が原も上天気だろう」と言ったら空を見上げていた里人の弥平が、「雪がくるな」と言った。

「なぜだ、雲ひとつ無いのに」と空を見あけて怪訝な小六に、「風に雪のにおいがする。琵琶湖のむこう、海からの風に乗ってやってくる雲がこの辺りから雪雲に変わり、風の通り道関が原で今日はたぶん昼ごろからドカッと落ちる。もっともドカッときても一時の雪だから動かなければ大丈夫。間道に迷い込み地吹雪が来てうろたえたら危ない」と弥平が言ったので空を見上げてそんなことは無いだろうと小六は思ったが地形がわずかな距離で空の模様を激変させ人の性質をも支配してしまうことは知っていた。「外れそうな分かれが何箇所かある」と弥平が心配そうな顔をしたので血の気が引いた小六。

尾張と京を隔てて南北に鈴鹿山脈が連なっている。南の端の鈴鹿峠を越えて京へ行く東海道より、北の端の関が原を通る東山道のほうが行き来し易いのでとりあえず墨俣に拠点の砦を構えたということはお徳も知っていた。しかし雪が深いのが難点だった。

降り出したら一気呵成だ関が原の雪。その怖さはお徳も知っていた。

関が原盆地を抜け山道をだらだらと下りはじめてしばらく行った間道との別れに差し掛かかった。待っていたかのように季節はずれの雪が突然ドカッと落ちてきた。

「雪だ!合羽をお徳」と冶重郎さまが反射的に言った。

一面が白くなった。周りを見渡すと雪が降っているのは行列の周りだけ。幻覚かと思いながら合羽を積んだ駄馬に向かった。気配を感じ振り向いた。後ろ足を蹴上げた白竜から市姫がアッと叫んで振り落とされた。木狐紋の陣笠が飛んだ。市姫の形相が変わった。スパッと抜いてかざした白刃を止めようと踵を返した私の市女笠も飛んだ。

慌てて下馬した冶重郎さまも間に合わず振り下ろされた白刃でズバッと白竜の首が断たれた。噴き出した鮮血が雪を染めた。「まあっきれい」と於市さまの喚声が響いた。悲鳴を上げて右往左往する一行。視線を感じ振り向いたら山本佐内が私を見ていた。山本佐内に気を取られた一瞬の隙に絶たれた白竜の首に驚いた五郎丸が来た道を一目散。それにつられたように合羽を積んだ駄馬も小者太平が持つ手綱を振りほどいて遁走。

重なる不手際に自失したが気を取り直し、握るヤイバの刃文からツウッと垂れ、雪に滲みた潜血に見入る市姫の固まった右手にハアッと息を吹きかけ小指を引っ張って小太刀をもぎ取り、血濡れたヤイバを片膝立てた着物の裾で一気に拭き取り白い静寂をチーンと鎺で裂いて鞘に収め帯にすっとさした流れのなかで一瞬の裾の乱れ、黒い脚絆の膝の端から奥にチラッと覗かせた腿の生足が山本佐内の目に映ったに違いない。

そんな行為には頓着なく(合羽がなくては)と呟いて来た道を逃げ去った五郎丸の足跡を窺った冶重郎さまが引き返しそうな素振りを見せたので咄嗟に雪ダマを投げた。西来る寺で目が合った若い侍が私に倣って雪ダマを投げてくれた。その一つが間道との別れに佇む於市様をかすめて爆発した。振り返った於市様が爆発に背中を押されたのか薄い笑みを浮かべて間道に入って行った。迷いながら後に続く侍女お香。ふらふらとつられる一行。首をかしげた冶重郎さまは雪ダマを投げた私を目の端に捕らえてもいたので、この雪もこの地吹雪もお前の幻術では無いかと言わんばかりの表情で私を見た。

間道に入ってしまった行列。待っていたかのように前方からひときわ強い風が襲い掛かってきた。猛烈に雪を巻き上げ白い闇に視界が塞がれた。「きゃあっ」と嬌声にも聞こえる女たちの悲鳴に煽られた男たちが闇雲に白い闇を掻いていく先も定めず列から離れようとする気配がした。「動くなかたまれ」と冶重郎さまが叫んだ。体を震わせ私に縋り付いていたお市さまが、「お香は浅井に留まるのかしら」と脈絡もなく言ったのは恐怖を紛らわせるためでしょうがわたしには、「無事に行き着けたら尾張のことは忘れお互いにきれいな体で出直しましょうね、お徳」と行き掛けの駄賃のように言った。

