元亀三年(1572)秋八月。

江北に出兵した陣から密かに離れ京に入った信長は、外冦の脅威で共鳴する将軍義昭を二条館に訪ねた。迎えに出たお菊が避ける三郎信長の目を追い、「お久しぶりです」と言いもって無理やり合わせた目が、一度でいいから肌を合わせたいと訴えた。

九月。打ち合わせ通りの十七か条からなる異見書が信長から義昭に送られる。

   *

元亀四年(14573)春二月末。

姫屋敷を訪れた遥子は咲き乱れる桜花の下に立ち、三郎信長が呟いていたことを思い出して噎せた。お徳は切ないのだ! 人生が切ないように、お徳は切ないのだ! 

 * 

元亀四年(1573)秋七月中。

前髪姿が奇妙に見えはじめた奇妙丸は二人の弟と一緒に十七歳で元服。父信長の烏帽子親で勘九郎信重となり翌天正二年四月従五位下に叙任され信忠と改名。

   *

元亀四年(1573)七月二八日に元亀から天正改元される。

   *

天正元年(1573)秋八月。

将軍が京都に居ては速やかな天下統一の妨げになるゆえ将軍料所は譜代の臣に分け与え京都を退去すると言う義昭。でも楽しい思い出を胸に芝居は続けますと言うお菊。

   *

天正元年(1573)秋八月から九月。

八月 十日 木の芽峠を超え一乗谷を席捲した織田軍は取って返し小谷城を攻撃。

八月二十日 朝倉義景/景鏡の大野で自刃*享年四一歳。

八月二八日 浅井久政小谷城小丸で自刃*享年四八歳。

九月 一日 浅井長政小谷城本丸で自刃*享年二九歳。 

浅井親子を介錯したお徳から、市之介を介し渡された夫長政と義父久政の血くさき首に頬ずりしたお市の方は二人と交わした約束、おはぐろを化粧し紅を注した首を抱いて三日三晩均しく愛おしみ、霊魂が宿るという薄濃に仕立て、命のある限りお祀りするという約束を果すため二つの首を抱いた市蝶は三人の娘とお福、それに、この日を思い長政の側女になり殉死したお香の首を抱いた吾助を連れ、(ちなみに、二人のどちらが殉死するかを決めるのにお市さまがくじ引きを提案したがお香が承知しないので仕方なく、長政に選んでもらったら躊躇なくお香を選んだ)真沙羅な筏で宙に舞い、一乗谷を眼下に同乗した市之介とは大野で別れ、かつて信長が狂気を見せた高嶺を一気に飛び越えた。

伊勢長島①

天正二年(1574)九月。

九鬼嘉隆勢を中心とする水軍に援護された織田軍は積年の恨みを果すべく、憎くき長島門徒勢に総攻撃をかけ、長島・中江・屋長島の三城に追い詰めた。

「無益な殺傷はしたくない」という元服して優れた能力を発揮し始めた信忠の進言により兵糧攻めで様子を見ることにしたが、蓄えた食糧は尽きたはずなのに降伏する気配を見せないのでイライラした信長が、「十字架にかけられ殉教して神の子になったように、万余に及ぶ門徒も焼き殺して殉教させ如来の子にしなければならない」と言い出し困った信忠が冶重郎と相談した結果、来年の収穫を考え、特殊な川内の農作業には今の百姓が必要だからと言う理由で煙幕を張り逃がすことにした。その間に降伏すると言って開城した長島城の門徒が早まって翻り、織田軍に襲い掛かってきたので蹴散らした。

   *

秀吉に従って新六郎と共に長浜に居た小六は信長に呼ばれ、敦賀で馬を隠して首を刎ねられないかとびくついたことを思い出した。万が一を思い息子を長浜に残して信長の本陣に出向いたら内藤冶重郎が現れた。敦賀と違って今回は内藤冶重郎の仕業だからと安心して火を点けて回り、門徒十数人が刀を振り回しながら殉教の旅に発つのを横目に、生きとし生ける物に悲鳴を上げさせワッショイワッショイと誘導しながらこの件はバテレン騒動の時と同じように、三郎信長と内藤冶重郎との阿吽の業に違いないと顔が緩んだ。

   *

煙しか見えない二城に目を細めた信長が言った。

「規を超した宗門の宗徒を相手にする時は何時でも何処でも信長の命令で皆殺しにしたと言え。逃げた宗徒が大勢いたとしても、草の根わけて探し出し、信長の命令で皆殺しにしたと喧伝せよ。歯向かった末に降伏した宗徒は串刺しにし焼き殺し釜茹でにし、一人残らず信長の命令で惨殺したと言え。切り取った首は数知れず愉快なりと信長が言っていたとかの書状もあちこちに送らせろ、それが残って伝わる。殺した方も殺された方も嫌になるほど、この国に人が居なくなるほど、信長の命令で血か流されたと言え」

                                      了  

補足

天正六年(一五七八)十二月八日。 

万見仙千代/荒木村重有岡城で戦死*享年二十八歳。

天正七年(1579)月日不明。

徳川信康/父家康と衝突して命を失う*享年二十一歳。

天正十年(1582)六月二日。暁。

騒ぐ胸を抑えきれず本能寺に射掛けた織田信忠を一閃した公達が、血滴る信長

の首を抱いて真沙羅な筏で宙を飛んだ。織田信長*享年四十九歳。

皮一枚で繋がった首を抱えて本能寺を後にした信忠は、虫の知らせで駆けつけ

    た明智光秀により二条館で葬られる。織田信忠*享年二十六歳。

天正十年(1582)六月三日。朝。

二つの首を抱いた公達が微笑を浮かべて舳先に立つ、天柩行きの帆船を見送る家康の姿を堺の港で見たと人はいう。