那古野城で初めて迎える元旦の闇を漂い去年(永禄元年)の十一月、清洲城の奥の間で

血塗れた抜き身を握った市蝶さまを呆然と見ているだけの三郎さまを退け固まった指を開いてもぎ取り、血の滴る勘十郎君に頬擦りしている身重のわたしから生首を取り上げたのは駆けつけた冶重郎さまだったと赤子の寝息で思い出したのと同時に三郎さまの心配そうな父親顔も浮かんだのに、勘十郎君のすべすべした肌を懐かしがっている自分が不安になりお市さまの豊かで暖かな胸に顔を埋めたら安心できるなんて図々しいにも程がないが時として思い出しぞっとするのは冷たくなった母との別れと首を刎ねた快感》

  *

風も止んで雪も止み音が止んで時間も止んだが寒さは止まない。

震えながらこのままじっとして小便臭にまみれ凍え死ぬくらいなら歩いているほうがましなのでよたよた歩き続ける一行。遮る濃い霧の中に蠢いていた遠い灯りが急に目の前に現われた。「お市さまの輿入れとお見受けしたが」と大きな影が大声で言った。

「さよう」と答えた冶重郎を照らした龕灯がくるりと返り髭面が現れた。

お市様をお迎えにまいった。わしは木下秀吉が手の者蜂須賀正勝、通称小六」

よく通りはっきりした声と龕灯に映える白い歯がむかし、春の日の木曽川の激流にうねる筏の上で遠くキラリと光った白い輝きの記憶につながり安心した気持が小六の手をぎゅっと握り、「供頭の内藤冶重郎、遅いぞ」と理不尽に文句を言った。

「すまん」と言ったがそれには上の空の小六が白い闇を透かし、「見たところ馬がいないがおなご衆はみんな無事か」と不安を隠して女の安否だけを訊いた。「馬は死んだ。みんな無事だが於市さまは足を痛めている」と冶重郎が言って市姫を指した。

「無事か!しかしお市様は足を痛めている?かごがある」

と言いもって市姫に寄り添う女を墨俣で出会った女と見定めホッとした小六が後ろの闇に大声で呼んだ。「源次郎~かごと吾助を前に、かごと吾助を早くここに」

白い闇から町駕籠に付き添うように現れた吾助という名の若者二十前後か。肩幅が異状に広く、着物越しに筋肉の盛り上がりが窺えるほどの異型夫に小六が、「姫様を駕籠え、姫様は足を傷めている」と言って指差した市姫を確認した異型夫がスッと近寄りいきなり根こそぎ横抱きにふわっとすくい上げ、(あっと)声を出す間を与えず顔を寄せ両手であらがう隙もなくクルッと踵を廻すと苦もなくまるで赤子を扱うようにかがみこんで駕籠のなかにそっと下ろした龕灯のなかの光景に冶重郎の口がアングリした。お徳にもたれて弱っているお福に目を付けた小六は薬らしきものを素早く飲ませ、風雪よけの桐油紙が駕籠に被せられている間に嫌がるのを構わず吾助の背中にびったりと括りつけた。

小頭源次郎の合図でゆらりと駕籠が持ち上がり市蝶もゆらりと揺れた。

宙に浮いてクルッと回った幼い記憶はすべてをゆだねる快感と共に常に心の中心にあった市蝶だがそれにしても、あまりにも軽々と抱き上げられた衝撃に落馬したことを思い出した。抱き上げられたとき間近に見た吾助という名の男の碧い眸を改めて記憶し、真っ暗な揺れる駕籠の中で右足首を撫ぜながら乾いた足袋に履き替えようとしていた。  

「あわてるな、里は近い」と小六の大音声が暮れ始めた山間にこだまし、「寒いのもいま少しの辛抱」と松明に照らされ揺れる駕籠に向って付け加えお徳を窺った。